歴史

呉楚七国の大乱を鎮圧した『周亜夫』は、救国の大将軍。

漢建国の功臣の一人である周勃の息子として生まれた『周亜夫』は、前漢の大乱を鎮圧した救国の名将である。

巧みな用兵術で兵を率い、国難をわずか3ヵ月で鎮圧し宰相にまでなった『周亜夫』だが、主君や有力者に恨まれ獄中死するという非業の死を遂げている。

救国の英雄に何があったのか?そんな『周亜夫』をご紹介したい。

 

略伝

周亜夫(しゅうあふ) 。前漢時代(?~前143)における武将および政治家。生年不明。没年前一四七年(景帝中三年)。父は漢の高祖劉邦に起兵時より付き従った将軍である周勃。当初、兄が家督を継いでいたが、兄が罪を犯したために、周亜夫が代わりに一族の家督を継いで文帝および景帝に仕える。

やがて、呉王劉濞が首謀者として引き起こした呉楚七国の大乱の際に大尉(軍事の最高責任者)として三十六人の将軍を率いて出陣。断固たる意志で適切な戦略を貫き通し、反乱軍をわずか三ヶ月で撃滅した。その後、宰相となり、朝廷内にて重きを成すも、直言を厭わない性格等が災いして、主君である景帝や他の有力者に憎まれ、ついには、獄中にて餓死した。

 

 

功績とエピソード

①皇帝といえども軍令を犯させず
春秋戦国の乱世は秦王朝の滅亡によって完全に終止符を打たれた。今や中国大陸は漢帝国が一手に治めている。とは言え、その統治の間、全く戦乱が起こらなかった訳では無い。漢帝国は広大であり、かつては独立国であった各地の領土は漢帝国の王族である劉氏の一族が治めているが、彼らは地方にて独立した統治を行っているふしがあり、皇帝の権力は未だ絶対的なものとは言い切れなかった。

また、漢帝国のさらに北部では、かつて、漢の初代皇帝である劉邦を野戦にて屈服させた強大な匈奴賊が跋扈しており、五代目の皇帝である文帝の時代になっても匈奴による脅威は大きな悩みの種となっていた。文帝は戦国時代の名将たる廉頗(れんぱ)や李牧の話を聞いて、なぜ彼らを臣下にできないのだ、(それが叶えば)匈奴に悩まされる事は無くなるだろうに、と、嘆いた。戦乱が収まっても脅威は消えていなかったのだ。

このような情勢であるから、匈奴に対する備えを怠る事は出来ない。文帝の後六年に匈奴が大いに辺境へ侵入。それに対して、劉禮[(りゅうれい)、徐厲(じょれい)、そして、周亜夫が将軍に任命されて各所へ布陣した。その後、文帝は各軍隊を慰労するために御自ら陣営へ出向いたのだが、霸上(はじょう)と棘門に(きょくもん)ある劉禮や徐厲の陣営には直接駆け込む事が出来、将軍以下出迎えてきたが、周亜夫の陣営のみは、軍兵らは鎧を着込み、兵の刃は鋭く、弩弓は引き絞ってあり、皇帝の先遣たる使者がやってきても陣営へ入れようともしない。使者は「天子様がじきにご到着!」と叫んでも、軍門の都尉(部隊長)は「将軍の御命令だ。軍中にあっては将軍の命令を聞く。天子の詔を(みことのり)聞かず」と返して取り合わない。とうとう文帝がやってきたが、やはり中へ入れない。文帝が使者に詔を持たせて「吾は軍営へ入りたい」と言伝(ことづて)する事で亜夫はようやく門を開いたが、門の兵士は「軍の中では馬を走らせてはいけないと決まっている」と述べたので、天子の馬車は徐行して軍営へ至った。周亜夫は兵を持して揖(ゆう)(両手を胸の前で組み合わせて挨拶)して曰く「鎧を着た兵士は拝する事を致しません。軍の作法を以って見(まみ)える事をお許しください(介胄之士不拜,請以軍禮見)」。文帝は車の容式を改めさせた上で、人を遣わして「皇帝は将軍を敬い労わります」と恭しく称え、礼を成した後に軍門から去った。

後に、その顛末を聞いた群臣らはみな驚いた。彼らからすれば、この世で最も尊いお方である皇帝に対して、周亜夫のように傲慢な態度を成すなぞ有り得ない、と言った所だろう。だが、当の文帝の意見は真逆だった。文帝曰く、

「ああ、これぞ真の将軍だ。先に見(まみ)えた霸上や棘門の軍は児戯の如きのみ。その将はもとより襲って捕らえる事が出来る。だが、亜夫に至っては侵犯する事が可能かどうか(至於亞夫,可得而犯邪)」

文帝は久しく周亜夫を称えて善しとした。この話はいかに文帝が名君としての度量と見識を有していたかを示すものだと言えるだろう。翌年、文帝は崩御したが、その際、皇太子に対して、

「すなわち緩急があれば(緊急事態が起これば)周亜夫に将兵を任せるべし」

と、言い遺した。こうして、周亜夫は車騎将軍を拝命して国家の盾となった。

 

②呉楚七国の大乱起こる
文帝が述べた「緩急」はじきに現実のものとなった。地方を治めている王族らが連合して反乱を起こしたのだ。その数は七ヶ国に及んだ。実はこの事態はすでに文帝の時代に警告されていた。賈誼(かぎ)と言う若いながらも賢明な文人が文帝の子の傅(も)り役として仕えていたのだが、彼は文帝が弟の子四人を列侯に封じた事をいさめ、諸侯のうち複数の郡を所有する者の領地を徐々に減らしていくよう、たびたび上奏したのだが、聞き入れられなかった。じきに、賈誼は亡くなってしまうのだが、彼が危惧していた最大の危機が景帝の時代に最悪の形で実現してしまった訳だ。

では、なぜ、七ヶ国の王族による反乱が起こったのか。その原因の一つは、御史大夫(副丞相)の鼂錯(ちょうそ)と言う者が列侯の領土を露骨に削減し始めた事だった。それはおおむね賈誼が述べた通りの対応策ではあったが、鼂錯の場合にはその方法が急激すぎた。それによって列侯たる王族らは不満を大いに募らせた。その中でも、もとより半ば独立国のように振る舞っていた呉王劉濞は漢の宗室に対して大いに恨みと反逆の志があったようで、今こそ好機とばかりに列侯たる王族らに決起を働き掛け、それが七ヶ国による大乱となった訳だ。

劉濞が皇帝に対して恨みを持った事自体は当然の事とも言える。かつて劉濞の息子は首都長安にて当時皇太子だった景帝の宴会に参加し、酒を飲みつつ博(盤上にて行うばくち遊び)を行っていたのだが、その際、賽の目について口論になった。景帝は劉濞の息子の態度に腹を立てたのか、博の盤を持ち上げると、それを劉濞の息子に投げ付けて殺してしまった。歴史書の記述によると、劉濞の息子は甘やかされており、態度も不遜だったと言われているが、事実のみを取り上げれば、景帝がばくち遊びをしている最中に盤を凶器にして相手を殺した、と言う事になる。これは明らかに犯罪的な行為だが、景帝が裁かれる事は無く、ただ、劉濞の息子の遺体が呉の国へ送り返されただけだった。大切にしていただろう息子を殺された劉濞が深い怨恨と復讐の念を滾(たぎ)らせたとしても全く不思議な事では無い。

劉濞は息子の遺体を王族として弔わせるために長安へ送り返すと、それ以降、病を理由に参内せず、臣下としての礼法を無視するようになった。それに対して、一時、中央では厳しい追及があったが、それによって追い詰められた劉濞が良からぬ事を企みかねないと言う事で、結局、脇息と杖を贈り、老人であるから参内には及ばずとした。これによって劉濞は反逆の意志を薄めた。

だが、劉濞の逆心が消えた訳では無かった。元々、劉濞が治める呉の国では銅が産出したので、劉濞は銅銭を密かに鋳造し、また、海水を煮て塩を取っていた。塩は人が生きていく上で必須のものであるから貴重な資源だ。これらを自らの領内にて量産できたのだから豊かになるのが当然だった。そのような恵まれた地盤を生かして力を蓄えること四十年余り。時に孝景三年。列侯らの不満が沸騰し始めた事を潮にして、劉濞はとうとう反逆の牙を剥いたのだ。

反乱を起こした列侯らは君側の奸(かん)つまり鼂錯を討つ事を大義名分とした。そこで、景帝は鼂錯と仲の悪かった袁盎(えんおう)による献策によって、鼂錯を騙して呼び寄せた上で処刑し、それによって反乱を起こした列侯の不満を消そうとした。しかし、劉濞にとって鼂錯を討つ事は名ばかりの目的に過ぎなかったので、鼂錯が処刑されても反乱は全く収まらなかった。

③周亜夫出陣。賢者の意見を善く聞き入れ、天子の詔を拒否する
呉の国の反乱を鎮めるには武力を用いるしか無くなった。景帝から反乱軍の討伐を任せられたのは、かつて、文帝から称賛された周亜夫だ。亜夫は大尉として呉や楚の国を討つために東へ進軍を開始した。その際、景帝に対して、

「楚の兵士は剽軽であり、その鋭鋒と相争うのは困難です。願わくばこれを梁の国に委ね、その食糧を断てば、制する事が可能であります」

そう述べて、景帝から作戦の認可を得た。

なお、この作戦の内容は周亜夫の独創では無いようだ。亜夫は滎陽にてかつて父周勃の食客だった鄧都尉(鄧隊長。本名は不明)から同様の献策を受けているので、それを自分の意見として景帝に伝えたのかもしれない。鄧都尉の献策は以下のようなものだ。

「呉軍の勢いは非常に鋭く、真正面から戦うのは宜しくありません。楚の兵士の方は軽はずみですから長きに渡る戦いには堪えられません。将軍(周亜夫)は東北にある昌邑へ砦を作り、梁については呉のなすがままにさせておいた上で、堀を深くし、塁壁を高くし、その上で、軽装備の部隊を遣わして淮(わい)水(すい)と泗水(しすい)の出入り口を封鎖する事で呉の糧道をお塞ぎなされば、呉と梁とは互いに疲れて食糧尽き、それによって疲労の極みに陥ります。さすれば、必ず呉を撃ち破る事が出来ます」

周亜夫はこの献策に従って昌邑へ駐留し、その南の壁を堅くし、弓高侯の韓頽当(かんたいとう)が率いる軽騎兵を遣わして呉楚の兵士らの背後にある糧道を絶った。補給を断つ事で敵軍を戦わずして追い詰めて撃滅するのは、思うがままに暴れ回る賊徒の群れや、猪突してくる軍隊に対して有効だ。呉楚の反乱軍はがむしゃらに押し寄せ、その勢いは烈火の如くだろうが、此度の反乱の首謀者たる劉濞をそそのかしたのは豪傑では無く、無頼の子弟や亡命者や贋金(にせがね)作りの悪人だと言われ、その戦略も劉濞の独断によって進められ、臣下からの献策は受け入れられず、劉濞に無視されて登用されなかった者がかえって大胆な計略によって城を勝手に奪い取る始末。その行いは王者では無く賊軍のそれだと言えるだろう。ならば、その鋭鋒を避け、戦略の不備を突いて弱らせてしまうのが有効だと言える。

とは言え、堪らないのは放置された梁の国だ。梁は日ごとに周亜夫に使者を送って救援を請うたが、周亜夫は往く事を肯(がえ)んじない。梁は景帝に上書して救援を願い奉った。景帝はそれを受けて梁を救援せよとの詔を出したが、周亜夫は詔を奉らず、防壁を堅くして出撃しなかった。先の文帝にさえ軍令を全うさせ、天子の詔よりも将軍の命令を優先させたと言える意志堅固な将軍が、感情に突き動かされて既定の戦略を乱そうとしてくる天子の命令を聞く事はあり得なかった。まさしく「将たるもの軍に在れば、君命も受けざる所あり」。その峻厳たる軍略を乱す事は皇帝であろうと不可能だ。

④昌邑防衛戦。敵の策略を看破し、賊軍を大いに撃ち破る
周亜夫は昌邑の防備を固めつつ呉の糧道を絶った。呉の兵は食糧に乏しくなり、何度も挑戦してきたが、周亜夫は一切出撃しない。ある日の夜、軍中の内部にて入り乱れての同士討ちが起こったが(夜軍中驚內相攻擊擾亂)、周亜夫は帷か(とばり)ら出る事なく、最後まで起きずに寝ていた。この頃、軍中はすでに鎮まっていた。周亜夫の沈着ぶりはかように堂々たるものだった。

後に、呉の兵士らが昌邑の東南の片隅へ迫ってきた。しかし、周亜夫はそれが陽動だと見抜き、西北へ備えを遣わした。果たして、敵の精兵が西北から襲撃してきたが、侵入する事が出来なかった。ついに、呉の兵士は飢え、退却して去ろうとしたが、周亜夫はこの期を逃さず精兵を以って追撃し、これを大破した。劉濞はその軍を捨て、壮士数千人と共に逃亡し、丹徒の土地に依ったが、漢の兵士は勝ちに乗じてその軍隊を捕虜にし尽し、その兵を投降させた。逃亡した劉濞の身柄には千金の賞金が賭けられ、その一ヶ月あまり後に、越の者が劉濞の首を取って朝廷に差し出してきた。

こうして、周亜夫の実戦的な用兵術は成就し、呉王劉濞の野望は潰えた。三ヶ月にして呉楚の乱は平定された訳だが、諸将はすなわち大尉(周亜夫)の計略智謀をもってこれを成したとした。

⑤戦後、宰相となるも、景帝に憎まれ餓死する
周亜夫は大尉として朝廷へ帰り、約五年後に丞相の座へ就く。当初、景帝は周亜夫を甚だ重んじた。しかし、景帝は父である文帝のように周亜夫の峻厳な性格を受け入れる度量を持たなかった。景帝はすでに元の皇太子を廃していたが、周亜夫は丞相になった後、この件について固く争ったと言う。だが、その諫言(かんげん)は受け入れられなかった。

実は廃された元の皇太子の母親である栗(りつ)姫は景帝の姉との関係が悪かったので、景帝の姉によって景帝に自身の悪口を吹き込まれ、ついには、景帝の怒りによって皇太子を廃位されたと言うのが実情だと言われている。ならば、謹厳な周亜夫が景帝の所業を強く戒めたとしても不思議な事では無い。だが、景帝は周亜夫の直言を受け入れるどころか、これをもって周亜夫を疎(うと)んじるようになった。また、王夫人を新たな皇后とし、その息子を新たな皇太子とした。さらに、先の呉楚の大乱において、周亜夫から救援要請を無視された梁王が太后と共に周亜夫の短所を景帝に吹き込み続ける。

なお、梁王は景帝の弟であり、竇太后は梁王の母だ。景帝はどうやら己の感情に振り回されて行動する粗暴な性格である上に、梁王や竇太后のような近親者との公私のけじめを付けていなかったようだ。先の呉楚による大乱の際にも、弟である梁王から頼まれた事で既定の戦略をくつがえして周亜夫に梁を助けよとの詔を出した。周亜夫は文帝によって見出され、それによって功績をあげたが、戦乱が収まり、景帝に直接仕えるようになると、景帝の器が文帝とはまるで違う事がたちまち明らかになったと言える。周亜夫の正論と妥当性の塊である威勢ある性格と、己の感情を優先して行動する景帝との相性は最悪だった。

ある時、文帝の后で(きさき)あった竇(とう)太后は息子である景帝に対して「皇后(王夫人)の兄である王信を侯(王に次ぐ領土の支配者)にすべきや」と景帝に働きかけた。これは単なる個人的な要求に過ぎないが、それに対して、景帝は「丞相(周亜夫)と共に協議させてください」と返した。当然、周亜夫は反対した。曰く「高皇帝(劉邦)は御諚(ごじょう)なされました。『劉氏に非ずんば王を得るべからず。功非ずんば侯を得るべからず。この約定の如くせぬならば、天下共に之(これ)を撃て』と。信は皇后の兄といえども功無し。これを侯にするのは御諚に反しております」。これは全く以って正論の極みだが、景帝は黙して話を止めた。自分に都合の良い意見を述べてもらえなかったので黙殺したと言うべきだろう。

その後、匈奴の王ら五人が降伏してきた。景帝は彼らを侯に封じる事でさらに降伏者がやってくる事を期待したが、周亜夫はこれにも反対した。曰く「彼らは己の主に背いて陛下に降ったのですぞ。陛下はこれを侯になさろうとしておいでですが、そうすれば、何を以って臣下が忠節を守らない事を責めると言うのですか」。つまり、裏切り者をかえって王侯貴族にするならば、仮に自分の臣下が裏切り行為をしたとしたらどうするのですか。まさか褒賞を与える訳には参りますまい。それほどまでにあべこべな事です。周亜夫はかような事を述べた訳だ。これもまた全くの正論であり、真っ当な方法で覆す事は難しい。結局、景帝は「丞相の提議は用いるべからず」と述べ、匈奴からの投降者を列侯に封じてしまった。かように、景帝には理義が無く、到底、周亜夫を生かせる器では無かった。景帝中三年の中頃、周亜夫は病を理由に丞相を解任された。

景帝は皇太子の時代にサイコロ博打をしていた一族の者に盤を投げ付けて殺した人物だ。その横暴な性格は皇帝になっても改められていなかったようだ。景帝は禁中(宮殿内)に居る時、周亜夫を召し出して食事を与えたが、その内容は切り分けられていない肉を大皿へ置いただけであり、箸すら付いていない。周亜夫は不平を抱き、係の者を顧みて箸を持ってくるよう述べたが、景帝はそれを視て笑い「これ君に足らざる所か?(此不足君所乎?)」と言い放った。今やお前の価値なぞ肉をまともに食わせる程でも無い、と言う訳だろう。景帝の毒々しい態度に触れた周亜夫は冠を脱いで謝した。景帝は起ち上がり、周亜夫は作法を守って小走りで退出したが、景帝はそれを目で見送って曰く、「あの者は怏怏(おうおう)(不平や不満足)としておる。我が子の臣下にはなれんな!」。つまり、景帝は己に仕える者を能力や正しさでは無く、只、怏怏としている、と言う感情的な理由で貶(けな)した訳だ。その振る舞いは児戯と呼ぶに相応しい。

ここで周亜夫の息子が致命的な失態を犯した。彼は父が亡くなった時に備えて副葬品のための鎧と盾を役人からこっそり五百個買い求めた。また、息子は父の墓を作らせる際に人夫を酷使した上に賃金を支払わなかった。人夫は息子による副葬品の盗買を知っていたので、怒りと共に息子の所業をお上に訴えた。息子の起こした事件は父にも連座し、官吏は周亜夫を責めたが、亜夫はまともに取り合わない。景帝は「吾は用いず!」と周亜夫を罵り、廷尉(司法長官)を召して詣でさせた。廷尉は周亜夫を責めて曰く「貴方は反乱する事を望んでいる」。亜夫が「私が買ったのは葬式の道具だ。何ぞ反乱を口にするのか」と反論すると、廷尉曰く「貴方はたとい地上では反乱せずとも、地下(死後の世界)にて反乱を欲している」。もはや正論は無意味だった。官吏の責めはますます激しくなり、ついに、周亜夫を捕らえてしまった。亜夫は自殺を望んだが、夫人がこれを止めたので、死ぬ事を止めた。しかし、ついに廷尉がやってきたので、周亜夫は五日も絶食し、血を吐いて死んでしまった。もとより死ぬつもりだった周亜夫は、囚人として責められつつ食事を与えられる屈辱を受けてまで生き延びようとは思わなかったのだろう。

景帝は周亜夫の死後に竇太后の欲望を満たすためだけに王信を侯に封じた。漢王朝はこれより極盛期に入るが、それは、文帝による賢明な治世と、周亜夫による反乱鎮圧によって生み出された国内の安定によるものと思われる。

 

 

逸話、伝説、評価

①占い師に運命を予言される
周亜夫はかつて河內の太守だった頃に占い師から「君はあと三年で侯になり、その八年後に将軍と宰相になり、国事を握って重ねて貴き者となり、人臣に並び立つ者が居なくなりますが、その九年後に餓死なさいます」と予言された。人相を見るに、その口に餓死の相が有ったそうだ。

②侠客である劇孟を見つけて喜ぶ
漢の時代には侠客がもてはやされたようで、劇孟もばくち打ちであり、若者らの遊びを好んでいたが、義侠の振る舞いが素晴らしいとして大いに人望を集めていたようだ。周亜夫は呉楚の大乱の際に江南郡の境界にて劇孟と出会ったので、これを非常に喜んだ。曰く「呉や楚は大事を計ったにも関わらず劇孟を求めていない。吾はその失敗をすでに知ったぞ」天下騒乱の際に劇孟を得る事は敵一国を得るようなものだと言う訳だ。

③司馬遷による評価
『史記』の作者である司馬遷は周亜夫について以下のように述べている。

「亞夫之用兵,持威重,執堅刃,穰苴曷有加焉」
(亜夫の用兵は威重を持し、堅刃を執り、司馬穰苴い(じょうしょ)ずくんぞ加える有りや)

司馬穰苴は軍令を非常に厳しく重んじた事で知られる。周亜夫もかくの如きであった。

 

まとめ

周亜夫は漢帝国の危機を堅固不抜の意志と質実剛健たる用兵によって救った。それによって帝国の基盤を完全に安定させ、その命数を大いに伸ばしたと言える。しかし、新たな主君である景帝の剣呑な心性を冷徹に見抜き、それに応じて一族の計を立てる事は叶わなかった。

周亜夫の性情や適性は仕える主君や対処する問題によって結果が大いに変わり、どこまでも一徹に押し通していける性質では無かっただろう。それが周亜夫に破滅をもたらしてしまった事は、本人にとっても国家にとっても大いなる不幸だったと言える。もし後漢を創業する光武帝に仕えていたら雲台二十八将の筆頭になっていたかもしれない。

 

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