歴史

負けを覚悟して天下分け目の決戦へ赴いた『大谷吉継』は友情を重んじた名将。

天才信長の下で、草履とりから大名という、とてつもない道のりを実力で駆け上がった秀吉が「大谷紀之介(吉継)に100万の軍勢を与えて、自由に軍配を指揮させてみたい」と語ったというエピソードはあまりにも有名である。

その能力値の高さからKOEIの信長の野望シリーズでも常に配下にしたい武将の1人であるが、真田信繁同様に登場が遅いため、登場年には大勢が決しており活躍の場がない。

重病というハンデを抱えながら戦場に散った大谷吉継について書いてみたい。

 

略伝

大谷吉継(おおたに よしつぐ、1565年 or 1559年~1600年10月21日、享年は36 or 42歳)は別名を吉隆と言う。通称は紀之介、平馬、大谷刑部である。戦国時代~安土桃山時代に活躍した名将だ。生まれは近江国(滋賀県)?と言われるが年齢同様に詳細ははっきりしていない。官位は従五位下、刑部少輔、主君は豊臣秀吉→秀頼で豊臣氏の家臣である。

1565年or1559年に生まれた吉継は1583年に賤ヶ岳の戦いに参戦するなど秀吉の天下統一を支えた一人である。1586年、九州征伐で功を上げ1589年には敦賀城主となる。1590年、小田原征伐に参戦。1598年に豊臣秀吉が死去したことで朝鮮出兵を終えて帰国。1600年10月21日に関ヶ原の戦い中に没。石田三成とは懇意にしていたと言われており、負けることを承知で西軍につき関ケ原の戦いで散った。

 

功績とエピソード

①秀吉への出仕
大谷吉継がいつ頃から豊臣秀吉のもとへ出仕したのか明確な時期が分かっていない。はじめて、大谷吉継と思われる記録が出てくるのは、秀吉が織田信長から播磨国攻略を命令されたタイミングである。福島正則、加藤清正らとともに御馬廻り衆の1人として仕えていたとの記録が残っている。しかし、出典とされる『武功夜話』に偽書説があるために信憑性について疑問視されている。

②青年期の活躍
大谷吉継は、賤ヶ岳、九州、小田原の戦で軍功をあげ、陸奥地方の検地奉行、文禄の役での軍事監督など文武の両面で活躍した武将である。豊臣秀吉が朝廷より位を得た後には、従五位下刑部少輔に叙任されていることからも、重用されていたことがうかがえる。

③文禄・慶長の役
文禄・慶長の役と呼ばれる朝鮮半島国家との戦は、凄惨なものであったと言う。
まずは、豊臣秀吉の命により加藤清正、福島正則、黒田長政、小西行長らが率いる第一陣が朝鮮半島へと渡った。それに伴い、朝鮮奉行として石田三成、増田長盛とともに後方支援のために後を追った。明との講和を開始したことにより、後方支援の吉継らは明からの使者とともに一足先に帰国したものの、交渉を行う中で行長と明との交渉に偽りがあったことが発覚したため、交渉は決裂した。

その後、小早川秀秋を総大将として14万の軍勢が渡ったものの、朝鮮半島では朝鮮軍・明からの援軍に加え義勇軍が日本軍に激しく抵抗した。また、補給が滞ったことで加藤清正が預かる拠点では、軍馬を食糧とする悲惨な籠城戦を強いられていた。他の将のもとでも各地で苦戦を強いられていただけではなく、疫病にも苦しむこととなった。

前衛部隊で辛酸をなめた人員からは、三成が任務を全うしなかったという声も出るなど、秀吉旗下の中でも折り合いが悪かった武闘派武将と光成の仲は、これを機にますます険悪になっていったと言う。

④秀吉の死後
豊臣秀吉の死去すると、石田三成と徳川家康との対立が表立って激化していった。大谷吉継は家康に接近し、政権内の混乱収拾にあたるものの、光成と家康の溝は深まるばかり。

家康が会津の上杉討伐に出陣したことを受けて、吉継も討伐軍に合流することになり、出立前に石田邸を訪れ、仲裁しようとしたものの、逆に三成から挙兵の計画を持ちかけられた。光成に対して、吉継は決起は無謀だと反対するものの、聞き入れる光成ではなく、最終的には親友の熱心な頼みに動かされる形で敗戦を覚悟で協力することになったのであった。

⑤最期
関ヶ原の戦いは、大谷吉継にとって、最後の合戦となった。
参戦前から負けるであろうことは察していたものの、可能な限りの体制を整えようと、西軍の総大将には毛利輝元の擁立を提案し、自らも西軍に加わった。
負けを覚悟で臨んだ戦ではあったものの、次々と発生する裏切りもあって戦況はますます不利になった。吉継は、圧倒的な兵力差を前に奮戦するも、周囲の味方であったはずの兵の寝返りも続き、最期は自害している。その首級は介錯を務めた家臣の懸命の働きによって、敵方の手に渡ることなく手厚く埋葬されたと伝わっている。

 

逸話、伝説、評価

①出自
大谷吉継の出自については謎が多い。
生まれた年は、近年発見された吉田神社の神主の日記(『兼見卿記』)から1565年生まれであるという説が有力になったものの、確証と言えるほどの記録ではない。

出身地も近江(滋賀県)説が有力となってきたものの、2016年には歴史作家の童門冬二氏による「信念か友情かの選択 大谷吉継」の中で、豊後(大分県)出身という記載もあることから、元大友氏家臣説も語られていた。

家族に関しても、最近有力の説としては、父も秀吉に仕えた家臣であり、母は秀吉の妻・北政所に侍女として仕えていたというものであるが、父母に関しても諸説存在している。豊臣秀吉の隠し子説や親戚説、更に病で顔を隠していたことから有力者の影武者説まで幅広い仮説が語られていたことがあるほど、前半生や出自に関しては、正確な記録が乏しい。

豊臣氏の有力な家臣であったことから、幼少期~小姓時代の記録は後の時代に書き加えられたものではないかとの逸話もあるほどで、青年期から本格的に合戦で活躍するまでの情報に関しては真偽のほどが定かではない情報が混在しているようである。

②石田三成との友情
大谷吉継と石田三成は、刎頸の交わりとも言える関係であった。
吉継と光成に関する有名な逸話の一つとして、秀吉主催の茶会に出席した際のエピソードがある。当時すでに病が進行していた吉継が口をつけた(または茶の中に膿が入ったという説も)茶碗には、皆が茶を飲むことを嫌がったと言う。

その時、三成だけが躊躇うことなく、その茶碗のお茶を飲みほしたのだとか。これがきっかけで三成と親交を深めていったという逸話も残っているものの、最近では後の世の創作であるとも言われており、真偽のほどは定かではない。

ただし、吉継は関ヶ原の戦いを前に明らかに不利と分かった上で、光成を説得するも最後は熱意に負けてともに戦うことを決めるている。このことから、二人は強い信頼関係で結び付いていたことは確かであろう。

③疾病
大谷吉継は、ハンセン病(一説には梅毒)を患っていたとされており、時代劇や創作などでは顔中に布を巻いた姿や布で覆った状態で登場することが多い。
ハンセン病は現代でこそ原因や治療法も明らかになっているものの、原因が分かったのは、1800年代後半になってからのことなので、1500年代の日本においては、病どころか前世の業によるもの、呪いや祟りによるものであると信じられていたことから忌み嫌う人もいたほど理解されない病であった。

また、ハンセン病ではなく梅毒という説も最近は出ている。理由としては、病に倒れた後、一旦復帰していることからである。ハンセン病の場合にはそのような状態にはならぬため、梅毒だったのではないかとの説を提唱する学者もいる。
いずれにせよ、当時は治療法も分かっていなかったため、湯治に行ったという記録は残っているものの癒えることはないまま晩年を過ごしている。

症状が進んだことで、晩年の大谷吉継の状態は、体の変形や皮膚、神経、眼障害など多岐に渡る不調を抱えており、関ヶ原の戦いへ赴く際には、自力での移動は困難な状態だったようで輿に乗った状態で参戦したという記録が残っている。

④徳川家康との関係
大谷吉継は、石田三成とは懇意にしていたものの、徳川家康を忌み嫌っていた光成と異なり、家康に対して高評価であったと言う。
関ヶ原の戦い前に石田三成から打倒家康の誘いを受けた際にも、家康と三成の石高・兵力・物量の差、軍事経験の差、器量の差などを冷静に評価した上で、到底家康勝てるわけがないと諌めたとされている。

⑤大谷吉継の死
大谷吉継は辞世の句として「契りとも 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」を残している。
また、時代劇などの吉継の最期のシーンでは「光秀、地獄で会おう」と言うのが定番となっている。

尚、裏切り者である小早川秀秋は、関ヶ原の戦いの2年後に変死を遂げた際には、周囲は吉継の祟りであると噂したという逸話も残っている。

 

さいごに

吉継は裏切りを予測していたのか、関ケ原では小早川秀秋と三成の間に布陣している。

明らかに負け戦という中で、武士であればお家を残す、名前を残すという思いもあった中で義に散った大谷吉継は時代を代表する英雄である。

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