歴史

三英傑が称賛した『本多忠勝』は、名槍「蜻蛉切」を持つ徳川家最強の武将。

本多忠勝は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名で豊臣秀吉ら多くの諸侯からも称賛された戦国時代を代表する豪傑である。

徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑の一人でもある。KOEIの戦国無双では、「島津義弘」と共に三国無双での呂布的な立場となっており、特別な演出と強すぎる能力でプレイヤーを悩ませている。

秀吉に西国無双と言われた「立花宗茂」に対して『本多忠勝』は東国無双と称されている。

家康の天下統一を傍で見続けた豪勇無双の『本多忠勝』をご紹介したい。

 

 

略伝

本多 忠勝(ほんだ ただかつ、1548年3月17日~1610年12月3日、享年:63歳)は、別名を鍋之助(幼名)、平八郎といい、戦国時代から江戸時代前期に活躍した武将、大名である。愛知県岡崎市西蔵前町で生まれ、三重県桑名市で没した。官位は従五位下・中務大輔、主君は天下人徳川家康である。

1548年3月17日:生誕
1560年:大高城兵糧入れで初陣(桶狭間の戦いの前哨戦)
1572年:三方ヶ原の戦い
1582年:伊賀越えでの帰国を主張し、成功に導く
1584年:小牧・長久手の戦い
1590年:大多喜城主に就任
1600年:関ヶ原の戦い
1601年:桑名城主に就任
1609年:家督を嫡男の本多忠政に譲り隠居
1610年12月3日:没

 

(出典 Wikipedia)

 

 

功績とエピソード

①初陣
本多忠勝は12歳で「桶狭間の戦い」の前哨戦と言われる「大高城兵糧入れ」で初陣を果たしている。初陣では敵方の武将・山崎多十郎に討ち取られそうになったところを叔父であり育ての親でもある本田忠真に救われている。

②伊賀越え
本能寺の変で織田信長が明智光秀によって自害に追い込まれた際、徳川家康は招待された安土城からの帰りに立ち寄った堺に少数の家臣とともに滞在していた。本多忠勝は、信長の死を知って取り乱して自害を口にした家康を諫めて、堺から伊賀の山道を抜けて領地に戻る「伊賀越え」を提案し、無事に本拠地である三河まで帰還を果たしたと伝わっている。

明智光秀は、信長の同盟者である家康も討つべく、三河までの街道を見張っていたが、家康は十分に戦えるだけの兵は連れておらず、堺にいても危険、移動しても敵が待ち構えているという絶体絶命の窮地に立たされたことで、信長を追って自害しようと考えたという。

しかし、そのような状態の家康を忠勝は諫めて、体制を立て直すためにも帰国することを進言したのであった。家康は忠勝の進言を受けても落ち着かない様子であったものの、忠勝は根気強く励まし続けた。加えて、服部半蔵の助けを借り、わずか30名程の人数で家康を守りながら決死の伊賀越えを決行した。
家康一行は、伊賀(現在の三重県西部)を経て、山々を越えて無事に伊勢まで移動して、その後は船に乗り三河に帰り着いたとされている。

③小牧・長久手の戦い
織田信長の死後、徳川家康は織田信長の息子である織田信雄に味方し、信長の孫を要する豊臣秀吉と対立していた。家康と秀吉との直接対決である小牧・長久手の戦いにて本多忠勝は、わずか500騎ほどの少数精鋭の軍勢で数万ともされる秀吉軍と対峙した。

当初、忠勝は家康の留守居役としての役目を担っていたものの、秀吉側の大軍を前に家康軍が苦戦していることを知ると援軍として参戦したと伝わっている。同じく留守を預かる家臣達は引き止めたものの、忠勝は500騎を率いて応援に駆け付けたという。その様子を『寛政重修諸家譜』では、「本多忠勝は大軍を前に立ちはだかると、単騎で乗り入れ、馬の口を川ですすいで見せた」と記載されている。大軍相手に圧倒的な兵力をものともせずに追撃を阻止しようとする忠勝の姿は、敵方の秀吉でさえも忠義心と豪胆さに感じ入ったようで、忠勝を攻撃をせぬようにと自軍に命令を下したとも伝わっている。

戦としては、豊臣軍に敗れたものの、忠勝は小牧・長久手の戦いの功績によって秀吉から「天下無双の東の大将」と称賛された。この後、忠勝は主君である家康とともに秀吉の配下で従五位下中務大輔に叙位・任官されている。

④関ヶ原の戦い
豊臣秀吉の死から2年後の関ヶ原の戦いでは、東軍の最高司令官として、作戦指揮を担当う立場であったものの、本多忠勝は自ら手勢を率いて首級を挙げたという記録が残っている。

⑤城主として
関ヶ原の戦いの功績で忠勝は、上総国大多喜城から伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)10万石に移封されている。徳川家康は忠勝の旧領である大多喜も同時に与えようとしたものの、忠勝は辞退し、大多喜5万石は忠勝の次男である忠朝に与えられた。

忠勝は桑名に入封した後、藩政を確立するために揖斐川沿いに桑名城の築城を行った。桑名城には、石垣の上に兵器庫と防壁を兼ねる建物が並び、船着き場併設する大変大掛かりなものであった。そこで、徳川四天王の一人である井伊直政も家臣を動員して工事の支援をしたという話も残っている。

また、忠勝は築城と同時に城下町と東海道宿場の整備も行い、桑名の発展を支えたことで桑名藩創設の名君として語り継がれている。

 

 

逸話、評価

①出自
本多忠勝は現在の愛知県岡崎市にて、松平家(後の徳川)に古くから仕えていた譜代の家臣である本多忠高の長男として生を受けたものの、幼少期の内に父が戦死したことから、母とともに叔父である忠真に引き取られることになった。

本多家には洞、伊那、大平、土井、小川の5つの系譜があるが、小川本多家の出身である。辛くも生き抜いた初陣を経て、15歳で参戦した際には、叔父が忠勝に手柄をあげさせたいという親心から自ら倒した相手の首をとるよう命じたものの「他人の力を借りた功などいらぬ」と断ったという逸話も残っており、若い頃から実直な人柄であった様子が伝わっている。

②人物評
忠義一徹の勇敢な武将として、徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑の一人に数えられる本多忠勝は、主君である徳川家康のみならず、諸侯にも称賛される武将であったと伝わっている。

家康からは長篠の戦いの様子を称賛され、忠勝は「花実兼備の勇士」と褒め称えられたという記録が残っている。

なお、当時の花も備えた風格という表現は、現代でいうような華やかさや見目麗しさというよりも、相手を圧倒するような風格や優美さという意味合いで使用されていた表現である。忠勝の威風堂々とした姿と戦装束は、戦地にあっても目に留まる存在だったようであり、後世では忠勝の武具のレプリカも作成されるほど人気があった。

豊臣秀吉が天下人となった後に徳川家康が大阪城を訪問し、秀吉の前で膝を折る姿は創作物でも著名なシーンである。

同盟の証として秀吉の妹である朝日殿と家康の婚儀が決まったが、当初の徳川方からの結納の使者に対して秀吉は気に入らなかったのか「その格にあらず」として却下し、代わりに指名されたのが忠勝であった。

小牧・長久手の戦いで少数精鋭の兵を率いて、主君の危機にかけつけ勇猛果敢な働きを見せた忠勝に対しては、その忠義心と勇猛さを大いに評価されており、家康の家臣でありながら高待遇で引き抜きの交渉もされたという逸話も残っている。
また、忠勝の戦場での働きは織田信雄にも称賛され、刀を賜っている。

③蜻蛉切
戦国時代には個性豊かなで特色ある戦装束で有名な武将も多いが、本多忠勝の戦装束も後世にレプリカが作られるほどの人気であった。忠勝の装束は、胴は二枚胴で小札は黒漆塗りの切付板札とし、兜は大鹿角の脇立をつけ、肩に金色の大念珠をかけるなど個性的で目立つものであった。「鹿角脇立(ろっかくわきだて)」と呼ばれる兜は、国宝・重要文化財として今も大切に保管されている。

忠勝の戦装束の中で最も著名なものは、「蜻蛉切(とんぼきり)」と呼ばれる槍である。蜻蛉切は、戦場において飛んできた蜻蛉が刃先にとまった途端に真っ二つに切れてしまったという逸話から名づけられたと言われている。蜻蛉切は、結城氏の「御手杵(おてぎね)」、槍の名手として知られる福島正則の用いた「日本号(にほんごう または ひのもとごう)」と並ぶ天下三名槍(てんがさんめいそう)に数えられる槍である。江戸時代には「西の日本号、東の御手杵」と並び称され、蜻蛉切は含まれていなかったようであるが、明治時代以降は天下三名槍と呼ばれるようになり、蜻蛉切も含めた3種が名槍と称されている。

忠勝が主君である徳川家康の危機を救う場面には、必ずと言ってよいほど蜻蛉切が登場している。もしも、自害していたら今日の歴史が変わっていたかもしれないというほど精神的に追い詰められていた家康を叱咤激励し三河へ帰還する伊賀越の道中、忠勝が手にして家康一行を先導したのもこの蜻蛉切であった。戦いに使用する以外にも、船で対岸に渡り切った後に蜻蛉切で船の底に穴をあけ、追っての追撃を防いだという逸話も残っている。小牧・長久手の戦いでは家康の窮地を救うべく、やはり蜻蛉切を携えて緊急参戦している。

忠勝のトレードマークである蜻蛉切は、忠臣のエピソードとあわせて江戸時代に人気が高かったことからレプリカも作られている。その他、実物とされる蜻蛉切も現存しており、現在は静岡県三島市の佐野美術館に寄託されて保管されている。
蜻蛉切の作者は、三河に移った刀剣職人として著名な村正一派である三河文殊派の刀工・藤原正真であるといわれている。蜻蛉切の特徴は、通常槍の長さが5mに満たないものが多い中で、当初は6mもある大身槍であった。160cmほどの身長であったと伝わる忠勝よりはるかに長かった蜻蛉切は、忠勝の晩年には短く削られており現存する物は短くなっている。柄には青貝の螺鈿細工が施された優美な仕立てであったという。

忠勝はこの蜻蛉切を手に数々の戦いを潜り抜け、生涯50戦以上の戦に赴いたとされているにも関わらず、無傷で生き抜いてきたのであった。

④晩年
徳川家が天下統一を果たすターニングポイントとなった関ヶ原の戦いの後、本多忠勝は桑名10万石の城主となり、旧領地である大多喜城は次男の忠朝に与えられた。
関ヶ原の戦いの同年、忠勝は病による体調不良から隠居を願い出たものの、惜しまれ隠居は許されなかったと伝わっている。忠勝の当時の書状の中では「去年より眼病気に候て」と記されており、眼の病を患っていたこと様子がうかがえる。

忠勝は、その後も病身でありながらも引き続き公務に励み続けたため、将軍である秀忠からは労いの言葉を贈られている。

天下統一に向けて多くの戦いを潜り抜けてきた忠勝であったが、その最期は領地での病死であった。今まで歴戦の中でも大きな傷を負うことのなかった忠勝であったが、晩年は糖尿病による網膜剥離を患っていたとも伝わっている。死亡する数日前のに忠勝は彫刻刀で自分の持ち物に名前を彫っていた際に誤って手を切ったのだとか、その際に忠勝は自ら傷を負ってはもう終わりだとつぶやいたともいわれている。

 

 

まとめ

生涯で57回もの戦闘に参加しているにも関わらず、大きな傷を負うことなく潜り抜けてきた本多忠勝。時には城の留守居役も投げ出し、家康の窮地に馳せ参じる忠義の家臣として、徳川四天王の一人として称賛される人物であった。

一言坂の戦いの後「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」という本多忠勝の武功を称える狂歌が歌われたのは余りにも有名で、忠勝の凄さを表している。

 

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