歴史

孫子兵法の孫武と並び称された『呉起』は、呉子兵法で不敗を極めた兵法家。

『呉起』は、孫武や孫臏と並んで兵法家の代表的人物とされ「呉子」をまとめた人物である。

若き日は、母親の葬儀に出るよりも学問を優先したことから破門にされるなど、徳や仁よりも立身ばかりを追った話が残っている。努力が実り、大成するも行く先々で高すぎる能力を恐れられ、権力者に追い払われた呉起。どこか漢建国の三英傑と似通った部分があるように思える。

いつの時代も高い志、能力を持つの者を害するのは、やる気のない邪な味方だ。そんな時代で次々に功績をあげて、戦国最強の軍を率いた『呉起』をご紹介したい。

 

 

略伝

呉起(ごき、生年不詳~紀元前381年)、は中国戦国時代(前403~前221年)における兵法家。衛の国出身。始め魯の国に仕えて斉の国の軍勢を撃ち破るも、讒言に遭って魏の国へ移る。そこで大将となり大いに活躍し、魏の国が隆盛する要因となる。その後、楚の国へ移り、徹底した政治改革と軍備拡張を行って力を蓄えたが、それが既得権を犯された貴族からの反発を呼んで暗殺された。その優れた兵法は『呉子』として後の世に大いに伝わった。

 

 

功績とエピソード

①妻を犠牲にして魯の国の将軍となり敵軍を撃破
呉起は孫武と並んで中国の代表的な兵法家として後世に知られている。とは言え、孫武がいわゆる模範的な軍師であるのとは対照的に、呉起の生涯は激烈かつ壮絶であり、溶岩が猛り狂るかのような変転を繰り返している。呉起は兵法家として超一流でありながら、政治家としても大いに働き、むしろ、法家(法律で国を治める専門家)の魁と(さきがけ)して評価される事が大であるとさえ言われている。

呉起は衛の国にて産まれた。呉起の家には千金を重ねる程の財産があった。呉起はそれを用いて諸国を廻って仕官を目指したが叶わず、結果として、家を破産させてしまった。それを郷里の者らが嘲った。それに対する呉起の反応は苛烈だった。呉起は自分を謗(そし)った者ら三十人あまりを皆殺しにしたのだ。当時、他人を侮辱する事はそれだけで殺される程の大きな罪だったようだが、それにしても凶暴な行いと言える。その後、呉起は東へ行こうとして衛の街の門へやってきたのだが、そこで母親に対して己のひじを噛み切り血を流して誓いを立てた。

「卿相(大臣宰相)にならざれば、再び衛の国へは帰らぬ!」

壮絶な復讐者である呉起の誓いからは烈火の如き感情が噴き出していたかもしれない。その後、呉起は儒家である曾子の許で学び始めたのだが、そのうち、母が亡くなってしまった。道徳的な教えである儒教では父母が亡くなれば三年の喪に服する事になっており、それは人として当然行うべき事だとされていたが、呉起は先の誓いのためかついに故郷には帰らなかった。そのため、曾子は呉起を破門にした。呉起は魯の国へ行き、今度は兵法を学んだ。そして、ついに、魯の国に仕える事が叶った。

やがて、魯の国へ東の強国である斉の国が侵攻してきた。魯の国では呉起を将軍として起用する事が協議されたが、呉起は斉の国から妻をめとっていたので疑われていた。つまり、斉の国に通じているか、斉の国に対して手心を加えるのではないか、と言う事だろう。それに対する呉起の対応は常軌を逸していた。なんと、妻を殺す事で、斉の国に与しない事を証明したのだ。結局、呉起は魯の国の将軍として斉の軍勢を大いに撃破した。しかし、戦後、彼を憎む者から讒言されたので、魯の国では用いられなくなってしまった。なので、呉起は魯の国を出て、大陸の中央に位置する魏の国へ出向いたのだった。

②魏の国の将軍となり全戦無敗を誇る
呉起は儒者の服装をして魏の国の文侯に面会した。文侯は「私は戦争に関わる事(兵事)を好まない」と述べたが、呉起は「私は目に見える事象を以って隠された事実を占い、過去を以って未来を察知いたします(臣、見を以って隠を占い、往を以って来を察す)。主君、なぜ言葉と本心を違えるのですか」と返し、軍備を求めている文侯の本心を看破した上で軍事の重要性を語った。呉起はそれによって大いに認められ、魏の国の大将に就任した。その際、文侯は李克と言う者に呉起の人となりを問うた。李克曰く「呉起は貪欲かつ好色ですが、用兵においては司馬穰苴でも彼を超えますまい」。結局、文侯は呉起を将軍として秦の国を攻撃し、城を五つ陥としたのだった。

兵法家として本格的に躍動するのはこの時より始まる。呉起が魏の国の大将として行った主な会戦は合計七十六回にして、完勝六十四回。残りは引き分けだった。魏の国の領土は呉起の働きによって四方(よも)に拡張し、千里の彼方にまで及んだ。魏の国は戦国の世において七大国として君臨するが、それは呉起の力によるものだったと言われている。

③呉子の兵法と孫子の兵法
呉起の書き残した兵法書は数千年の後にまで伝わっている。元々、呉子は四十八篇だったが、後世にはおおむね六篇のみが伝わっている。その内容は孫子の兵法書と比べて具体的かつ実践的と言えるだろう。孫子の兵法書はその普遍性と後世による洗練化によっていつの時代でも尊重される書物になったと言えるが、呉子の兵法書は具体的な内容故に時代性や個人の経験が色濃く残っており、後世の人々からすると古めかしい面がある一方、原始的な戦争における具体的な戦法の数々が生々しく記述されていると言える為、孫子とは違った形で読者に学びの機会を与えてくれるだろう。

呉子の兵法書では国家や軍隊の和合を重要視する。君主が兵士らの命を愛しみ、その死を惜しんでいると思われてこそ、兵士らは進んで死ぬ事を栄光とし、逃げて生きる事を恥とするようになるとする。また、指揮官の能力に着目し、いくら百万人の軍隊を率いていても、法令や賞罰が不適切であり、指示通りに軍隊を動かす事が出来なければ役に立たない事を述べ、また、新しい主君である武侯に対して優秀な家臣を得る事の重要性を伝えている。また、儒者らしく道・義・礼・仁を重んじ、それを実行すれば国は興ると述べ、有能な者を上へ置き、無能な者を下へ置く事で陣営は定まり、人民の生活を安定させ、人民が君主を認め、隣国を誤っているとすれば、すでに戦いに勝利しているも同然とする。その和合と教育を重要視する思想はいかにも実際的だろう。

それと同時に、呉起は具体的な軍隊の動かし方や各種状況における有効な戦法についても明確に答えている。精鋭部隊の編制法や、兵士の体格や能力に応じた役割分担や、旗や太鼓等を用いた具体的な軍隊の命令法や、軍馬の健康を保つための飼育法や、戦うべき相手と戦うべきでは無い相手の特徴や、敵将の性格に応じた戦い方や、「谷戦」や「水戦」等、地形に応じた個別的な戦法、さらに、略奪軍に対する対処法や、占領地での注意点に至るまで記述されている。以上のように、呉子の教えは理念や理論ではなく実用のための方法や方針で満ちていると言える。

④これ車騎の力に非ず。聖人の謀なり
呉子の兵法書を代表するような逸話を以下に示す。ある時、呉起の主君である武侯が呉起に訊ねてきた。その要旨は、
「ここに武勇に優れた敵の大軍が居るとする。しかも、巨大な山を背にし、険しい土地を前にし、右側へ山を置き、左側へ川を置いている。また、堀を深くし、塁を高くし、強弩を以って守っている。退けば山が移るが如く、進めば風雨の如し。さらに、食糧は多い。このような守り難き敵を相手にするにはどうすれば良いだろうか」かように理想的な敵軍に対しては成す術(すべ)が無いように思われるが、呉起はこの難しい問い掛けに対しても徹底的な具体案によって明察を披露している。

「これは大いなる問い掛けです。これは単純な戦闘力の問題では無く「聖人の謀」と呼ぶべき問題です(これ車騎の力に非ず。聖人の謀なり)。まず千の戦車と万の騎馬を揃え、これに徒歩の兵士を添えた上で、軍を五つに分けて各所に配置すれば、敵軍は必ず戸惑って、どこを攻めれば良いのか判断できなくなります。もし、敵が守りを固めたならば、間者を放って敵の動向を探った上で、敵軍に使者を送って退去する事を求めます。それが通れば良いですが、敵がこちらの使者を斬ってその書を焼けば、こちらは軍隊を分割して五回戦い、例え、勝利しても追わず、勝てなければ素早く退きます。このように偽って逃げ、静かに行きて疾(と)く闘い、一軍は前より攻め、一軍は後方を絶ち、二つの軍には枚(ばい)(声を出さない為に咥(ふく)える板)を含ませ、あるいは左し、あるいは右して、その虚を突くのです。かように五つの軍が入れ替わって戦えば、必ず有利を得る事が出来ます。これが強者を撃つための道であります」

呉起の語る兵法には淀み無く、あらゆる事項と事例に対して実際的な回答を響かせているようだ。そして、何より、呉起にはそれを裏付ける懸絶(けんぜつ)たる実績がある。その最たるものは西の大国たる秦との間で行われた西河の戦いだろう。

先だって、呉起は主君たる武侯から「刑を厳しくして賞を明らかにすれば勝利に足るか」との問いを受けた。それに対して、呉起は、単に賞罰を明らかにするだけでは無く、功績のある者を表彰してもてなし、功績のない者にはこれを励ます事を推奨した。武侯は呉起の献策に従った。つまり、宴を開いた際に、家臣を功績に応じて上中下に分け、各人にふさわしいもてなし方をした。そして、家臣らが宴から退出する際にも、功績のあった者の父母妻子には功績に応じた土産を与えた。また、戦没者の家族には毎年使者を送り、その犠牲を忘れていない事を示した。

こうして三年経った。ある時、秦の国が大軍を発して魏の国へ攻めてきたが、魏の国の家臣らのうち、命令される前に兜を身に付けて発奮し自発的に攻撃する者の数が万に達した。つまり、呉起の提案した和合の策が彼らの士気を十分に高めたと言える。さらに、呉起は武侯から呼び出された後、こう答えた。

「臣(わたくし)は聞いております。人に短長あり、気に盛衰ありと。我が君よ、試しに功績の無い者を五万人集めて出撃させてください。臣はその軍隊を率いて敵軍に当たる事を請います。もし、それで勝てなければ諸侯の笑いものになり、天下に対して権勢を失いましょう。ですが、例えば、死を覚悟した一人の賊が広野へ潜めば、千人がこれを追っても、梟の(ふくろう)ような視線で狼の如く首を振り、周囲をおどおど見回して恐れるのは追っ手の方です。なぜなら、敵からの襲撃があれば、殺されるのは自分かもしれないからです。つまり、ただ一人の賊が命を投げ出せば千人の男を恐れさせるに足るのです。今、臣が、五万人の兵を一人の死を覚悟した賊のようにし、これをもって敵軍を討伐すれば、向かう所敵無しです」

武侯は呉起の意見に従い、五万の兵に加え、五百乗の戦車と騎兵三千を用意した。出撃の前、呉起は全軍に対してこう命令した。

「各士卒は決められた相手のみと戦え。もし、戦車隊なのに敵の戦車隊と戦わず、騎兵なのに敵の騎兵と戦わず、歩兵なのに敵の歩兵と戦わなければ、例え、敵軍を破ったとしても功績は認めない」

こうして、あらかじめ各人の任務を簡明にしておいたので、実戦ではわざわざ煩雑な命令を下す必要が無かった。呉起はこの約五万人の軍を率いて出撃し、秦の大軍五十万を撃ち破った。つまり、呉起の秀抜なる指揮によって約十倍の戦力差という絶望的な不利を覆したのだ。その威勢によって天下が震撼した。

時代は戦国の始まり。過去には太公望や孫子ありといえども、七十六戦無敗にして、秦軍五十万の東征をわずか約五万の決死隊によって大いに挫いた呉起は、まさしく最強の軍師と呼ぶに相応しい絶大なる実力を赫々(かくかく)と示したのだった。

⑤楚の国にて富国強兵の改革を推し進める
呉起は魏の国にて大いに栄達するのだが、やがて、呉起も認めた宰相の田文が亡くなってしまった。田文の後に宰相になったのは公叔と言う男だ。しかし、公叔は呉起をねたんでおり、そのため、呉起を陥れるための陰険な策を仕掛けてきた。公叔は武侯に対して、呉起を魏の国へ引き留めておくために、武侯の娘と呉起との縁談を持ち掛けさせた。もし、縁談を受ければ良いが、受けなければ、呉起はこの国に留まっている気は無いと分かる、と言う訳だ。公叔は自身が武侯の娘を妻にしていたので、その妻と共謀し、妻にわざと自分に対してひどく侮辱的な態度を取らせ、それを呉起に見せ付ける事で、呉起に武侯の娘を妻にする気を失せさせようとした。案の定、呉起は武侯からの縁談を断ってしまった。そのせいで、武侯は呉起の本心を疑って信用しなくなってしまった。呉起は身の危険を感じたので、南の大国たる楚の国へ移る事にした。

当時、楚の国を治めていた悼(とう)王は、呉起は賢明であるとの評判を聞いていたので、彼を宰相に任命した。呉起は元々宰相の地位を望んでいたので、この待遇には大いに満足したかもしれない。呉起は法令を調べ上げ、不急の官を廃止し、公族の中で疎遠な者を廃し、一方では、戦士を養い労わり、兵を強くする事を要務とし、合従連衡の(がっしょうれんこう)弁を用いる者を論破し、南においては百越の民を平らげ、北では陳と蔡の二国を併合し、三晋の国(魏・趙・韓)を撃退し、西においては秦の国を討伐した。呉起の活躍は止まる所を知らず、諸侯は楚の国が強大になる事を憂えた。

しかし、呉起の活躍を問題視したのは諸侯だけでは無かった。呉起による急進的な改革によって力を削がれただろう貴族らも呉起を憎み切っており、彼の殺害を望んでいたのだ。やがて、呉起を宰相に任じていた悼王が亡くなると、公族や大臣が時を置かずに反乱を起こして呉起を襲撃した。

呉起は己の死を悟ったようだが、そこで賊徒らに対して最期の策略を仕掛けた。呉起は悼王の亡骸が安置されている部屋へ駆け込むと、悼王の亡骸の上へ己(おの)が身を投げ出した。そこへ暴徒らがやってきて呉起に矢を撃ち掛けて殺してしまったが、その矢は悼王の亡骸にも突き刺さった。その後、悼王は葬られ、太子が新たな王となったが、太子は父親である悼王の亡骸に矢を突き立てた許し難い反逆者らを殺し尽くした。反逆者の罪は連座し、七十もの一族に属する者らが皆殺しにされた。呉起は自分が悼王の遺体に身を投げ掛ければ、自分を殺すために放たれた矢が王の体にも当たり、それによって太子が父の復讐のために襲撃者を皆殺しにしてくれる事を予知していたのだろう。

こうして、呉起は主君の亡骸すら策略のために利用し、それによって死した後に大いに復讐を果たした。その智謀は鬼気迫ると呼ぶに相応しい。

 

 

逸話、伝説、評価

①徳こそ国の宝
ある時、魏の武侯が西河に舟を浮かべて中流を下りつつ、呉起を顧みて「美しいかな山河の守りは。これぞ魏国の宝なり」と述べた。しかし、呉起は肯(がえ)んじなかった。呉起は過去において要害に依りつつも滅んでいった諸々の国家の例を挙げた後、「(これらの国家が滅びた)原因を観るに、(国家の真の守りとは)険にあらず、人に在り。若君(武侯)が徳を修めなければ、この舟の中の人ことごとく敵国となりましょう」

なお、呉起自身は有徳の人とは言い難かっただろうが、兵を用い国を導く事に関しては道義を非常に重んじた。例えば、自身が将軍となった際には、最下位の兵士と同じ衣食を取り、寝る時には敷物を使わず、騎馬にも乗らず、食糧を自分の腰に付ける事で、士卒と苦労を分かち合った。とは言え、その仁徳は兵士を死地へ送るための方策だったと言える。ある時、呉起は病気になった兵士のためにその膿(うみ)を吸い出してやった事があったが、それを伝え聞いた兵士の母は喜ぶどころか哭(な)いた。以前、彼女の夫も同じように呉起に膿を吸い出してもらった事があったが、それによって夫は感激し、呉起のために勇ましく戦って死んでしまった。息子も同じようにどこで死んだのかも分からないようになってしまうだろう。だから哭くのだ。手段としての道義や善意はかように残酷な結果を生むとも言える。

②注文よりも良い仕事をした妻を大いに責める
ある時、呉起は妻に組紐を見せ、これと同じ物を作るよう頼んだ。妻は言われた通りに紐を作ったが、出来上がった物は元の紐よりもはるかに立派だった。それを見た呉起は、同じ物を作れと言う頼みに反しているので怒った。妻は材料を増やした訳では無く手間を掛けて良い物を作ったのだと反論したが、呉起は妻を大いに責めて里へ追い返してしまった。

兵法家である呉起からすれば、妻の行動は命令を無視して余計な敵と戦って功名を挙げようとする危険な兵士と同じだと判断するのが妥当だったのかもしれない。一人の将軍による独断専行によって無用の戦争が起きてしまい、それが自国を破滅に導いてしまう事も有り得るのが戦争なのだから。

③田文の適性を認める
呉起は将軍としてのみならず為政者(いせいしゃ)としても野心を燃やしていたようで、魏の国に居た頃には西河の太守として名声を高めていたが、魏国に宰相が置かれると、その地位には呉起では無く団文が就任した。呉起はそれを不満に思い、田文に対して、軍事、政治、権威の面で自分と田文を比べさせ、本人に全て自分には及ばない事を認めさせた。そこで呉起は田文に対して「それなのに、なぜ、先生(田文)は吾(われ)より上の地位に居なさるのか」と、直接的な表現で迫った。それに対して、田文曰く、
「主君が若く、国の者は疑いを持ち、大臣もいまだ従わず、百姓は信ぜず。かような時、国を託されるのは貴方でしょうか。それとも、私でしょうか」

呉起は長いあいだ黙った。そして、こう述べた。
「貴方に託されます」

己を良く知っていた田文も偉いが、それを自ら認める事が出来た呉起も単なる野心家では無かったと言える。

④司馬遷による評価
歴史書である『史記』を著した司馬遷は、呉起を以下のように評した。

「能(よ)く行える者が能く言えるとは限らず、能く言える者が能く行えるとは限らない。呉起は武侯に対して形勢ではなく徳を以って説いたが、彼が楚の国にて行った事は刻暴少恩(残酷かつ恩義に欠ける)、それを以って己が肉体を滅ぼしてしまった。悲しい事だ」

呉起は楚の国にて何を見、何を思って、急進的な改革を押し進め、己の言葉に反してまで国家を富ませようとしたのだろうか。彼が惨たらしい最期を遂げてしまったのも、刻暴少恩の四字のみで済ませて良い事なのだろうか。とは言え、今や呉起の真意は闇の中であり、只、歴史書に残された経歴と業績、そして、兵法書によってのみ、その思想と生涯を伺い知る事が出来る。

 

 

まとめ

呉起は若年時の失敗を乗り越えて烈々と雄飛し、やがて、兵法家として天下の諸国に打ち勝って無敗を誇り、秦の国すら十倍の兵力を以ってしても呉起からの逆襲を止める事が出来なかった。呉起ほどの用兵術の達人は全ての時代を通じても並び立つ者が居ないのではないかとさえ思える。

ただし、呉子曰く「天下戦国、五たび勝つ者は禍な(わざわい)り、四たび勝つ者は弊たり、三たび勝つ者は覇たり、二たび勝つ者は王たり、一たび勝つ者は帝たり」。かように戦って勝つ事の危うさを語っているにも関わらず、本人は七十六回もの戦いに勝ってしまっている。百戦百勝は善の善なるものにあらず、と言う、孫子の教えに則れば、呉子の多すぎる戦果はかえって不吉なものだと言える。

とは言え、当時は戦国時代であり、度重なる戦いを避けて通る事は難しかっただろう。そして、優秀すぎる軍師や指揮官は主君や家臣から警戒や妬みを買い、それが極まれば殺されてしまうのもまた必然だとすれば、呉起の悲劇的な生涯もまた、運命だったのかもしれない。

 

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