歴史

三国時代末期に活躍した『羊祜』は、彗星の如く現れた義に厚い名将。

曹操や孔明、五虎大将軍などが不在となった三国は徐々に司馬一族がその勢力を強めていく。

そんな中で司馬家に仕えながら無欲で正義感に溢れ、争いを好まず、民衆を大切にした名将『羊祜』をご紹介します。

 

略伝

羊 祜(よう こ221年-278年)は、中国三国時代から西晋にかけての武将。字は叔子。泰山郡南城県の生まれである。
羊祜は身の丈7尺3寸(約173cm程度)の眉毛やひげが特徴的な議論を得意とする人物であった。父の羊衜は上党太守で母は後漢の学者である蔡邕の娘の間に産まれ。

羊祜は当時としては大きい方で身長が170以上もあり顔立ちも整っていて特徴的な眉毛やひげに加えて体格も良い美少年であった。更に議論が非常に得意で、ズバ抜けた知性の持ち主であった。

羊祜は名門の出とは言えないが家族の状況は下記である。
父の羊衜は上党太守
祖父の羊続は太山太守
叔父の羊耽は泰山太守
曾祖父は羊儒
伯父の羊秘は京兆尹
異母兄は羊発
同母兄姉は羊承、羊徽瑜
母は蔡邕の娘
伯母は蔡琰(母説あり)
妻は夏侯覇の娘

祖父や父は太守を務めていたが12才の時に父を失う。長じて羊祜は博学で文章を能くし、議論にすぐれた長身美髯の人物に成長したという。羊祜は後年、病を患って重くなり、後任に杜預を推挙して咸寧4年(278年)に57歳で亡くなった。

その日は酷寒であり、哭する人々の涙が氷となって頭髪に散ったという。羊祜が治めていた地域の人々は市を畳んで慟哭したため、巷には泣き叫ぶ声が相連なった。晋の人々だけではなく、呉側の国境を守備する将兵たちも、羊公のために泣いたと伝えられる。

 

功績とエピソード

①陸抗との親密な関わり
陸抗は呉の大将軍『陸遜』の次男で孫家4代に仕えて中郎将、奮威将軍、鎮軍将軍、大司馬荊州牧を歴任した呉の重鎮である。唐の史館が選んだ中国史上六十四名将(武廟六十四将)にも選出されている。呉が滅んだのは陸抗がなくなったからであるとまで言われる柱石であった。
そんな陸抗と羊祜には子産と李札にも似た友情関係があり陸抗は徳の大きな羊祜のことを尊敬していた。

さらに「楽毅、諸葛亮でも羊祜にはかなうまい」とまで言っている。陸抗が過去に病に侵されてしまった祭は羊祜から薬を譲り受けた。陸抗は毒見もせずにその薬を飲んだが翌日には見違えるほど元気を取り戻したのである。陸抗は薬のお礼に自分で醸した酒を羊祜へ贈った。すると次は羊祜が毒見もせず酒を飲み干してしまったという。

敵国の中枢を担う2人であったが、お互いを疑わない親密な関係にあったのだ。

②郭奕からの高い評価
羊祜は晋の首都洛陽へと帰還する途中で付近の県へ立ち寄り、県境まで来るように従者に命じて県令を迎えに行かせた。当時、県令の座に就いていた郭奕は従者に連れられ羊祜の前に現れた。郭奕は帰っていくと「あいつは俺に劣らぬ人物である」と呟いた。

再度、羊祜の前に姿を見せた郭奕は家に帰るなり「俺より優れた人物だ」と周囲の人達に話して回った。そうして羊祜が旅立つ日になり郭奕は羊祜のことを数日にわたり見送った。

晋の地域には県外に県令は出てはいけないという法律があったにも関わらず郭奕は簡単に破り県令の座を奪われるが「羊祜は顔回にも劣らない才覚と徳を持っている」と県令を解雇されたことを悔やまず羊祜を称賛した。

③思いやりある人柄
羊祜は徳の高さから国の民や様々な人物から信頼を得ていた。それぞれの人に寄り添った思想を持ち、問題の解決法を親身に考えて様々な行いをしてきたからこそ評価であり、羊祜の人柄も重なって敵将や他国の民であっても一目置かれる存在であった。それにより陸抗や郭奕などの心を動かしお互いを信じあう親密な関係へと発展した言える。

④司馬家に仕えていた
羊祜は大将軍として魏の権力を手にした司馬昭から招待を受けていたが初めは断り続けていたという。そんな中で羊祜の元へ公車「皇帝の車」が迎えに来たことにより気持ちが変わり招待を受け入れたのである。

一時は鍾会の憎しみを買い讒言されて遠ざけられそうにもなったが司馬昭は深い信頼をしていました。それにより要職を歴任し腹心として様々なことを任されていった。

⑤優しく親しみやすい政治
羊祜は長年の行動や功績を認められ荊州の重要拠点である襄陽の太守に任命された。荊州は呉の最前線であり、とても重要視されている都市である。そんな荊州の襄陽太守を任されることとなった羊祜は呉との争いを止め、民衆に寄り添った優しさのある政治を始めたのである。

⑥呉の討伐を促した
羊祜は陸抗亡くなった後、益州刺史の王濬を監益州諸軍事の龍驤将軍に任命し水軍を結成させました。羊祜は兵を訓練し、装備を整えさせて呉征伐の上奏をしたのです。

司馬炎は羊祜の提案した意見に納得していましたが、賈充をはじめとした様々な重臣が反対したことにより通らなかった。

羊祜はそのことを嘆き「天下には思うままにならないことが10のうち7、8は常々あるものだ。優柔不断で天の与える機をとらないでいたら、あとになって後悔しないことがあろうか!」という言葉を残している。

⑦志半ばで命を落としてしまう
地場を固め数年が経ち、征南大将軍開府儀同三司に昇進した。いよいよ最終決戦を始めるために準備を整え始めることにしたのである。陸抗は274年に亡くなっているとはいえ呉を壊滅させるためには強力な水軍が必要だと考えた。

かつて幕僚であった王濬を推薦し、益州諸軍事龍驤将軍として戦艦を建造させた。準備が整ったので呉討伐を上奏するものの群臣に反対をされ許されなかった。失意に飲まれている羊祜をさらに病が牙を剥き、杜預を後任に指名したあと58歳でこの世を去ったのである。

 

逸話

①5歳の時に起こした驚く話
当時5歳だった羊祜は金の輪をおもちゃにするから持ってきてほしい乳母にお願いした。乳母が羊祜に対して「お坊ちゃんは以前からそんな物はお持ちでないでしょう」というと羊祜は隣の住民である李家の東の垣根に植えてあった桑の木立の中へと入っていきました。

金の輪をみつけた羊祜を見て李家の主人は「これは亡くなった私の子が無くしたものだ。なぜ持って行くのだ」といい、乳母が経緯を話すと主人は感に耐えない表情を浮かべながら当時の人達は世にも不思議なことだといった。

②1人で出歩くことが多かった
羊祜は一国の重鎮とは思えぬほど腰が軽く、呉征伐に赴任した際も鎧を身につけず軽装での外出を好んで行っていた。少数の供を連れて基地付近の場所で釣りや狩りを楽しむことが多かったのだ。ある日官僚の1人が業を煮やし、矛を構えて門に立ちふさがっていた。羊祜に軽挙を諫言すると素直に謝罪をして態度を改めたのである。

③特殊な鶴を飼育していた
羊祜は舞を踊ることのできる鶴を飼育していて客に弦を自慢するも、その鶴は客の前で踊ることはなかったという。このことをきっかけに名実が伴っていない人物のことを「羊公の鶴」と呼ぶものがあらわれたのである。

④堕涙碑の建立
襄陽の峴山に登山して景色を眺めて酒を飲みながら詩文作ることを趣味として行っていた。しかし羊祜が亡くなってからは峴山に碑石が建立され、沢山の人達が羊祜のことを偲び涙を流した。その後碑石は杜預により「堕涙碑」と名付けられることになった。

⑤妻を救うために司馬一族に立ち向かう
羊祜の妻の両親である夏侯覇は司馬一族に追われ蜀に亡命してしまう。当時ではこのような行動をとった場合、一族全員が抹殺されてしまうというのが一般的であった。ところが羊祜は妻と縁を切るどころか「妻を殺すなら俺も死んでやる!」と司馬一族に物申し見逃してもらうことになった。徳が高く情が深い羊祜ならではの行動といえる。

 

さいごに

司馬家に仕えた名将『羊祜』は非常に徳が高く情の深い人物であった。陸抗が病に苦しんだときは薬を贈り、妻の命が危ういと知り司馬一族に立ち向かい、自分の身が危険にさらされようとも行動を起こしたのである。

そのような人物だから民からも徳の高さで絶大な信頼を得ており、称賛され続けていた。演義の影響で蜀びいきの私としては、羊祜が孔明の下で北伐に参加していたら?曹操だったらどう扱っただろうか?などと考えてしまう。

長い戦乱で、策略を巡らせ、裏切るのが当たり前の世の中で、自国の人間だけでなく敵国の人間まで亡くなったことを嘆いた羊祜は、間違いなく名将だったといえるだろう。

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