歴史

賤ケ岳の七本槍という武闘派『加藤清正』は、築城の才も有する名将。

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名で賤ヶ岳の七本槍の一人。武勇で出世したにも関わらず、治水や農業政策、商業政策などで優れた手腕を発揮し、築城でも名手として知られる。

築城した熊本城は、今も残る日本の名城である。私の生まれ故郷である熊本の英雄『加藤清正』をご紹介したい。

 

略伝

加藤清正(かとうきよまさ、1562年7月25日~1611年8月2日、享年50歳)は、別名を虎之助・虎之介、主計頭(通称)、地震加藤、鬼将軍、肥後の虎(渾名)という。安土桃山時代~江戸時代初期にかけて活躍した武将、大名である。名古屋市中村区で生まれ、熊本にて没した。官位は従五位下・主計頭、従五位上・侍従兼肥後守、従四位下、贈従三位。主君は豊臣秀吉、秀頼である。

1562年7月25日:生誕
1573年:豊臣秀吉に小姓として仕える
1580年10月27日:播磨国神東郡内に120石を与えられる
1582年4月14日:冠山城を攻めで城に一番乗りを果たす
1582年:本能寺の変、山崎の戦い
1583年:賤ヶ岳の戦い
1585年7月:従五位下・主計頭に叙任
1586年:肥後北半国19万5,000石を与えられ、隈本城に入る
1591年頃~:熊本城(隈本城)改修
1589年:天草で一揆
1592年~:文禄・慶長の役
1600年9月:関ヶ原の戦い(謹慎中)
1605年:従五位上・侍従兼肥後守に叙任
1610年:徳川氏による尾張名古屋城の普請に協力
1611年8月2日:没

(出典 Wikipedia)

 

功績とエピソード

①一番槍
元服し、加藤虎之助清正と名を改め、豊臣秀吉の中国遠征に従軍した清正は、宇喜多軍と対峙する「冠山城の戦い」で、敵将である竹井将監と一騎打ちを果たし、一番槍を挙げたとされている。続く、備中高松城を水攻めの最中に「本能寺の変」の報せを受けて毛利氏と和睦し、中国大返しを行ない、「山崎の戦い」で明智方の武将・近藤半助を討ち取る武功を挙げている。

②賤ヶ岳の戦い
加藤清正が有名になったのは、事実上の織田信長の後継者を決めるための「賤ヶ岳の戦い」がきっかけである。清正は先頭を切って敵陣を突破し、豊臣方から柴田方へ寝返った山路正国を討ち取り、特に功績の大きかった7人の内のひとりとして「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれるようになった。

ただし、後世においてはこの論功行賞は秀吉が覚えめでたく将来有望な若手家臣の功績を際立たせるためのプロモーション戦略であったという説もあり、加藤清正、福島正則、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、片桐且元、槽谷武則の7人以外にも同等の知行を与えられた武将もいたようである。

③熊本城築城と肥後統治
加藤清正は7年の歳月をかけて、熊本城を築き上げている。熊本城は、当時「日本一の名城」とも称され、震災の被害を受けたものの「日本三名城」のひとつに数えられる。城には「清正流石垣」と呼ばれる石垣があり、上にいくほど急になり反りが付いているため登り始めた敵兵がは急勾配となる上部でふり落とされるという仕組みになっている。さらに城内に敷かれている畳にはサトイモの茎を用いる等、籠城戦の際には食料となる材料も取り込まれていた。このように守りやすく攻めにくい工夫が随所にされている。

築城以外にも肥後統治でも優れた手腕を発揮している。城下町の整備や治水事業、農業・商業政策を推進することで肥後を豊かな国にする基盤づくりにも注力した。特に頻繁に氾濫していた白川を熊本城の外堀として用いることで制御した治水・灌漑事業は、肥後の農業生産を増大させることに繋がり、領民にも大いに感謝されたと伝わっている。また、熊本城築城や土木工事の際には農閑期に行うように計画し、しっかりと賃金を支払うという、地元の民に寄り添う運営を行っていたようである。

特に堤防や河川の改修については現代にも受け継がれているほど精度の高いものであった。清正が熊本統治に携わったのは10年余りであったが、「清正公さん」として今でも熊本の人々に親しまれているそうである。

④文禄・慶長の役
唐入りが始まると1万の軍勢を引き連れ最前線へ向かった加藤清正は、戦以外にも築城でも貢献している。
漢城(現在のソウル)に到達すると2人の朝鮮王子(臨海君・順和君)を捕え、交渉の材料とするつもりであったが、明の援軍が加わると戦況は不利になり、石田三成と小西行長の主導で停戦交渉が進められることとなった。

当初、清正は明へ豊臣秀吉の意向を伝える役目を任されていたものの、秀吉の考える和睦条件は明にも朝鮮にも受け入れられる内容ではなかった。しかし、朝鮮・明との戦を終わらせたい行長と三成にとって、あくまでも秀吉の命に従おうとする清正は邪魔な存在であったため清正が独断専行したと秀吉に訴え謹慎させることで、和睦交渉の場から清正を除外した。

一旦は撤退を命じた秀吉ではあるが、和睦交渉が決裂すると再び朝鮮に出兵を命じ先方を任されたのが清正と行長であった。二度目の出兵でも軍功を上げた清正であったが、現地での戦いは熾烈なものであったという。

⑤晩年と最期
加藤清正は、二条城で徳川家康と豊臣秀頼の会見を見届けた後に、肥後へ帰国する船の中で発病し、ほどなくして亡くなった。死因は不明であるものの、家康と秀頼の会見直後に発病したことや様態の急変ぶりから、家康一派による毒殺などの憶測もある。

 

逸話、評価

①出自
加藤清正は刀鍛冶である加藤清忠の次男として、後の豊臣秀吉の同郷に生まれた。母である伊都は教育熱心だったため、清正を寺へ通わせて学ばせたとされている。幼少時より体格に恵まれていた清正は、武芸に優れ周りからも将来を有望視されていた。後に「加藤家三傑」と呼ばれる森本一久と飯田直景との出会いは幼少時で、負ければ家臣になるという約束で決闘をしたことがきっかけとなり、勝利した清正と2人は生涯の主従関係を築くこととなった。

秀吉の母もしくは妻と清正の母は従姉妹同士(一説には縁戚)であった縁から、農民出身で譜代の家臣がいなかった後の豊臣秀吉のもとで小姓として仕えることになった。秀吉には子がいなかったので、正室・おねは、親戚である清正や福島正則を実の子のように養育している。

②人物像
加藤清正の有名な言葉として「上一人の気持ちは、下万人に通ずる(組織は上に立つ者の心構えに大きな影響を受ける)」というものがある。組織の上に立つ者の気が抜けていると部下にまで伝わり組織全体が締まりがなくなるということで、現代の組織にも共通するものがあろう。

また、「汝らは、等しく我股肱腹心なり使うところはその器に従う(人を使うときは、その能力に応じて適材適所で使うべきである)」というものもあり、個々の能力を最大限に発揮できるように適材適所を心がけるのが上司たるものの役目であると。
清正は武闘派のイメージが強いものの、築城の際の人の扱い方や組織論等を見ても文武に優れた人物であったようである。

③石田三成との関係
加藤清正等の武断派は戦場の働きこそ武士の本分と考えていたものの、文治派の石田三成等にとっては戦い以外の交渉等を重要視していた。三成と小西行長の秀吉への讒言によって謹慎処分させられていた清正は、その他にも戦場での働きを悪く報告されていたことも加わり、文治派に対する不満は日に日に高まっていった。
また、文治派の三成は戦場に出ることなく、筑前・筑後の代官を命じられ、名島城を与えられたことに対しての不満もあったと言われている。

また、秀吉の支配が天下統一を果たしたことで、従来の戦いでの功績だけではなく調整や交渉に優れた人材が重要視される環境になりつつあった。三成は検地や人事面での発言権が強かったため、武功がなくとも出世を遂げたことで、清正ら武断派の武将も三成の権限で裁けるようになっていった。

文禄の役では日本軍が徐々に苦戦するようになる中で、清正が担当する戦線はさほど損害を受けていなかったものの、大損害を被った他の戦線から清正に対する不満がつのっていたようである。

三成は秀吉に対して清正が戦に手を抜いていると報告したことで、清正は嫌疑をかけられる身となった。命を懸けて戦っている清正としては、三成の言いがかりとも思える上申に怒りを募らせる。文禄の役に続く、慶長の役でも清正は最前線で指揮を執る一方、三成の仕事は日本国内での後方支援であった。

日本軍は苦戦する様子を直接目にしている清正はこれ以上継続は厳しいと考え秀吉に軍備縮小を提案するものの、激怒しや秀吉は清正に減俸を申し渡す。この際に伝令を務めたのが三成の縁戚である福島長尭であったこともあり、清正等は三成が自分達を陥れたとさらに怒りを募らせることに繋がったともいわれている。

④虎退治
名だたる武将の武勇伝のひとつには大きく獰猛な動物を打ち倒すというものがあるが、加藤清正の相手は虎である。

朝鮮半島出兵中、陣の近くに虎が出没して兵士や馬を襲うことに悩まされていた。そこで、虎退治に乗り出した清正は、山狩りを行ない虎を見つけると、自慢の槍を携え立ち向かい見事に退治したという。当時、虎の肝は不老長寿の妙薬とされていたため、秀吉に献上したという。実際には槍ではなく鉄砲で対峙したようであるが、虎退治自体は事実のようである。

清正の伝記である『清正記』には「加藤清正が虎の皮を豊臣秀吉に贈った」と記録されており、愛知県の徳川美術館に清正が退治したという虎の頭蓋骨が収蔵されていることから信憑性は高そうである。

⑤築城名人
加藤清正は城を攻め落とすことと堅牢な城を築くことの両方に長けた城に関するスペシャリストとの見方もある。
築城に携わった城は、名護屋城、指月伏見城、熊本城、麦島城、宇土城、江戸城、名古屋城と現代まで残っている城も多く、藤堂高虎、黒田官兵衛とともに「三大築城名人」ともされている。

清正の場合には、豊臣秀吉の家臣になりたての10代の頃から長浜城や安土城等の築城現場を目にする経験が多くかったことも一因とされている。清正自身の居城でもあった熊本城は、幕末の「西南戦争」の折には西郷隆盛率いる薩摩藩が政府軍の籠城する熊本城を攻めたものの、約2ヵ月かけても落城させることはできなかったとされている。あまりの堅牢さに隆盛は「私は政府軍に負けたのではない。この城を築いた加藤清正公に負けたのだ」と言ったという逸話も残っている。

 

まとめ

トレードマークの片鎌槍や虎退治(来は黒田長政とその家臣の逸話、知恵で退治した説あり)など武闘派としての逸話が多い加藤清正ではあるが、築城の名手としても有名である。

また、石田三成との対立の話から短慮なイメージをもたれることもあるものの、人材登用や活用の格言や肥後の領土運営の実績も鑑みると実は頭脳派であった。

何しろ現在の熊本県の礎を築いたのは加藤清正といっても過言ではない。秀吉の九州征伐後に赴任したのは佐々成政でしたが、うまく統治できなかった。代わりに統治することになったのが清正公である。(最初は小西行長と半々)清正は治水などの農業改革から築城まで行うが、農業の閑散期に工事をしながら給金まで払っている。そして築城の三大名手(他2名は藤堂高虎と黒田孝高)でもある清正公は熊本に城を築き、名前も隈本から熊本へ変えた。熊本の方が勇ましく聴こえるという理由である。

熊本城の築城後はしばらく太平の世が続いた為、戦略上の素晴らしさを発揮できずにいたが、270年後の明治になってその時がきた。「西南戦争」である。清正公が築城した熊本城立て籠もった明治政府軍を西郷隆盛が攻めきれなかったのだ。

西郷隆盛は「政府軍に負けたのではなく、清正公に負けた」とつぶやいたと言う。

豊臣家存続のために家康との橋渡しを担い、死ぬまで徳川をにらみ続けた虎は、地元民に今でも愛され「せいしょこ」(清正公)という愛称で呼ばれている稀有な名将である。

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