歴史

岳家軍を率いた『岳飛』は、中国史上最高の英雄にして悲劇の将軍。

その功績を称え鄂王に封じられ、三国志の関羽と並べられて祀られている『岳飛』は、中国では屈指の人気を誇る大英雄である。田中芳樹さん、北方謙三さんの小説「岳飛伝」や岳飛を主人公にした「岳飛伝 THE LAST HERO」など多くの作品で主人公となっている。

そんな「岳飛 鵬挙」(がくひ ほうきょ)をご紹介したい。

 

略伝

岳飛。字は鵬挙。南宋(1127~1279年)建国期の将軍。抗金英雄の一人にして代表格。相州湯陰出身。貧しい農民の出だったが、1122年(宣和四年)に従軍。34年(紹興四年)には清遠軍節度使(軍司令官)になる。40年、停戦の合意を破って南下してきた金軍と会戦を行い、これを撃破。首都奪還まであと一息という所まで迫る。

しかし、本国より執拗に帰還命令を出されるに至って、涙を呑んで退却。41年、和平派の宰相である秦檜によって無実の罪を着せられて処刑される。だが、その類稀なる活躍ぶりに加えて、最後まで忠義と誠実さを貫いて散っていった人間的な美しさによってか、現代に至るまで中国で最も有名な英雄として祀られている。

 

功績とエピソード

①驚異的な力を持った弓の名手
岳飛は生まれた時に大きな白鳥が部屋の上にて鳴いたので岳飛と名付けられた。岳飛の力は驚異的であり、三百斤の弓と八石の弩を引く事ができ、しかも、左右どちらに構えても強弓を打つ事ができたと言われる。また、若くして『春秋左氏伝』や『孫子』『呉子』等の書物を読んで歴史や兵法に通じ、文武両道の優れた青年に育った。長じて軍隊へ加入。以後、南下してくる金軍や反乱軍との戦闘に明け暮れる事になる。

②靖康の変起こる
そもそも、なぜ岳飛が北から迫る金の国と壮絶な戦いを行わなければならなかったのか。それは金の国の勢力が増大した事に加えて、宋の国の政治および外交があまりにも腐敗していたからだと言える。

当時、皇帝だった徽(き)宗は書画に極めて堪能であり、芸術家としては優れていたが、政治的には能力が無く、大臣や宦官に政治を任せきりにし、自身は造園のために人民を酷使して綺麗な石や植木を運ばせていた。そのせいで各地にて内乱が頻発したと言う。芸術の世界での美を求めるあまり、人としての良心を蔑ろにしては害悪と呼ばれても止むを得ないだろう。ましてや、皇帝が己の趣味に溺れて政治を省みない事の弊害は甚大だ。

それに加えて、北方にて力を付けた金の国との外交ではひたすら最悪の行動を繰り返して自ら破滅を招いた。元々、宋の国の北には異民族国家である遼の国があったのだが、宋の国は金の国と同盟し、遼の国を挟み撃ちにした。しかし、宋の国の武力は非常に弱かったようで役に立たなかった。それなのに、宋の国は滅んだ遼の国の生き残りと密約を結んで遼の国を復活させようとし、それによって金の国を少しでも弱らせようとした。じきに、金の国は遼の国の生き残りを捕らえた事で密約を知った。当然、金の国は裏切り者である宋の国へ攻め込んできた。そして、今の宋の国には金の国の侵攻を止めるだけの武力が無い。

このような事態に対して、徽宗は皇帝の座から退いた。責任を取った、と、言えば聞こえは良いが、徽宗は代わりに太上皇となり、子供である欽(きん)宗を新しい皇帝にした上で、自身は南へ逃げてしまった。これでは息子に責任を擦り付けたと思われても仕方が無い。欽宗は莫大な賠償金を支払う事と、領土の一部を譲り渡す約束をする事によって、金の国と講和し、どうにか宋の国は助かった。

しかし、あろうことか、金の軍隊が去った途端に、宋の政府は強気になり、賠償金も領土も渡さないと言い出し、防備を固め始めた。金の国は裏切り行為を重ねる宋の国に対して侵攻を再開。金の軍隊は宋の国の首都である開封を陥落させ、徽宗と欽宗を捕らえて北方へ連れ帰ってしまった。時に西暦1127年。これを靖康の変と呼ぶ。

③抗金英雄への道
こうして宋の国は一度滅んだ形であるが、金の軍隊が侵攻してきた際に首都へ居なかった宋の王族である康王が南へ逃れ、27年、南京応天府にて帝位に付き、高宗となる。こうして、宋の国は断絶を免れた訳だが、やがて、金の軍隊が大軍で宋の国へ侵攻してくると、高宗はさらに南へ逃げて杭州に拠る。しかし、じきに、ここも危うくなったので、海路を使って南の温州まで逃げる。今や、金軍は中国大陸の大部分へ侵攻し、宋王朝を完全に終わらせる勢いだ。

しかし、ここで猛然と反攻を行ったのが宋の武将である岳飛や韓世忠だ(かんせいちゅう)。彼らの活躍によって圧倒的優位だったはずの金軍は撤退。32年、高宗は杭州へ帰還し、ここを首都と定め、臨安と改名した。岳飛の存在が宋王朝の中で重きを成すのはここからだと言って良いだろう。

④十年の功、一旦にして廃す
岳飛の増強は留まる事を知らない。34年、岳飛は清遠節度使に任命される。岳飛は鄂(がく)州を拠点として中国西部の制圧に努め、37年には宣撫使となる。その精強さはこのまま行けば中国全土の奪還もいずれ可能かと思われる程だっただろう。

だが、戦場から遠く離れた臨安の地にいる宋の皇帝らは、もはや中国の南半分だけを支配しておれば満足だと考えるようになったらしく、停戦交渉を始めていた。その主導者が金の国から帰還してきた宰相の秦檜だ。秦檜が帰還してきたのは金の国による政治工作だったとも言われている。秦檜が宰相になった事で、宋と金の間で停戦が合意された。

金の国からすれば、停戦によって岳飛らによる侵攻を避けて中国北部の領土を安泰に保つ事ができるし、宋の国の皇帝である高宗としても、元々皇帝になれるはずのない身の上であり、まかり間違って金の国へ連行されている兄、つまり、前の皇帝である欽宗が助け出されては皇帝の地位を失ってしまいかねない。また、増長する岳飛に対する警戒もあったかもしれない。

だが、その停戦条約は金の国の方から破られた。主戦派が政治の主導権を握り、またしても大挙して宋の国へ侵攻を開始。それを宋の軍隊が迎え討つ。その戦いにおいても岳飛の軍隊つまり岳家軍が大いに活躍し、金軍を次々に壊滅させ、撤退へ追い込んでいった。もはや金軍の命脈は尽き、岳飛の名は偉大なる復活を遂げた宋王朝の名と共に千古不朽のものになるのが当然とも言えた。

しかし、戦場からあまりにも遠い南方の地にて、己の帝位を守る事を重要視する高宗と、宰相の座をふりかざし、あるいは、金軍との密約のために掌を返して、ひたすら停戦を強行しようとする秦檜が、中原回復の未来を見る事は無かった。

高宗は大勝したはずの宋軍に対して撤退命令を出す。高宗は特に岳飛に対しては一日に十二回もの金字牌による威圧的な撤退命令を送り付けてきた。岳飛は憤り恨んで泣き、東へ向かい再拜して言う。

「十年之力,廢於一旦(十年の功績が、一日で棄てられた)」

⑤秦檜の毒牙に掛かるも、死後、中国最高の英雄として語り継がれる
宋の軍隊が戦いの末に取り戻した北の領土は金の国へ差し出され、岳飛と韓世忠は軍権を剥奪された。さらに、秦檜は岳飛が自分たちに逆らう事を恐れ、無実の罪をでっちあげて殺す事を決める。

秦檜は岳飛および息子である岳雲と岳家軍の張憲を謀反罪によって捕らえて処刑した。岳飛享年39。韓世忠は岳飛らを殺した秦檜を問い詰め、岳飛の罪を証明するための証拠を要求したが、秦檜は「其事體莫須有(ばくすうう)(そんなことがあったかもしれない)」と言い放った。韓世忠は「莫須有(あったかもしれない)」の三字で、どうして天下が納得するのか」と憤りを表した。

こうして、宋と金は停戦し、宋は中国南部のみを領土とし、金に対して臣下の礼を取り、毎年、銀二十五万両と絹布二十五万匹という莫大な貢ぎ物を贈る事になった。この際、高宗は金の国から父の亡骸と母の身柄の返還を受けたが、兄である欽宗の返還は求めなかった。欽宗が帰ってきては自分の皇帝の座が危うくなるからだろうか。

宋の国は岳飛に敗北を重ねてきたはずの金の国にひざまずいた。停戦の後、高宗は贅沢と享楽に溺れ、秦檜は宰相として君臨して反対派を弾圧し、歴史の記録についても厳しく統制した。秦檜はこのような暴虐の治世を行いつつも天寿を全うした。天道は是か非か(天の道なんてものは存在するのか)。秦檜の死後も秦檜派の天下が続き、岳飛の名は謀反人として汚され続けた。

宋の国は信義を破って岳飛を殺した事で力を大いに失っていたはずだ。もし、金の国が油断せずに力を蓄え、英雄の指揮の下、再び宋の国へ牙を剥いていれば、宋の国は今度こそ滅んでいたかもしれない。事実、高宗の末年、金の国の暴虐的な君主である海陵王が停戦条約を破って宋の国へ侵攻してきた。

しかし、岳飛らの働きによって蘇った宋の国の運命は尽きていなかった。海陵王は宋の軍隊の抵抗に遭って惨敗した。その後、海陵王は部下によって殺された。宋の国はこの戦いによって秦檜の時代に結ばされた不利な講和条約を自分たちに有利な条件に変える事が出来た。

さらに、海陵王の後を継いだのが名君と呼ばれる世宗であったのが宋と金の両国にとって幸いだった。世宗は宋の国との国交を回復し、内政に専念して、政治の乱れを収めた。宋の国も高宗の後を継いだ孝宗の時代にようやく政治と社会が安定し、以後、中国南部のみの支配ながらも、平和のうちに命脈を繋ぎ続ける事が出来た。

そして、高宗の死後、岳飛の冤罪は晴らされた。1211年(嘉定四年)には岳飛に鄂王(がくおう)の称号が与えられ、1221年には、杭州西湖のほとりへ岳王廟が建立された。岳王廟の岳飛・岳雲親子の墓の前には、彼らを謀殺した秦檜夫婦らの像が罪人として縛られた形で造られている。岳王廟へ訪れた民衆たちは、秦檜らの像へ向かって唾を吐きかける事で、彼らを非難し続け、その風習は岳飛の死後九百年の後まで続けられたと言う。

⑥今も後手に縛られ夫婦そろって正座を強いられている秦檜

(岳飛を祀った杭州岳王廟にある秦檜夫婦の像)

800年経った今も、多くの観光客はこの像をみて蔑みの眼差しを送るという。時代によって秦檜の和平策を評価する意見もある。ただし罪のない忠義の士に濡れ衣を着せて謀殺したのは事実であり、絶対に間違いであると思っている。

 

逸話、伝説、評価

①貧乏でも学問はできる。岳飛少年の知恵
後年、岳飛の生涯は『説岳全伝』として物語化しており、その中に出てくる話が有名になっているようだ。例えば、岳飛は幼少の頃にはとても貧乏だったが、勉強のための筆や紙は貴重なものだったため、木の枝を使って砂の上へ文字を書く事で勉学に励んだと言う話があり、それは現代の中国や台湾では教育の目的で語られていると言う。

②精忠報国の入墨を背中に彫られる
『説岳全伝』の有名な話としては、岳飛の背中へ母親によって「精忠報国」の四文字が入墨として彫り込まれるものが挙げられる。史実でも、岳飛が無実の罪で捕らえられた際に、己の背中にある「精忠報国」の四文字を見せ付けた事実が記されている。

③後世、関羽と並び称される
現代の中国では関羽と岳飛を「二大武聖」と呼び称えており、特に岳飛は精神的な英雄として扱われているらしい。中国では昔から精神性を重視しており、岳飛についても、戦いに強いだけでなく、秦檜の奸計に対しても最後まで屈しなかった、高潔な精神を特に奉っているようだ。

④岳飛の主戦論の是非
岳飛は後世の物語上では完全無欠の善人であり、逆に、秦檜は完全無欠の悪人として描かれるが、歴史上では異論があるようだ。例えば、第二次世界大戦を経験した日本では、軍人の専横によって無謀な戦争を強行され、戦後には急速に復興を遂げた経験からか、岳飛を無茶な戦争を続けようとする軍人と見なし、秦檜を和平を推し進めた見所のある人物として評価する論調が存在している。その是非はともかく、岳飛の功績と秦檜の悪行に対してすら公平さによって接しようとする知的な態度を失ってはならない事は確かだろう。

 

まとめ

岳飛は抗金英雄の代表格として滅亡確実と思われた宋王朝を救い、中国全土の奪還すら可能だと思われるまでに復権させた。その功績は金字牌の乱発や宰相秦檜による強行な停戦の推進によって廃され、ついには秦檜の陰謀によって命すら奪われてしまったが、民衆は岳飛を追慕して已まず、やがて、彼を中国至上最高の英雄として輝かせるに至った。

岳飛は享年39歳、背には母親によって彫られたとされる入れ墨「尽忠報国」四文字があったという。39歳といえば2021年現在の私とたった1歳しか変わらない年齢である。軍を率いて国を守るために「金」と戦った英雄がほぼ同い年でその生涯を閉じたのだ。

日本で人気の諸葛孔明や趙雲子龍は中国では、それほど人気ではなく岳飛の人気は凄まじい。しかしそれも納得のエピソードの数々、間違いなく中国史上最高クラスの英雄である。

 

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