歴史

モンゴル帝国の覇権を支えた『耶律楚材』は政治力100の名補佐役。

KOEI三国志のいにしえ武将で存在を知り、パラメータの高さから興味を持った私は陳舜臣さんの「耶律楚材 上下 草原の夢」を読んだ。

耶律楚材はモンゴル帝国の初代チンギス・ハンに見いだされ、2代目のオゴタイまでを支えた人物で、モンゴル軍が滅ぼした金に仕える契丹(遼)の人である。中原の文明人であった耶律楚材が重用されなければ、モンゴル軍による破壊はもっと激しいものとなったいであろう。

耶律楚材は遊牧民族に文明を教えた知恵袋であった。またモンゴル民族でない耶律楚材は急激に領土を広げ、様々な民族が入り乱れたモンゴルにおいて、その全てをまとめるべく内政面で獅子奮迅の活躍をした名補佐役である。

 

概要

耶律楚材は(やりつそざい、1190年~1244年)モンゴル名はウルツ・サハリ・ウト・サカル(髭の長い人の意)といった。字は晋卿で諡は文正、号は湛然居士。出生地は河北省固安県である。父は耶律履、兄は耶律弁才、耶律善才、祖父は耶律聿魯、子は耶律鉉、耶律鋳である。

モンゴル帝国初期の功臣で地理、医学、天文、数学、儒教、道教、仏教の幅広い学問に通じていた。モンゴル軍が燕京や北京を占領した際にモンゴル帝国のチンギス・ハンに仕えた。その後、2代目のオゴタイにも仕え、それまでのモンゴル帝国にはなかった中国式の税制を導入し、その中国統治に大きな役割を果たした官僚である。

「遼王朝」を建設した契丹(キタイ)人の出で、はじめは金に仕えていたが、1214年モンゴル軍の攻撃で金の中都が陥落した際、チンギス・ハンに召し出され仕えることとなった。チンギス・ハンの西方遠征にも同行し、その記録である『西遊録』を著した。

文人や詩人の才能に長けており、文集「湛然居士集」や前述の見聞録「西遊録」を作成している。耶律楚材の子である耶律鋳も世祖クビライに従っていた。耶律楚材同様に詩人としての才に長けた人物だった。

 

功績やエピソード

①高齢の父の元に三男として生を受けた
耶律楚材の一族は遼「契丹」の太祖耶律阿保機の長男であり、東丹国の懐王耶律突欲8世の孫である。遼の宗族出身で出自は契丹人とされているが、先祖代々中国の文化に親しみを持ち漢化したといわれる家系でもある。遼の滅亡後には金の官僚となって仕えていた。

祖父は耶律聿魯であり、父の耶律履は金制において、宰相級のとても大切な役職とされている、尚書右丞まで上り詰めた。耶律楚材は父が高齢になってから、三男として生を受けた。3才の頃に父が61才で亡くなってしまった為、漢人の生母である楊氏に厳格に育てられたという。異母兄の弁才や善才らは耶律楚材と大きく年の差があったため、耶律楚材は楊氏と共に弁才や善才らに養われていた。

②成人後の耶律楚材
成人してからは宰相の子として科挙を免ぜられていて、代わりに受けた試験に首席という素晴らしい結果で通過している。そして尚書省の下級官僚に任官したのである。モンゴル軍が金に侵略して来た際には首都の中都で左右司員外郎を任されていたが、1214年の中都が攻め落とされた時に捕虜となってしまった。

耶律楚材は家柄が良く、長身長髭で堂々とした人物だった。中国の天文と卜占に精通していたためか、チンギス・ハンの目に止まったのだ。耶律楚材はチンギス・ハンに召し出され、中国語担当の書記官「ビチクチ」となった。ハンの側近くに仕えることなったのである。

1219年から始まった中央アジア遠征においてもチンギス・ハンの本隊に離れることなく、付いて行き側近の占星術師となって働いている。その時の体験や詩作などを「西遊録」に残している。

③チンギス・ハンの死後に遺志を尊重する耶律楚材
チンギス・ハンが亡くなってからは後継者を巡り、クリルタイが紛糾してしまうとチンギス・ハンの遺志を尊重することでオゴタイを立てるように説いた。オゴタイの即位に大きく貢献していたといわれてるが、モンゴル貴族として生まれていない耶律楚材がクリルタイに出席するとしても発言権を持つには無理があった。この話が中国で執筆された資料でしか伝わっていないため、この逸話は偽りであるという説も挙げられている。オゴタイが即位して新ハーンに書記となって従ってた。

中国語で中書省と称される書記機構の幹部となったのだ。そうして北中国の金の旧領の統治にも携わっていた。耶律楚材は、とあるモンゴル軍人が華北の大平原を無人にできれば遊牧に適した土地になるため捕虜として働かせていた中国人を1人残らず皆殺しにしようと進言したのを抑えている。

捕虜達を「万戸」と呼ばれている集団にわけて3つの万戸を設置し、各万戸ごとに農民や職人などの職業によって別々の戸籍を作った。戸単位に課税されていく、中国式税制を導入させたのだ。新税制度の導入によってモンゴル帝国は定住民から安定して高い税を収めさせることに成功したのである。オゴタイはそれにより、感嘆して耶律楚材を褒め称えたという。

④金が滅んだ後の行動
1234年に金がモンゴルによって最終的には滅ぼされ、北中国と併合してからは全土をハーンの直轄領にしようとした。モンゴル貴族へ征服した領土を分け与えることに対して反対したのだ。このことは黙殺されてしまった為、儒学を家業としている一族を「儒戸」に指定するための精度を考案した。税を軽減する代わりとして儒教の学問と祭祀を行わせた。それを実務官僚層の供給源としたのだ。オゴタイは中国の歴代王朝にならって孔子の子孫を保護していましたが、その行動も耶律楚材が進言したからと言われている。

⑤イスラム教が布教し始める
オゴタイの晩年に西アジア式の人を単位に利用して課税する人頭税制度を中国にも導入するために教えを説く、中央アジア出身のムスリム「イスラム教徒」財務官僚層が勢力を伸ばしながら中国行政に干渉し始めた。伝統的な中国式の統治システムを維持するために立ち上がった耶律楚材らの一派と対立することになったのだ。西アジアの財務官僚に任せた方が単純に収入を手に入れやすいことがわかり、モンゴル人は彼らを重用するようになった為、耶律楚材らは信任を失ってしまったのである。

⑥オゴタイが没した後
1241年にオゴタイが没してからは発言力をほとんど失ってしまい、耶律楚材もオゴタイが没した3年後に志半ばでなくなってしまう。耶律楚材は清貧の美徳を守っていたため、遺産は琴と書物が残るばかりだった。詩作を好んで行い、詩集には「湛然居士集」がある。梁氏が産んだ長男の耶律鉉が30才前後という若さで命を落としてしまい、鄭氏が産んだ末子である耶律鋳が跡を継いた。その後、耶律鋳は嫡子の耶律希亮と共にクビライに従う。中書左丞相に累進したことによって耶律楚材は評価が見直されて、太師や上柱国を贈られ広寧王に追封されたことにより文正と諡されのである。

 

逸話

①高い国外の評価
耶律楚材は日本や中国といった国外でも古来非常に高い評価をされている。モンゴル帝国の最初期に、国家の体制も安定していない遊牧民の連合政権とされていたモンゴル帝国に中国の文人官僚を代表して仕えていた。中国統治の実務担当者としても活動したのである。

②「聖人君子の耶律楚材」像
耶律楚材は宰相として勝手に自称し自らを過大評価する一面も持っていたようだ。それに加え、子孫が自分の立場を強化するために耶律楚材の歩んできた人生を誇張や捏造することによって「聖人君子・耶律楚材」像ができあがったとされている部分もあるようだ。

③モンゴル政権の中枢
「宰相として仕えた」ことは偽りだとしても、耶律楚材がモンゴル帝国において、それなり以上には職を全うして政権に携わっていたのは事実である。亡国の臣でありながら、国の根幹にかかわる進言で国を富ませ、大いに秩序をもたらした耶律楚材の功績すべてを否定できるわけでなく、モンゴル政権の中枢人物であったことは間違いない。

 

さいごに

チンギス・ハンに仕えて尽力し、様々な役職や学問に携わってきた耶律楚材。チンギス・ハンが亡くなってからはオゴタイを立てオゴタイが即位してからは新ハーンの書記として仕え、初期機構の幹部にまで昇りつめている。

農民や職人の職業別に戸籍を作り、戸単位に課税されていく、中国式税制度を確立させ、安定して高い税を収めさることにも成功した功績の持ち主だ。

そんな耶律楚材が生涯の座右銘としたのは「一利を興すは一害を除くに如かず。一事を生かすは一事を省くに如かず」である。

これは利益となりうる事を1つ始めるより、従来からの害になっていることを1つ除いた方がよいということである。

仕えていた金を滅ぼしたモンゴル軍に仕えたことでよく思わない人も多かったが、どう猛なモンゴル軍に規律での統制を組み込み、結果的として祖国を大いに守った耶律楚材は英雄であると言える。

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