歴史

大国相手に無双した『楽毅』は、多くの名将がお手本にした戦国時代の無敵将軍。

大人気漫画「キングダム」では、伝説の大将軍として描かれ、三国志演義の天才軍師「諸葛孔明」が尊敬した『楽毅』は、中国史を代表する名将である。

故事「まず隗より始めよ」にて、名君「昭王」と出会い、五か国もの大連合軍を指揮して無双した『楽毅』は、戦の強さだけでなく人間性も素晴らしい英雄であった。

そんな大将軍の中の大将軍『楽毅』をご紹介したい。

 

 

略伝

楽毅。中国戦国時代(前403~前221年)における燕の国の将軍。魏の国の使者として燕の国へやってきた際に、燕の昭王による手厚い待遇に応えて将軍となり、大国である斉の国を倒すために諸国と同盟を結び、連合軍を結成。それによって斉の軍隊を撃ち破る。

さらに、連合軍が解散した後も単独で斉の国を徹底的に攻略。結果として、斉に属する七十余りの城を降伏させ、斉の国のほぼ全てを燕の支配下に置いた。しかし、燕の昭王が亡くなり、代わりに楽毅を嫌っていた息子が王になってしまったせいで、楽毅は前線の将軍としての任を解かれた。楽毅は命の危険を感じて趙の国へ亡命したが、やがて、燕の王と和解した上で、趙の国の客卿(他の国から来て君主に仕えている者)として生涯を終えた。

 

 

功績とエピソード

①傲慢な大国を皆で撃ち破れ。諸国を連合させる見事な外交手腕
楽毅と言われて、ああ、名前は聞いた事がある、と、思う方は多いかもしれない。なぜなら、彼の名前はかの有名な『三国志』の中に登場するからだ。三国志最大の英雄の一人である諸葛孔明が理想とした戦国時代の有名人こそ、楽毅である。

楽毅が活躍した中国の戦国時代は西暦では前403~前221年の事だ。一方、三国志の時代は220~280年の事だ。つまり、楽毅の時代と孔明の時代ではおよそ500年ほどの開きがある訳だ。では、楽毅は具体的にどのような功績を挙げて天下に名を轟かせ、約500年後に孔明の心を震わせる事になったのだろうか。

中国の戦国時代は七つの強国が覇を競った時代だ。その中でも、当時、燕の国はとても弱かった。しかし、燕の王様である昭王はどうしても東の強国である斉の国をブチのめしたかった。なぜなら、昭王が即位する前、燕の国はひどい内乱状態になって危うく国が滅びかけたのだが、実はその内乱を裏から手を回して引き起こして操っていたのが斉の国だったからだ。

しかも、斉の国は最後には自ら軍隊を出して燕の国を攻撃してきた。なので、燕の国からすれば、斉の国なんて存在はまるごと東の海へ沈めてこの世から消してしまいたいくらいに邪悪だと感じても仕方の無い事だ。とは言え、燕の国にはとにかく力が足りない。なので、昭王はまず優秀な家臣を集める事にした。それに応じたのが、頭脳明晰にして兵法の達人である楽毅! 反則級に無双できる最強将軍! こうして昭王と楽毅による、斉の国を絶対滅ぼす計画が始動した。

当時の斉の国はとてつもなく強く、様々な国へ喧嘩を売っては勝利し、相手の国を滅ぼす事さえしていた。さらに、屈服させた国々と共に、西の大国である秦へ挑むほどの勢いがあり、斉の王様は一時は王ではなく帝と(みかど)名乗るほどに力を誇示していた。そんな大巨人へ向かって燕の国のような小人だけで戦う訳にはいかない。小人が巨人を倒したければ小人同士で集まって巨人を寄ってたかってやっつける必要がある。

楽毅は自ら趙の国へ出向いて同盟を結び、楚の国や魏の国とも同盟し、さらに、西の大国である秦にすら働きかけた。なぜ、このような大同盟が可能だったかと言うと、まず、斉の国が横暴であり、どの国からも憎まれていた事が挙げられる。そのような所へ皆の恨みの力を結集してくれそうな信頼できる将軍、つまり、楽毅がやってきたのだから、どの国も渡りに船とばかりに連合軍へ参加または協力した訳だろう。もし、楽毅がいなければ、斉の国による侵略は続き、燕の国も無念を晴らす機会を得られず、人民も斉の国からの圧力に苦しめられ続けたかもしれない。

②楽毅の無双、斉軍をひたすら撃破
楽毅の呼びかけに応じて集まった正義の五ヶ国は、燕・趙・魏・韓・楚。秦は遠いから仕方が無い。留守の間、後ろから襲い掛かって来ないだけでもよいと言った所だろう。楽毅は五ヶ国の連合軍を率いて、東の斉の国へ進撃した。

済水の戦いで大勝利、斉の軍隊は敗走。連合国は満足した。これで斉の国も大人しくなり、遠征で本国を留守にし続けるわけにもいかない。各国は解散して自国へ帰っていく。だが楽毅だけは違った。最後の一城まで奪い尽くすべく進軍した。
その後の楽毅率いる燕の軍隊の無双ぶりは、修羅のごとくであった言えるだろう。

楽毅率いる燕の軍隊が攻め込んできた事によって、斉の王様は首都を捨てて南へ逃げた。楽毅は斉から奪った財宝を燕の国へ送った。燕の王様は大いに喜び、自ら済水までやってきて、兵士たちをねぎらい、報酬を支払い、美味い物を食べさせ、楽毅には領土を与えて昌国君と言う輝かしい称号を与えた。さすが燕の王様は楽毅に認められるだけあって、兵士や将軍の心を掴む事が上手かったようだ。

楽毅は王様が帰国した後も斉と戦い続ける。そして斉の国の城を次々に陥落させていく。

それから5年後。楽毅が手にした斉の城は七十あまりに達した。これは斉の国の城のほぼ全てだ。残りはたった二つの城のみとなった。もはや、斉の国は風前の灯火であり、どうあがいても魔神のごとき強さを誇る楽毅に対して逆転する目は無いかと思われた。

③悪意に囚われた息子の罠
その時、大事件が起こった。楽毅を心の底から信頼していただろう燕の昭王が亡くなったのだ。後を継いだのは息子である恵王だ。しかし、彼は楽毅の事を嫌っていた。

そこへ狙いを付けたのが斉の国の恐るべき知恵者である田単だ。彼はまるで孫子の生まれ変わりのごとく振る舞った。つまり、彼は燕の国のスパイを逆に自分のスパイに仕立て上げて燕の国へ送り込み、そこで「楽毅がたった二つの城を陥とさないでグズグズしているのは、燕の国を裏切り、自分が斉の国の王として独立するためだ」と言わせた。燕の惠王はその話をすっかり信じてしまった。元から楽毅を嫌っていた燕の惠王は、自分に都合の良い話を吹き込まれた事で、それ見た事かと言わんばかりに楽毅に帰国命令を出し、代わりに別の将軍を斉の国へ送り込む事にした。

だが、楽毅は当代きっての切れ者。新しい王による憎しみに満ちた不自然な命令に対して何も勘付かないほど鈍感では無い。彼は惠王が自分を殺すかもしれないと考え、燕には帰国せず、代わりに、趙の国へ亡命した。

こうして、楽毅は戦場から去った。とは言え、燕の国の軍隊は未だに斉の国のほぼ全てを支配している。ならば、楽毅が居らずともどうにかなるのでは、と、考えるのも一理ある。だが、戦いの結末は、楽毅の存在がいかに偉大であったかを如実に示す物だった。

楽毅を失った燕の軍隊はたちまち愚かな集団に成り果てた。そのような軍隊では孫子の化身のごとき田単の手に掛かってはひとたまりも無い。田単は謀略を次々に発して燕の軍隊に悪事を行わせ、それによって自国の民衆の戦意を極限まで引き出した上で、火牛の計(沢山の牛のしっぽへ火を付けて敵軍へ突撃させる計略)を用いて燕の軍隊を散々に撃ち破った。その勢いのまま斉の全土をたちまち呑み込んで、燕の軍隊をことごとく国外へ撃退してしまった。こうして、楽毅の功績は全て消え去った。

④趙の国より謹んで物申す。災いを避けつつ義理を通す心意気
楽毅の戦いは完全に終わった。彼は趙の国にて領土と爵位を与えられた。その土地は燕と斉の国の両方と接していた。

つまり、趙の国は、これらの国に対して、楽毅を通じて睨みを利かせた訳だ。一方、燕の惠王は楽毅を交代した事を後悔していたが、それでも相変わらず楽毅を恨んでおり、「なんで私を捨てて逃げてしまったのか。私に罪を犯させたのは悪口を吹き込んだ部下であって私は悪くない。君は私の父から恩を受けたのだから、それを返しなさい」などと、未練たらたらな手紙を楽毅に送ってきた。楽毅からすれば噴飯ものだろうが、律儀な楽毅は丁寧に返事を書いた。

その内容を簡単にまとめると、「貴方のお父さまは本当に素晴らしいお方でした。ですが、貴方のおっしゃる事に従って国へ帰っていたら、私はひどい目にあわされ、これまでやってきた事を台無しにされた上に、貴方のお父さまの名誉にまで傷を付けられてしまったでしょう、かと言って、貴方がお疑いになられたように、斉の国を力ずくで自分のものにするなんて、やる訳にはいきませんでしたので、こうして、余計なことは言わずに去ったのですよ。貴方の側には、困った人たちが集まっているため、直接お会いするのは危ないですので、手紙でお返事する事をお許しください」との事だ。

紳士で君子である。このように、楽毅は単なる戦争屋では無く、人間としても立派な国士であった。こうして、楽毅は惠王を安心させた上で、燕の国と趙の国の間を往来するようになった。彼は趙の国にて余生を過ごした上で、平和のうちにその生涯を終えたのだった。

 

 

逸話、伝説、評価

①「まず隗(かい)より始めよ」昭王はかくして楽毅を得た
楽毅に敬愛された燕の昭王はどうやって優れた人物を集める事が出来たのか。普通に求人広告を出しただけでは滅亡寸前の弱小国家に最高の人材が就職してくれる訳が無い。そんな感じの昭王の悩みに対して、郭(かく)隗(かい)と言う人物が、「そんなら、まずはこの私をとてつもなく大切にして祀(まつ)り上げてみてください(まず隗より始めよ)。私なんぞしょうもない男ですが、だからこそ、あんなしょうもない男でさえ最高に大切にしてもらえるのだから、私が行けば神様待遇だな、と、本当に優れた者たちは思うでしょう」みたいな事を述べた。果たして、郭隗の言った通りに優秀な人々がどしどしやってきて、その中に楽毅も含まれていたと言う訳だ。口先だけで高収入を訴えるよりも、実際に現ナマをどっさり積んで部下に与えて実績を作った方が信用されると言う生々しい話だろう。

②「古の君子は交わりを断つとも悪声を出ださず」
これは楽毅が燕の惠王へ送った手紙の中に出てくる言葉だ。この後に「忠臣は国を去るとも、その名を潔(きよ)くせず」という言葉が続く。つまり、楽毅の立場からすれば、惠王に対しては百回文句を言っても罰は当たらないだろうが、そんなみっともない事は君子として出来ないし、去る時にわざわざ言い訳をしても仕方が無いと言う訳だ。実際、文句を言って絶交したり、こちらを憎んでいる相手に言い訳しても、自分の身を危うくするだけだろうから、処世術としても、去る時は文句を言わず、言い訳もしない方が良い、と言う事だろう。

③燕最後の王様、楽毅の息子に対して楽毅と同じ仕打ちをする
燕の国では楽毅の息子である楽間が長らく家臣として仕えていた。そして、時は流れ、燕王喜と言う王様の時に、楽間は、趙の国と戦争をしようとする王様に対して、戦争をしないよう忠告した。しかし、彼の意見は無視された上に、燕がその戦争に惨敗したせいで楽間の一族である楽乗が捕らえられてしまった。なので、楽間は趙の国へ亡命した。

しかも、それを知った燕王喜はやはり手紙を楽間へ送って、「ワシは愚かだが、昔の暴君よりはマシだろう。それなのに、ワシを見捨てて逃げた上に、ヨソに悪口を言い触らすみたいな事をするのはひどい」みたいな事を愚痴った。惠王の悪い所を露骨に受け継いでいる。もちろん楽間は燕の国には帰らなかった。燕の国はこの王様の代で滅んだのだが、楽毅の孫は、やがて中国を統一した漢の高祖劉邦によって家臣に取り立てられたそうな。

 

 

まとめ

楽毅は燕の昭王という優れた主君を得て軍事的な偉業を成し遂げた。その成果は昭王の後を継いだ恵王のせいで無に帰したが、楽毅は不条理に遭っても自棄になって暴発せず、また、命を奪われる危険も避け、一切の不満を述べずに国を去り、他国にて堂々と生涯を終えた。

三国志演技のスーパースター諸葛孔明が尊敬してお手本とし、国も考え方も何もかもが違う5か国をまとめあげた統率力。長い中国の歴史の中でも最高クラスの名将、大将軍の代名詞的な人物である。その激しさと清らかさと潔さを兼ね備えた立派な生き方が、子孫にすら恩沢を与え、後世の英雄にまで尊敬される結果を生んだのだろう。

 

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