歴史

秦を滅ぼした『項羽』は、圧倒的な統率力と武勇で君臨した中国史上最強の覇王。

その圧倒的な武勇、圧倒的な統率力で秦を攻め滅ぼし、楚漢戦争を戦った『項羽』は、長い中国の歴史の中でもトップクラスの武勇を誇る。

「大漢風 項羽と劉邦」で『項羽』を演じた胡軍(フー・ジュン)さんは、「レッドクリフ」で趙雲、「項羽と劉邦 King's War」で『項羽』を演じた何潤東(ピーター・ホー)さんは、「三国志ThreeKingdoms」で呂布を演じられている。全員、強いイメージがある役柄であり、武勇での見せ場がある武将達だ。このことからも項羽が後世にいかに強い人物して伝わっているかが分かる。

中国史の武勇による最強ランキングトップ10を作る場合は、2~10位だけを選ぶことになるかもしれない。1位は項羽だからだ。

そんな西楚の覇王『項羽』をご紹介したい。

 

 

略伝

項籍、字は羽(紀元前232年~紀元前202年、享年31歳)は、秦の時代(前221~202年)における王または将軍。西楚の覇王として名高い。叔父である項梁の挙兵に従って秦に対する反乱軍の将となる。項梁亡き後には事実上の当主となり、秦の国を攻め滅ぼすに至るが、人心を得ず、やがて、劉邦率いる漢軍によって追い詰められ、己の首を刎ねて死去。こと戦争に関しては格別の強さを誇った。

 

 

功績とエピソード

①秦帝国堕ち、項羽立つ
中国の歴史は四千年とも言われ、歴史の始めには、まず夏王朝が作られた。その後、殷(商)王朝、周王朝と続き、その後、春秋戦国時代と呼ばれる約550年におよぶ分裂と戦乱の時代を経た後、ようやく、秦の国によって大陸が再び統一された。しかし、秦は強権と謀略によって天下を暴力的に支配し、その恨みは全土に満ちていたとも言える。さらに、秦による統治は過酷を極めたので、ある時、陳勝と言う一介の壮士が反乱のために立ち上がると、たちまち呼応する者らが現れて大軍と化した。その後も、各地の反乱は収まらず、秦を滅ぼす機運が勃然(ぼつぜん)と高まっていた。

さて、戦国時代には楚の国と呼ばれていた土地の東に位置している会稽(かいけい)の土地でも反乱軍として決起した者が居た。それが項羽だ。幼い頃、項羽は文字を習ったが覚えられず、剣術を習っても上手くならなかったので、項梁は怒った。対して、項羽曰く、

「文字は姓名を書ければ充分。剣術は一人の敵を相手にするのみで習うには不足。私は万人の敵を学びたい」

そこで項梁が兵法を教えたところ、項羽は大いに喜んだ。とは言え、項羽は兵法にのめり込む事は無く、大意を呑み込むのみで満足した。項羽の身長は八尺余りであり、鼎を持ち上げる程の剛力を持ち、才気が人より優れていたので、呉中の子弟はみな項羽を憚ったと言う。やがて、項梁は反乱軍として自立したが、その際、項羽は剣を以って地元の太守を殺した。この時、項羽は齢24。項羽の剣技には小手先の技法が必要なく、その戦う術(すべ)は野生の虎が人を食い殺すかの如き性質を備えていたようだ。項羽は項梁の許で裨将(ひしょう)(副将)として働き始めた。項羽は名門の出身であり、項梁の父は楚の将軍である項燕だ。項燕は秦の将軍である王翦によって討ち取られていたので、項梁にとって秦は直接的な恨みの有る相手だ。

②項梁に代わって反秦の盟主となる
項梁は順調に勢力を拡大していったが、勝利を重ねたせいか、秦の軍隊を軽んじて驕りの色が有った。それを宋義と言う者が諫(いさ)めたが聞き入れられなかった。宋義は項梁の敗北を予言したのだが、それが的中し、定陶の地にて、項梁は秦の将軍である章邯に敗れて戦死してしまった。章邯はすでに陳勝も攻め滅ぼしており、秦を守る最後の盾として反乱軍の前へ立ち塞がった。

項梁を失った頃、反乱軍の陣営では、項羽の他に劉邦と言うごろつきあがりの男が乱世に乗じて成り上がっていた。項羽は劉邦らと共に項梁亡き後の反乱軍を指導し、秦の軍隊と戦う事になったと言える。とは言え、反乱軍は名目上、楚の国の王族である懐王を指導者に据えていたから、項羽といえどもその命令を奉じる立場にある。そして、懐王が新たに軍隊の上将軍つまり総大将に選んだのは宋義だった。宋義が項梁の敗北を予言していた事が懐王に伝えられたのが理由だった。項羽は宋義の次席となった。

こうして、宋義率いる反乱軍は秦の軍隊に包囲されている鉅鹿(きょろく)の土地へ迫ったが、宋義はなぜかその南方にある安陽にて軍を止め、それから四十六日もの間、何の手も打たなかった。項羽は、宋義に対して、速やかに鉅鹿を包囲している秦の軍隊を攻撃して鉅鹿に居る趙の軍隊と共に内外から攻めれば秦の軍隊を破れると主張したが、宋義曰く、

「しからず。牛を叩けば、虻(あぶ)を殺す事はできても、蟣虱(しらみ)を潰す事はできぬ。今、秦は趙(鉅鹿の軍)を攻めておるが、戰いに勝てば矛を収めようとするはずだ。我はその疲れに乗ずる。勝たずとも兵を引いて鼓し西へ行けば、必ずや秦を破る事が出来よう。故に、先の秦趙の戦いの如きには加わらず。それ、堅を被して銳を執る事については、義(私。宋義)は公(貴方。項羽)に及ばずとも、坐して策を運(めぐ)らず事については、公は義に及ばず」

つまり、策略を張り巡らせる事にかけては自分の方が項羽より上だと言い放った。宋義は命令違反を許さないとするお触れを出した上で、自分の息子を楚の国の令尹(れいいん)(宰相)に任命し、さらに、自らは宴会を開いた。宋義自身が元々楚の国の令尹であり、懐王に才能を認めさせるだけの立派な教養と弁舌を備えた人物であったのかもしれないが、その実績は単に項梁の敗北を予言しただけの事だ。故に、現実の戦争を指揮する際にも、現実離れした理屈のみに頼って自惚(うぬぼ)れていたのかもしれない。宋義が宴を開いている間にも、大雨が降り、兵士たちは寒さに凍えた。項羽曰く、

「諸将は力を合わせて秦を攻めるはずが久しく進軍できておらぬ。今年、民は飢えて貧しく、士卒も葉に豆を混ぜて食べており、もはや軍に食糧は無い。それなのに、宋義は飲酒高会するばかりで、兵に河を渡らせて趙に食(は)み、趙と力を合わせて秦を討とうとせず、代わりに、只、その疲れに乗じる、と言っておるが、秦の軍隊は強く、新造の趙の国を攻めれば、趙の国を取るだけの事であり、そうなれば秦は強くなる。何ぞ、その疲れに乗じる事があるか!」

以上の意見は全く実情に則った内容であり、宋義の述べた理念一点張りの言葉とは重みが全く違うように感じられる。項羽は書を習わず、剣も学ばず、兵法すら深く知ろうとはしなかったが、自ら剣を取って人を斬り、兵を率いて敵軍を撃ち破ってきた。その血肉の付いた体験と実績が項羽を動かしているようだ。項羽は宋義を殺して謀反(むほん)人に仕立て上げ、その子を追撃して殺した上で、代わりに自らが軍を主導。改めて上将軍に任命された。これによって、項羽の威勢は楚の国を震わせ、その名が諸侯に響き渡った。

項羽は自軍の兵をことごとく河を渡らせた上で、その舟を全て沈め、釜や甑((こしき)粟(あわ)を炊く器)を割り、家屋を焼き、三日の食糧のみを持ち、以って、士卒に必死の覚悟を示した。つまり、撤退する意志が一切無い事を実際の行動によって伝えたのだ。こうして鉅鹿を包囲している秦の軍隊を攻撃。秦軍を指揮していたのは名将王翦(おうせん)の孫である王離だが、項羽の軍隊は九回戦ってその甬道(ようどう)(通路)を絶ち、これを大破して、王離を虜に(とりこ)した。

この戦いにおいて、前進して勝利せねば生き残る事の出来なくなった項羽の軍兵はいわゆる死兵と化した。項羽率いる楚の戦士は一人で十人の敵を相手にし、その叫び声は天を動かすのではないかと思われる程に轟いたため、それを眺めていた友軍の諸将はことごとく恐れを成し、戦後、項羽と謁見する際には平伏して目を合わせる者は居なかったと言う。

こうして、項羽は名実ともに反乱軍の頂点に君臨した。その後、項羽は章邯と戦い、やがて、章邯の降伏を受け入れた。これにより、項羽による秦の滅亡と新たな統一国家の誕生は決定したかのようだ。

③楚漢戦争起こる
項羽が真正面から秦の軍隊を撃滅している間、一応の友軍である劉邦の軍隊が遠回りをして進軍を続けていた。その結果、彼らは秦の国をまんまと降伏させた。項羽からすれば手柄を横取りされたように感じられただろう。項羽らの名目上の主である懐王は、一番先に秦の本国である関中を征服した者を関中の王にすると約束していたから、劉邦による抜け駆けは実際的な損害を伴うものだった。それだけでは無い。劉邦は関中の出入り口である函谷関と言う関所の門を閉じて、項羽を締め出すような動きを見せたのだ。項羽は当然激怒した。項羽と劉邦がまともに戦えば、全く以て項羽の勝利は目に見えていたから、関所を閉じたのは明らかに劉邦の失策だった。

劉邦は自ら項羽の元へ出向いてきて、鴻門(こうもん)の地にて開かれた宴の席にて直接弁明してきた。項羽の参謀である范増は、この期を逃さず危険きわまりない競争相手である劉邦を殺そうとしたが、項羽は平伏する劉邦に情けを掛け、結局、逃がしてしまった。逃げた劉邦の代わりにやってきた使者が献上品として玉斗(玉製の酒器)を差し出してきたが、范増は剣を抜き放ち、これを突き砕いた。ちなみに、范増は齢七(よわい)十を超えた老人だ。いかに劉邦を逃がした事を痛恨に思っていたかが伝わってくる。范増曰く、

「唉(ああ)! 豎子(じゅし)とは謀を語るに足らず。項王(項羽)の天下を奪う者は必ずや沛公(劉邦)だ。我が一族は今にその虜と為ろう」

④垓下の戦い
項羽は劉邦に代わって西へ往き、秦の都である咸陽を屠り、劉邦によって安堵されていた秦の王を殺し、秦の宮室を焼いた。その火は三ヶ月ものあいだ消えなかった。項羽の軍は財宝と婦女を収めて東へ帰った。そして、懐王を義帝に即位させた上で、自身は「西楚の覇王」として事実上大陸へ君臨した。項羽は中国全土へ思い通りに臣下を送り込み、王侯として各地を支配させた。また、劉邦については事前の約束を破って未開の土地である漢中へ押し込めた。こうして、西楚が天下を統一し、新たな統治が始まった。

しかし、項羽自身には統一国家を充分に治めるだけの器量が全く無かった。項羽はせっかく関中を支配したと言うのに、地理上の有利を捨てて故郷へ帰り、それによって錦を(にしき)飾る事を望んだ。また、義帝を暗殺して大義名分を飾る事を止めてしまった。じきに、劉邦軍が密かに漢中から引き返してきて関中を平定し、項羽による不公平な領土分配に不満を抱いていた諸侯を味方に付けた。劉邦率いる五十六万の連合軍は項羽が北の地を討伐している隙に項羽の本拠地たる彭城を占領した。しかし、劉邦らは濡れ手に粟(あわ)の勝利に溺(おぼ)れて宴会を始めてしまう。

一方、激怒していた項羽は諸将と別れて自ら三万の精兵を率いて彭城へ迫った。項羽の軍は明け方に西のかた蕭か(しょう)ら漢軍を討ち、そのまま東にいる彭城の漢軍に襲い掛かった。昼になった頃には早くも漢軍は大破され全軍潰走。項羽の軍はこれを追撃して漢軍を十余万人殺した。それでも劉邦はなりふり構わず逃げ続け、どうにか自軍の領土へ帰還した。

翌年、劉邦側は食糧が乏しくなったので和睦を申し入れてきたが、項羽は范増の献策に従って容赦無く攻め続けた。しかし、漢の策士である陳平が離間の計を仕掛けてきたせいで、項羽は范増を疑い始めてしまった。范増は大いに怒り、自らの意志で項羽から離れ、一兵卒として彭城へ帰る途中、背中へ疽が出来て死んでしまった。

もはや、項羽には頼れる相手がどこにも居なくなってしまった。項羽がいくら勝っても再び反乱を起こされ、また、劉邦率いる漢軍もしぶとく健在だった。劉邦自身は戦下手だったが、その臣下には、軍師たる張良あり、参謀たる蕭何(しょうか)あり、謀士たる陳平あり。さらに、名将軍にして国士無双と称された斉王韓信や、大勢力を保持する彭越も、気前良く褒賞の約束をする事で味方とした。

ここに至って項羽の運命は決した。あれだけ精強を誇っていた楚の軍隊も、いまや、疲れ果て、補給も足りず、さらに、垓下と呼ばれる土地にて、漢軍によって幾重にも包囲された。

そして、夜が訪れる。垓下の城は無数の敵意によって封鎖されている。やがて、四方を囲っている漢軍から、項羽の故郷である楚の歌が聞こえてきた。項羽は大いに驚いて曰く、

「漢はすでに楚を全て手に入れてしまったのか? なんと楚の人間の多き事か!」

これでは愛する我が故郷を敵にしたような思いに囚われるのも止むを得ない。項羽は起き、帷の中にて飲む。そこには愛妾たる虞美人の姿もあった。彼女は常に幸いなる愛を受けてきた。また、項羽には騅(すい)と言う名の駿馬が居り、項羽は常にこれに騎乗してきた。項羽は悲歌慷慨(こうがい)、自ら詩を作りて曰く、

力拔山兮氣蓋世   我が力は山を抜き世を蓋(おお)うも、
時不利兮騅不逝   時は利あらずや。騅往かず。
騅不逝兮可柰何   騅往かずや、いかんとすべき。
虞兮虞兮柰若何   虞や虞や、汝をいかんせん。

数回歌うと、虞美人がそれに唱和した。項羽は数行の涙を流した。左右の者らは皆泣き、主を仰ぎ見る事が出来なかった。

時はいまだに夜。真黒の時は続いている。項羽の心はいまだに覇王。涙を流して膝を屈する事なぞ有り得ない。項羽は密かに麾下(きか)の壮士八百余人のみを連れて出撃し、夜が明ける前に囲いを破って南へ出、ひたすら、馳せた。

一方、漢軍は、夜が明けた所で、ようやく項羽が脱出した事を悟り、追っ手を放ってくる。項羽は淮水を渡ったが、その時、従者はすでに百人余りに減じていた。項羽は途中で道に迷い、田夫に道を尋ねたが、田夫は嘘をついて項羽を大沢へ陥れ(おとしい)てしまった。それによって漢軍に追い付かれてしまう。

項羽は東して東城の地へ至ったが、兵の数はすでに二十八騎に減じていた。対して、漢の追撃軍は数千人。項羽はもはや脱出できないと思ったのか、最後まで付いてきた部下らへ向かって語り始めた。

「吾(われ)は兵を起こして八年に至り、七十余りものを戦いを経験したが、当たる者は破り、撃った者は従わせ、いまだかつて敗北せず、ついに天下の覇者となった。しかるに、今、ここに困窮しているのは、天が我を亡(ほろ)ぼそうとしているせいであり、戦による罪では無い。今日はもとより決死である。願わくば諸君と快く(こころよ)戦わん。必ず三勝し、諸君らのために囲いを破り、将を斬り、旗を刈ることで、天が我を亡ぼそうとしているのであって、戦いによる罪では無い事を、諸君に知らしめよう」

項羽は部下の騎兵を四隊に分けて四方へ向かった。漢軍はこれを幾重にも囲っていたが、項羽は不敵にも付き従う騎兵へ向かって、

「我は君(公)のために彼(か)の一将(敵の将軍)の首を獲ろう」

そう約束した。項羽は四面にいる部下の騎兵らに向かって、馳せ下った後、一度、山東へ集まった後に、再び三ヶ所に為る事を言い含めた。項羽が号令を発して馳(は)せ下ると、漢軍はみな靡(なび)き、ついに項羽は漢の一都尉(部隊長)の首を獲った。この時、楊喜と言う騎将が項羽を追い掛けてきたが、項羽が目を瞋(いか)らせてこれを叱ると、楊喜は人馬共に驚き、辟易(後退(あとずさ)り)すること数里に及んだ。項羽らは一旦集結した後、手筈(はず)通りに三ヶ所へ再び散ったので、漢軍は項羽の所在が分からなくなり、結局、軍を三つに分けて囲ってきた。

項羽はさらに馳せた。また漢の一都尉を斬り、数百人を殺した。こうして、天に逆する剛勇を揮った項羽は、再び従者たる騎兵を集結させたのだが、その時、戦死者は二名を数えるのみだった。項羽は言い放った。

「何如(どうだ?)」

騎兵らはみな伏して答える。

「如大王言(大王のおっしゃる通りでございます)」

項羽らはさらに東へ走り、やがて、鳥江を渡る事を欲した。そこでは鳥江の亭長が舟を用意して待っており、項羽を江東の地へ逃がそうとした。亭長曰く、

「江東は小さな土地といえども、地は千里に方し、人口は数十万人にして、王に足る土地でございます。願わくば、大王さま、急いでお渡りくださいませ。ここには私の舟しか御座いませんから、漢軍が来ても河を渡る事は叶いませぬ」
この意見に対して、もし、劉邦であれば、言われるまでもなく舟へ乗って死に物狂いで再起したいと願っただろう。だが、項羽の心性はそのような執着とは無縁だった。項羽は笑って曰く、

「天が我を亡ぼすのだ。どうして渡れるものか。かつ、(我はかつて)江東の子弟八千人と共に河を渡って西へ向かったと言うのに、今、我は一人も連れ還(かえ)っておらぬ。たとい江東の父兄が我を憐れんで王にしたとして、我に何の面目があって彼らと見(まみ)えるのか。たとい彼らが何も言わずとも、籍(項羽)はひとり心に恥じぬ事があろうか」

項羽は亭長に自分の馬を贈ると、従者たちにも下馬させ、やがて、短い武器のみを持って接敵した。そして、項羽一人だけで数百人もの漢軍を討ち取ったが、項羽も身に十余りの傷を負ってしまった。その時、漢軍の騎兵の中に見知った顔を見掛けた。項羽はその男へ向かって、

「汝は我の古い知り合いではないか?」と呼ばわった。声を掛けられた男は項羽の顔を見るや、

「これが項王だ!」と、叫んだ。項羽曰く、

「我は聞く。漢は我の首を千金と万戸によって贖う(あがな)と。我は汝に徳を為そう!(我の首をくれてやろう!)」

項羽は自らの首を自らの手で刎(は)ねて死んだ。項羽の亡骸を手に入れれば莫大な恩賞と引き換えに出来るので、漢の士卒らは項羽の亡骸に群がって奪い合い、その争いによって数十人が死んだと言う。

こうして、項羽は亡くなり、楚はみな漢に降ったが、魯だけは主君である項羽に対して節義を全うしようとし、漢軍に攻められても降らなかった。漢は魯に対して項羽の首を差し出し、それによって降伏させた。漢はかつて楚の懐王が項羽を魯公に封じていたのと、魯が最後まで忠義立てして下らなかった事を理由に、項羽を魯公の礼を以って穀城へ埋葬させた。漢王劉邦は哀悼の意を発し、涙を流した上で立ち去った。劉邦は項羽の一族を殺す事はせず、かえって諸侯に封じ、劉つまり王族の名前を与えたのだった。

 

 

逸話、伝説、評価

①覇王の兵法と武勇
項羽は剣術も兵法も深く学ぼうとしなかったが、軍を率いれば無敵、また、自ら武器を取っては天下無双の猛勇を発揮し、結局、自らの意志で死を選ぶまでその武威を止められる者は現れなかった。

項羽の軍略は、宋義とのやり取りが示す通り、全く実戦的かつ率直な内容であり、計略による騙(だま)し合いや罠を仕掛けるような賢しげな性質を持っていたとは考えにくい。項羽による進撃は士卒を死兵と化し、無用を廃して迅速に襲い掛かり、十倍の敵をも恐れずに戦意を発するものだったと言える。

また、項羽自身の武勇も格段の強さと迫力を有していた。かつて、劉邦と対陣していた時、項羽は壮士を出して挑戦させたが、漢の側は樓煩(ろうはん)族の弓兵を出して楚の壮士を三度も討ち取ってしまったので、項羽は大いに怒り、ついに、自身が兜を被り戟(げき)を持って出陣した。樓煩人は相手が項羽と知らずに矢を射ようとしたが、項羽が目を瞋らせてこれを叱ると、樓煩人は目を合わせる事が出来ず、矢を射る事も出来ず、ついに自陣の壁の中へ逃げ帰って再び出ようとはしなかった。劉邦は密かに使いを放って樓煩人を戦わずして下した相手の正体を探り、それが項羽自身である事を知ると大いに驚いたと言う。

それほど、項羽の武勇と兵法は超人的な天性によって発揮されたものだったと言える。

②司馬遷による評価
当時の歴史を記した『史記』の作者である司馬遷は項羽について以下の言葉を残している。

「吾は周生にこれを聴く。舜(古代の聖天子)の目は重瞳子(瞳が二重に存在する)だったと。また、項羽も重瞳子だったと聞く。項羽はあるいは舜の苗裔だ(びょうえい)ったのだろうか。(中略)項羽は寸土すら持たなかったのに、勢いに乗じて隴畝(ろうはん)(民間)の中より決起して三年、ついに五つの諸侯の将として秦を滅し、天下を分割して王侯を封じ、政を手中にして覇王と号した。覇王の位を全うする事は出来なかったが、これは近古以来いまだあらざる事だ。しかし、項羽は(重要な土地である)関中へ背を向けて故郷の楚を思い、義帝を放逐して自立してしまった。じきに、王侯が反乱を起こした事を恨んだが、それは難い事だ。自ら征伐の功を誇り、私智を奮って古を師とせず、それを覇王の業だと謂(い)い、力征を以って天下を経営せんと欲して五年、ついにその国を滅ぼしてしまったが、東城にて死に及ぶに際しても、なお、覚らず、自らを責めなかったのは過ちだった。「天が我を亡ぼすのであって、用兵の罪では無い」としたのは、どうして間違いでは無いと言えるだろうか。

 

 

まとめ

項羽は将軍としても壮士としても天性の強さを誇り、神掛かりの域に達していたかのような武威を有していたと言える。また、非常に情に厚く、故郷を思い、死に至るまで側近らと共に敵軍に牙を剥いて恐れる事が無かった。項羽はもとより君主として現れた訳では無く、叔父である項梁の死を契機にして、思いがけなく当主となり、そのまま時流に乗って天下の主となってしまったが、それは元々の項羽の気質に反する事だったと言えるだろう。

項羽は敵対した者に対しては苛烈を極めて過剰な殺人を犯し、味方に付いた者らに対しても心配りが出来ず、領土を粗雑に分配してしまい、ついには、唯一の師である范増すら信じられなくなり、全て独断で突き進む事しか出来なくなったと見なせる。項羽は用兵の罪を犯した訳では無かっただろうが、政治上の罪を犯し、なにより、天道に対する罪業を重ねてしまった事で、ついには、天の刑罰に服したと言うべきなのだろうか。

もし、項羽の運命が変転せず、項梁の許で楚の有力な武将として働き続けていれば、その武勇は後々の世にまで伝えられ、天の罪人の如く貶められる事は無かったかもしれない。後世、垓下における項羽と虞美人のやり取りは『覇王別姫』と言う京劇の演目として大いに取り上げられ、末永く愛されている。項羽の最期が人の心を惹き付けるのは、項羽が単なる暴虐の君主では無く、風雲に乗じて大業を為し、天命によって滅び去った、古今無双の純粋な大豪傑の一面を持っていたからだと言える。

作家の司馬遼太郎さんが「時代の境目には時代を変えるためだけに彗星のように現れて去っていく人物が登場する」と仰っていた。正に項羽のことだと思う。

20代前半で挙兵し、前述の全てのエピソードは31歳までに行ったことである。31歳の若者など失敗して当たり前であり、環状に任せて動くことも大いにある。

そんな正しく彗星のような項羽は、中国歴史上で最強の男であり、英雄の1人である。

 

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