歴史

漢建国の三英傑『韓信』は国士無双の百戦百勝将軍。

常勝で有名な将軍と言えば楽毅や白起を真っ先に思い浮かべる方が多いと思う。その他にも中国史には田単、呉起、廉頗、李牧、王翦、衛青、霍去病、李広、杜預、陳慶之、李靖、李勣などの名将が数多存在する。

その中でも韓信が戦略戦術に長けた最強の将軍であると考えている。そして歴史上の偉人で最も好きなのも韓信である。

中国史上最強の将軍と言っても過言ではない『韓信』をご紹介したい。

 

概要

韓信(?-紀元前196年)は中国秦末から前漢初期にかけての武将。劉邦の元で数々の戦いに勝利し劉邦の覇権を決定付けた。張良、蕭何と共に漢の三傑の一人。淮陰(江蘇省)の人。

秦末期の大乱に際し、初め項梁に仕え、その後は項羽に使えるも重用されず、劉邦に仕えて大将軍となった。項羽との戦いではその天才的な軍略で兵を率いて趙、魏、燕、斉を攻略、劉邦の天下統一に貢献した。

有名な故事に「背水の陣」がある。漢の成立後、楚王に報じられたが紀元前201年に謀反の疑いで淮陰候に降格され、その5年後に反乱共謀の疑いで謀殺された。後世の中国においても名将の代名詞ともなった。

 

若かりし頃の出来事

■韓信、亭長の家を出る
韓信は江蘇淮陰に出生して、年少時に両親を亡くし、家の生活は貧しかったため、一日三度の食事もままならなかった。
あるとき、彼は亭長(農村等の治安担当役人)を頼って食客となっていたが食事の量がかさむからと亭長の妻は彼を冷たくあしらい、わざと三度の飯を供しなかった。

亭長の妻は連日早起きして飯を作ると、直接亭長とベッドの上で食べてしまったので、韓信が起きてきても、鍋の中には何もなかった。韓信はやむを得ず空きっ腹を抱えて亭長の家を出た。

■韓信、一飯の恩義
韓信は飢えを忍んで河辺で釣りをし、魚が釣れるといくばくかの銭に換え釣れない時には河辺で洗濯している婦人たちに飯を恵んでもらった。
その内のある老婆が彼を哀れんで、しばしば自分の食事を彼に分け与えた。

これは数十日間も続いた。韓信が感謝して「いつか必ず恩に報いますぞ」と言うと、老婆は叱りつけた「大の大人が定職にもつかずふらふらして、憐れんで飯を恵んだだけでお礼がほしくてやったわけじゃないよ」言った。韓信はこれを受け更に努力して自己の前途を切り開こうと決心した。

後に韓信は出世し故郷に錦を飾った際、当時老婆が飯を恵んでくれたことを決して忘れず特別に千金を送り感謝の意を表した。

■韓信、股をくぐる
若いころ、韓信の評判は良くなかった。貧乏で人に食事を恵んでもらっていたにも関わらず自尊心は人一倍強かったのである。司馬遷は史記を書くにあたり全国を旅しているが淮陰に立ち寄った際のことをこう記している。

「私は淮陰に行ったことがある。その際に土地の人々は韓信についてこう語っていた。あの方はまだ無名の頃から並の人とは志が違っていた。母が死んだときに貧乏で葬式も出せなかったがわざわざ広い墓地を営み一万戸の墓守を置くことが出来るようにしておいた。実際に確かめてみるとまったく話の通りだった」この話は成功後こそ美談となっているがその当時では嫌われる要因になっていたのであろう。

ある日、日ごろから韓信をバカにしている荒くれ者が絡んできた。そして「立派な剣をぶら下げているが殺す度胸があるならやってみろ。それが嫌なら股をくぐれ」
韓信はジッと荒くれ者を見つめたがやがて地べたに這いつくばって股をくぐった。

その場に居合わせた見物人は口々に臆病者とはやしたてたという。
これは堪忍の好例としてよく引用される話である。

■韓信の恩返し
これも有名な話だが先の3つの出来事には続きがある。項羽を滅ぼしたのち、韓信は劉邦から楚王に封じられ下邳に都を置いた。この下邳は故郷の淮陰からほど近い町である。そこで韓信は下邳に着任してすぐに分かり頃の恩義を返すべく河辺で洗濯をしていた老婆を招いて千金を与えて恩義に報いた。

次に居候した亭長には百銭を与えてこう言った。「あなたは侠気のない人だ。面倒を見るなら最後までみるべきだ」

最後にかつて股くぐりをさせられた荒くれ者を召し出した。召し出された荒くれ者は震えている。ところが韓信は将校にとりたてた上で配下の将軍や大臣たちに紹介した。「この者は私を辱めた者だ。私は殺すことは容易に出来たが、我慢して名を残すことを選んだ。故に忍んで大業を成せたのだ」紹介された荒くれ者もたまったものではないが韓信はとにかく将校にとりたてた。

 

国士無双

紀元前209年、陳勝、呉広が挙兵して立ち上がった。 韓信は剣を携えて項梁の西楚軍に参加した。韓信は初め項梁に仕え、その後は項羽に使えるも献策は取り入れられず手柄も立てられないまま3年が過ぎた。

項羽に見切りをつけた韓信は劉邦に仕えることにした。ところがここでも活躍の場を与えられない。それどころかある事件の連座で処刑される羽目になった。

韓信は処刑される際に大声で叫んだ。「上、天下ニ就サント欲セザルカ。何スレゾ壮士ヲ斬ル」これがたまた腹心の夏侯嬰の耳に入った。夏侯嬰は韓信が気になり話をすることにした。やはり見込んだ通りであった。韓信は夏侯嬰の推薦でことなきを得て以前よりも上位の官職についた。

しかし韓信はいまだ不満である。丞相の蕭何はしばしば韓信と語り合い能力を高く評価していた。そして度々韓信の起用を進言したが受け入れられなかった。

韓信は遂に嫌気がさしてしまった。辺境の漢中へいくことを嫌がって逃亡者が出ていたが韓信もその中に混じって逃亡したのである。それを知って慌てたのが蕭何である。蕭何は劉邦の許可を得ず韓信を追った。

それを見た別のものが劉邦に「蕭何が逃亡しました」と告げた。劉邦が信頼し頼りにしていた蕭何に逃げられ劉邦は憔悴したが二日ほど経って戻ってきた。
劉邦は嬉しさを噛み殺し周囲の目があるので蕭何を叱責した「なぜおまえまで逃げたのだ!」
蕭何は「逃げたのではありません。逃げたものを追いかけたです」と答えた。
劉邦は「一体だれを追いかけたというのだ」と言った。
蕭何は「韓信です」と答えた。
劉邦は「逃亡した将軍は何人も居るのにこれまで追いかけたりはしなかったではないか?」と言った。
蕭何は「あんな者達の代わりはいくらでもおります。韓信は国士無双です。わが君が漢中の王でご満足ならば用いになくて良いでしょう。しかし天下を争う気があるならば韓信を用いるほかありません」と答えた。

このエピソードから「蕭何、月下に韓信を追う」の故事が生まれ、韓信の代名詞である国士無双という言葉が轟いたのである。

こうして納得した劉邦は韓信を大将軍に任命するのである。劉邦は蕭何の進言を受け入れ、これより文は蕭何に武は韓信に頼み挙兵して東に向かい天下を争奪した。

漢の高祖元年(紀元前206年)5月、韓信は「昼は桟道を修理して、夜は陳倉を渉る」作戦で西楚の章邯軍を大きく打ち破り一挙に関中地区を制圧して劉邦に三秦を掌握させた。

漢の高祖2年(紀元前205年)8月、劉邦は韓信を左丞相に封じ、兵を挙げて魏を攻めた。韓信は一方で黄河西岸の臨晋に大量の船を集結させて、魏王豹軍の主力を引き付けておき、もう一方で上流の夏陽から河を渡って安邑を奇襲し突然魏軍の背後に出現して魏軍を大破し魏王豹を捕虜とした。

 

背水の陣

漢の高祖三年(紀元前204年)10月、韓信は新たに徴募した新兵一万人による漢軍を率いて太行山を越えた。東に向って項羽の属国趙を攻撃するためである。

趙王と大将の陳余は20万の兵力を配置集中して太行山の東の要害井陘口を占拠して迎撃の準備をした。井陘口の西は百里も続く狭い一本道で両側に山が迫っているが韓信が必ず通らねばならない道であった。

趙軍の参謀の李左車は正面は死守するものの交戦はせず、隊を後方に派遣して韓信の糧道を断ち韓信を井陘の狭い道に封じ込めようという策を献じた。

ところが陳余はこれを聞き入れず「韓信はわずかに数千人だ。遠路はるばる来たのに、もしわれわれがこれを避けて交戦しなければ、諸侯たちの物笑いにになるではないか?」と述べた。

韓信はこの知らせを探知すると、迅速に漢軍を井陘の狭道に進入させ、井陘口から三十里のところまで進んで宿営をした。真夜中、韓信は2千騎を派遣して、それぞれに漢軍の旗を持たせ、小道から迂回して、趙軍の大宿営地の後方に伏せさせた。

韓信はこの一隊に「交戦時、趙軍はわが軍が敗走するのを見ると、必ずや全軍を出して追撃してくるに違いない。そこで、おまえたちは素早く趙軍の宿営地に侵入して趙軍の旗指物を抜き取り漢軍の紅旗を立てるのだ」と指示した。

残りの漢軍は簡単に食事を済ませると、すぐさま井陘口に向って出発した。井陘口に到着すると大隊は綿蔓水を渡り大河を背にして陣容を張った。高所の趙軍は遠くからこれを見て、皆韓信を嘲笑った。

夜が明けると韓信は大将の旗印と儀仗を用意し、隊を率いて井陘口を出発した。そして陳余が精鋭を率いて韓信を生け捕りにしようと出撃してくると、韓信はわざと旗を投げ捨て鼓を捨てるふりをして川岸の陣地に逃げ戻った。陳余は趙軍に全軍出撃するよう命令し漢軍の陣地に迫った。

大河を背に陣取った漢軍はもとより退路はなく各兵士は勇敢に戦った。双方の斬合いは半日続いたが趙軍は勝てなかった。

このとき趙軍は態勢を立て直すため宿営地に戻ろうとしたが、時すでに遅し。自軍の宿営地全てに漢軍の旗指物がはためていることを知り、軍は大いに乱れてしまった。韓信はこの機に反撃を行い、その結果、趙軍は大敗、陳余は戦死し趙王を捕虜として捕らえた。

戦いの後、配下の部将は韓信に問うた「兵法では、後ろに山を控え、水に面して陣を張る、とあるのに、今回は全くの逆でした。それなのに勝利したのは何故ですか?」

これに対して韓信は「兵法にも【これを死地に陥れてしかる後に生き、これを亡地に置きてしかる後に存す】とあるではないか。それを応用したのはこの度の背水の陣じゃ。なにしろわが軍は寄せ集めゆえ、生地に置いたのではバラバラになってしまう恐れがある。だからわざと死地に置いてみたのだ」と答えた。

部将達は「恐れ入りました。我々の遠く及ぶところではありません」といって頭を下げたという。

なおここで韓信が上げている兵法書とは孫子の兵法である。孫子の九地篇に「コレヲ亡地ニ投ジテ然ル後ニ存シ、コレヲ死地ニ陥レテ然ル後ニ生ク。ソレ衆ハ害ニ陥レテ、然ル後ニヨク勝敗ヲナス」とある。

韓信は兵法書の原理原則を熟知し状況に合わせて臨機応変の運用をしていたのである。

明代の茅坤(ぼうこん)は韓信を古今第一の兵法家であると言い、「兵仙」という言葉を贈っている。「司馬遷を文仙、韓信は兵仙」と称している。

 

半渡の計、嚢沙の計

漢の高祖4年(紀元前203年)11月、韓信は斉の首府であった臨淄城をなんなく攻め落とし、斉王を追って高密城へ迫りあっという間に包囲した。

そんな中、楚の猛将「龍且」が20万の大軍を率いて救援にやってきた。項羽率いる楚としても漢軍に斉をとられると両面から挟撃され形勢が不利となるのだ。韓信の大軍は淮水の下流で楚の龍且の20万の大軍を迎え撃った。

韓信はまず分遣隊を夜半に上流に向かわせ数万の食糧袋で土嚢を作り、その流れを堰き止めた上で夜明けに軍を派遣して楚軍を正面で迎え撃った。流石に項羽の下で長年活躍している猛将である。龍且は次々に漢軍を討った。

一方漢軍もよく訓練されており集の力で何とか抵抗した。そしてわざと負けたふりをして潰走し河を渡った。河は堰き止められていたため容易に渡ることができた。

そこで竜且将軍は自ら軍を率いて准水を渡り追いかけてきた。このとき漢軍は土嚢を突き崩した。楚軍は巨岩を転がしながら押し寄せる大水に飲まれ、余りの水の勢いに楚の精鋭軍も成す術がなかった。

龍且は懸命に逃げ、また馬も名馬であった為、なんとか岸に辿り着いて一命をとりとめた。しかし岸から見た自軍は見るも無残であった。そして韓信はこの大水の難を命からがら生き延びた楚軍に伏兵をあてた。猛将龍且はさすがによく戦ったがやがて疲労で動けなくなってしまう。

雑兵に討たれることを憐れんだ漢の曹参が一騎打ちを申し込みこれを討ったのである。まだ河を渡っていなかった斉楚連合軍は戦わずして自滅した。

韓信は勢いに乗って軍を指揮して攻撃し斉王の田広を捕虜にし斉の地を全て平定した。これが孫子兵法にある「半渡の計」である。

素晴らしい戦略戦術だがここでは一つ悲しい出来事が起きている。韓信がまだ斉攻略の序盤だった頃、漢の酈食其(れきいき)が斉との和平交渉に臨み言葉巧みに斉王を説き伏せ、70余城を帰順させたのである。

この際、韓信の腹心の蒯通は「言葉巧みに無傷で70余城を獲得した酈食其」と「軍を用いて犠牲を払いながら未だ数個の城のあなた」ではどちらの功が勝りますか?と言い韓信が兵を引き上げようとするのを止めた。そして酈食其が斉王の傍にいるにも関わらず攻め続けたのである。酈食其は斉王の逆鱗に触れて煮殺されてしまった。

酈食其も功を焦り斉王と会う前に韓信へ交渉することを伝達していなかったのは落ち度であり、もし和睦が斉の策略であれば取り返しのつかないことになるのも事実であった。

しかしながら韓信が功を焦ったのか蒯通がそそのかしたのか、或いは両名かは分からないが酈食其から斉王帰順の伝達が来た後も攻め続け酈食其が殺されてしまったことは確かである。

 

将器

あるとき漢の高祖劉邦は韓信に問うた。「もし私が、兵を率いるとすれば、どれぐらいの兵士を率いることができるか?」

これに対して韓信は「陛下は、兵士10万人を率いることができます」と答えた。
劉邦はまた「では、そなたはどれぐらいの兵を率いることができるのか?」と問うた。
すると韓信は笑って答えた。「多ければ、多いほどいいのです」と答えた。

嫉妬深い劉邦は兵を指揮する能力が韓信に及ばないかのように言われ面白くなかった。

韓信は「陛下は兵を指揮するのは得意ではありませんが、将軍を指揮するのは上手です。私は兵の将、陛下は将の将なのです」と諭した。

劉邦はなるほどと納得したかに見えたが、内心では韓信の能力が自分より上かもしれないと感じて嫉妬と不信任の思いが日々増大していった。

 

四面楚歌

漢の高祖5年(紀元前202年)12月、楚と漢の両軍は、垓下(現在の安徽省・霊璧南)で決戦を展開した。劉邦は韓信を主将として大軍の各部隊を統一して指揮させた。項羽は楚軍10万を指揮して正面から漢軍の陣地に向って猛攻撃を仕掛けた。

正面激突では天下無敵の項羽と楚軍を前に苦戦を強いられた漢軍であったが、わざと退いて誘い込み項羽を包囲することに成功した。後からあとから韓信の指揮のもと押し寄せる漢軍に流石の項羽も旗色が悪くなった頃、楚の勇将である希布と鍾離眜が駆け付けた。

それまで大将でありながら四方八方の兵を相手にしていた項羽は両将軍の救援で正面だけに集中でき、その項羽を止めることができる人間は存在しなかった。しかし執拗な漢軍の追撃を受け続けた楚軍は全軍の過半数以上を失い城へ戻った。

彭城に戻ることを決めた項羽は夜を徹して行軍した。道中は韓信の疑兵の計により心休まる時はなかった。やっとの思いで彭城に着くもすでに漢軍の旗が風になびいていた。流石に城を攻めるには兵が足りず、また韓信がうしろに迫っていたいた彭城を諦めて江東へ向かった。道中も疑兵の計や伏兵に悩まされたが、項羽の強さは次元が違った。

同時に8人もの漢の将軍を相手にしながら次に次に討ち、50人以上の将軍を追い払ったのである。その項羽の強さに刺激され士気が上がる楚軍。勝ち戦のはずだった漢軍は日増しにその被害を増やしていった。

ここで韓信は心理作戦に出ることにした。時は9月、挙兵から10年あまり故郷に帰っていない兵たちに故郷の歌を聴かせ望郷の念の駆り立てた。途端に父や母、または子のことが気になり士気が下がる楚軍。歌っているのは漢軍だが楚の故郷の歌を修練したため、楚の兵士は既に楚が漢の手に落ち、楚人が歌っているのだと思いこんだ。これであっという間に兵の大半が逃げ出したのである。

その時項羽は連日連夜の戦いで疲れ果て癒しを求めて虞美人こと虞姫と遅くまで飲んでいたため起こしても起きないほどだった。追い詰められた将たちも項羽に準ずるか否か議論となった。ここで歴戦の勇者である希布と鍾離眜は雑兵に姿を変えて逃げた。一族の項伯は張良と親交があったため漢軍に降ることにした。

項羽と最後まで運命を共にすべく残ったのは虞姫の弟の虞子期と周蘭、桓楚の3将軍と兵800名ほどだった。これが有名な「四面楚歌」で現代においても八方塞がりの状態において使われる。

覚悟を決めた項羽は大事な虞姫に自分と同じ運命を辿らせまいと逃げるように願うが劉邦の虜になるくらいならと自害してしまう。虞子期はその墓前で自害した。逃避行を続ける楚軍だったが漢軍は数十万である。

次々に兵は倒れ遂に項羽に共する兵は28騎となった。幾度も突撃を繰り返し数百名を討ち取ったが遂に力尽き、烏江の辺で項羽は自害した。項羽は31歳でった。

こうして5年に及んだ楚と漢の戦いは漢の劉邦が天下をとって終結したのである。

 

伝説逸話

「史記」を記した司馬遷は、韓信の淮陰侯列伝では韓信を全体として褒め称えているが評論においては「韓信が道理を学び、自分の能力と手柄を自慢しなかったなら、理想に近いことを実現したであろうに、そういった努力をせず謀反を図ったのだから、一族滅亡となったのは当然である」と厳しく評している。

また『資治通鑑』を記した司馬光は司馬遷の意見に賛同しながらも「漢が天下をとった原因のほとんどが韓信の功績である。韓信が斉王の時、楚王の時、反逆の心などはなかった。しかし、淮陰侯に落とされてからは反逆を図ったのだ。韓信は劉邦には自分に対する利益を与えることを求め、かつ広い心で自分に対するように求めたのだ。これでは生き残るのは難しいだろう」と評している。

しかし、韓信は謀反人とされ一族が滅亡させられたにも関わらず、後世では蕭何、張良と共に漢の創業に最も功績のある漢の三傑の一人として呼ばれるようになる。

唐代には武成王廟(太公望)の名将十哲の一人に選ばれている。十哲は左側に白起、韓信、諸葛亮、李靖、李勣、右側に張良、田穣苴、孫武、呉起、楽毅であり、兵法家としての性格の強い人物を除けば、白起、李靖、李勣、楽毅という名だたる名将たちと同等であると評されている。

その後においても元代の戯曲や小説では韓信は無実の罪で殺されたことになっており、三国志平話では韓信は無実の罪により殺されたことに対する訴えが認められ、曹操に転生し漢王朝に復讐を果たすことになっている。 元代の知識人においても韓信の無実を主張する人物もおりその知識人によると朱子もそのように主張していたという。

元の時代の三国志平話は三国志演義の原型となった話ですが物語の冒頭で韓信が登場する。冥界において韓信は無実の罪で劉邦に殺害されたことを天帝が定めた裁判官(司馬仲相)に彭越、英布と共に訴える。劉邦は白をきるが呂雉、蒯通の証言で劉邦が韓信らを警戒し無実の罪で呂雉に命じて誅殺させたことが語られる。

司馬仲相は天帝の名で判決をくだし韓信を曹操に、彭越を劉備に、英布を孫権に生まれ変わらせる。曹操に生まれ変わった韓信は献帝に生まれ変わった劉邦を幽閉し伏皇后に生まれ変わった呂雉を殺害して仇を討つという物語になっている。

このことからもすでに中国の元代では韓信が大功をあげたにも関わらず、無実の罪で劉邦の指示により誅殺されたという説話が存在したことが分かるのである。

 

韓信のさいご

劉邦は功労のあった人に賞を授けることにした。例えば張耳を趙王にし、英布を淮南王にし、臧荼を燕王にし、信を韓王にするなどした。韓信も斉国を攻め落としてから斉王を授かった。

しかし項羽を討ってからが攻め落とされてから、心の狭い劉邦は口実を作って韓信の軍事権を奪おうとし、韓信を斉王から楚王に変えた。さらに西漢が創建されてから韓信が反乱を企んだと無実の罪を着せた。

劉邦は南方の游雲夢を抑えつける口実で陳平と結託し諸侯との面会を求め韓信を拘束しようと企んだ。韓信は知らずに劉邦に謁見した。韓信はその場で拘束され後に淮陰俣に降格させられた。

鋸鹿守の陳豨が反乱した時期に韓信のもとにいる居俣は韓信の気に触ったことから拘束された。そこでその弟は復讐しようとして韓信が反乱し呂后を襲撃すると密告した。それを聞いた呂后は蕭何と共謀し策略を操り、反乱した陳豨が鎮められたと偽情報を流し諸侯と群臣に祝賀の儀式に参加するよう通達した。

韓信は無防備に祝賀の儀式に着いたときに呂后に派遣された兵に拘束された。前196年1月、韓信は長楽宮で殺害された上、三族までも皆処刑された。

司馬遷も「史記」の中で韓信のもとにいた居俣の弟の韓信に対する密告は全くの事実無根として冤罪であると示した。秦檜が「でっち上げ」の罪名で岳飛を陥れたのも歴史上の大きな冤罪事件だというのは周知の通りで劉邦、呂后などが韓信を殺害したことも同様に永遠の悲劇で冤罪事件として残った。

韓信がもし反乱しようというのであれば、「楚漢の戦い」がもっとも良い機会だった。当時、韓信は軍事力を握り、兵力が強大であり、混乱した時勢だったため、一方の雄を唱えることができた。これに対して劉邦が紛争を鎮め、天下を統一したのち、軍事権力及び軍隊を奪われた韓信が反乱を企むのは、まさに自ら進んで網にかかる自殺行為ではないか?韓信の智恵や頭脳からしてこの状況を考えつかないのはありえないことだ。反対に、韓信は2度も三分天下の勧め、および劉邦に背くことを断った。

劉邦、項羽が天下を争う重要なときに、項羽は武渉を韓信のところに派遣し「劉邦のことはすべてあなたが握っている。あなたが右に寄れば、漢王が勝利し、左に寄れば項王が勝利する」ことから「楚漢の戦い」において、韓信は全局面を左右する重要な人物だと説明がつく。

武渉は韓信に対して、項羽と連携し劉邦と三分天下を勧めた。しかし韓信は、「私は当年項王に追随したとき、矛を持ち宮殿の入り口を守衛するものだった。私の提案は採用されず、そのために楚を背き漢に帰属した。

漢王は私に将軍を授けてくださり数万の大軍を与え、良い衣服や美食も分け与えてくださり意見を聞き入れてくださったから、今日の私がいるのだ。私のことを非常に信用してくださっている漢王を決して裏切ることはできず、私が死んでも心は変わらない。項王のご契状に感謝すると伝えてください」と答えた。

武渉が去った後に、齊人の蒯通は天下が韓信に握られていると知り奇策で韓信を感動させようとし、面相の説にて韓信を動かそうとした。蒯通は「真正面から見たあなたの面相は、危険かつ不安定な立場に立たされている。しかし裏の面相では貴重で尊いお方だ。」韓信はそのわけを聞いた。蒯通は劉邦の運命は韓信が握っているとし、韓信が漢に身を寄せれば漢が勝利を獲得し、楚に身を寄せれば楚が勝利を獲得する、と天下の情勢を分析し、韓信に対して三分天下を勧めた。

韓信は「漢王は私を優遇し、私を車で送り、衣服や美食を与えてくれているから、憂患を分かち合い、忠誠を尽くすべきだ。利益のために裏切ることはできない」と答えた。蒯通はさらに人の心は難しいとし、韓信は漢王に対して忠誠を誓っても、智勇兼備、功労が天下を覆うほど大きい人臣としては、とても危険だと指摘した。数日後、蒯通は再び韓信に対して、時機を逃さずに決断をするようにと促した。漢を背信できない韓信は漢に対して功労を残したことから、漢は義理も人情もないことはしないと考えた。韓信の言行から、彼が反乱を企むとは実に信じがたいことだ。

 

劉邦が韓信を疎んじた出来事

劉邦は韓信を元々信用していなかったが決定的な出来事が2つある。

①斉を制圧してからのこと韓信は側近のすすめもあり自らを斉王にしてほしいという使者を劉邦の元へ送った。この際、劉邦は滎陽で項羽軍に包囲され猛攻を受けていた。そこへ韓信が王にしてほしいと言ってきたのである。劉邦がカッとなったが傍に控えていた張良と陳平が劉邦に認めるように耳打ちし斉王となった。

②項羽にとどめを刺すべく追撃をしようとした際に韓信と彭越が出てこなかった。そのために大敗を喫してしまったのである。そこで張良が次のような進言をした。「項羽の敗北は決定的な状況であるのに勝ったあとの分け前について何も約束していません。これではやって来ないのも当然です。天下を分けてやると言えば喜んで来ることでしょう」その進言の従い使者を通じて伝えたところ、二人とも喜び勇んで参陣したのである。

韓信としては項羽の誘いや蒯通の進言を受けなかった時点で劉邦に巧く使えるべきであった。

しかし戦では無敵の国士無双がこういう弱い部分を持っているというところに更なる魅力を感じてしまう。

司馬遷は韓信がもっと謙虚であれば違う結果になっていただろうと言っている。

 

まとめ

私が韓信を歴史上の人物の中で最も好きな理由は司馬遼太郎の「項羽と劉邦」が影響している。司馬遼太郎さん作品の「誇り高いが純粋でお人よし。誤解を受けやすい性格」というイメージが好きなのである。

戦場で軍を操ることに関して凄まじい才能と情熱を持ち軍を指揮する立場になることに執着する。子供のような純粋な心を持ち一部の人物から熱狂的な支持と支援を受ける一方で劉邦からの誤解を受け怒りを買うような行動もしばしば行うという政治性と社会性が欠如した人物でもある。

自分の才能を認めてくれる人の下で働きたいという強い思いに共感して以来、私の中のNo1偉人は韓信である。

三国志の蜀に韓信が居たら政治を諸葛亮が成都で丞相として行い、北伐は大将軍である韓信が行えば達成できたのではないだろうか?韓信が蒯通の進言をとり斉王として独立していたら?などと考えてしまう。

スーパーファミコンの項劉記というゲームをプレイした際に劉邦でプレイを始めるとその勢力の差に絶望したのを覚えている。それは日本に置き換えると沖縄が自分の領地であとは全て敵という有様に見えた。圧倒的な戦力差に加えて自然が豊か過ぎて軍が通るには向いていないにも程がある蜀から中央への行程という古代中国の現実であればそれは尚更厳しかったと思う。

そんな中で打倒項羽ができると自分を信じ、かつ実現した韓信の能力は素晴らしいと改めて思った。

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