歴史

真田一族繁栄の礎を築いた『真田幸隆』は数々の城攻めの実績を有する智謀の名将。

KOEIの信長の野望シリーズをプレイする際に、最初の方のシナリオでプレイする場合はぜひ配下にしたい武将である。幸隆自体が非常に優秀なのはもちろんだが、一族が優秀過ぎるのだ。言わずと知れた子の昌幸、孫の信之、信繫である。そんな幸隆は名将武田信玄に仕えた戦国きっての智謀の名将である。

 

略伝

真田 幸隆(さなだ ゆきたか、1513年?~1574年6月8日、享年:62歳)は別名を幸綱、⼀徳斎、源太左衛門、弾正忠、攻め弾正、鬼弾正といい、戦国時代に「攻め弾正」の異名などでも知られる同時代でトップクラスの智謀の名将である。出生地は長野県東御市?とも言われるが定かではない。主君は海野棟綱→上杉憲政→武田信玄と変わっている。信濃国小県郡真田の領主で武田氏の家臣だ。真田昌幸の父であり、有名な真田信繫(幸村)の祖父である。

1541年、海野平の合戦に敗れ、長野業正を頼る。1544年頃に武田信玄の臣下となった。1548年2月、上田原の合戦。1550年には砥石崩れで有名な砥石合戦、翌51年には砥石城を攻略している。1553年に三男の昌幸、四男の信尹を武田氏へ人質に出す。1556年には雨飾(尼飾)城を陥落させる。1561年、熾烈と名高い第4次川中島の戦いに参戦。1563年には上州岩堰城を攻略、1564年に隠居し、家督を譲った。1565年、上州岳山城を攻略、1572年3月に上野白井城を攻略と数々の城を落として戦功をあげた。1573年3月に上杉軍に白井城を奪われ翌74年6月8日に62歳で病没した。

 

功績とエピソード

①海野平の合戦
甲斐の武田信虎(信玄の父)が諏訪頼重や村上義清とともに信濃を侵攻した際には、海野棟綱の居城である尾野⼭城は落とされ、海野平の戦いでも敗北し海野氏は滅亡。同族の真田もその地を追われることとなった。

所領を失った真田幸隆は、正室や幼い嫡男・信綱を伴い、碓氷峠を越えて箕輪城主・長野業政を頼って上野へ逃れている。しかし、業政は信濃進出に積極的ではなかったため、起死回生の機会は訪れぬまま雌伏の時を過ごすことになる。
そして、幸隆は、信虎が子である信玄によって追放されて代替わりした後に武田家に仕えることとなる。

②砥石城攻略
諸説あるが、武田家の軍師である山本勘助の推薦によって、武田の家臣として仕官することになった真田幸隆の目立った功績のひとつが砥石城攻略である。
攻略を前にして武田信玄は幸隆に対して、村上氏を倒した暁には1,000貫文の所領を与えることを約束していたとされている。つまりは、砥石城攻略に成功することで、旧領を取り戻すことができるチャンスという訳である。

しかし、この砥石城攻略は一筋縄ではいかぬ難儀なもので、信玄自身も難攻不落の砥⽯城を落とすことができず、その間に村上義清は対⽴していた高梨氏と和睦して出陣し、武田方を挟撃する形をとったために信玄が撤退を余儀なくされた、いわくつきの城であった。この際、村上方の追撃は激しいもので、武田方は甚⼤な被害を出したと言う。上田原の戦いに次ぐ信玄史上大きな敗戦であり、通称「砥石崩れ」と呼ばれている。

戦上手と知られる進言ですら手を焼いた砥⽯城を攻略できるのであれば、幸隆に対してのボーナスもはずむという条件である。幸隆は事前の周囲への調略を行っていたことも功を奏して、信玄ですら落とせなかった砥石城を、わずか1日で陥落させることに成功している。

当時の信玄としては、自信があれだけ苦戦した砥⽯城であったため、新参者のお手並み拝見くらいの気持ちであった可能性も否めぬものの、実際に幸隆が見事に攻略したことで、その後信頼を寄せていくことになるのであった。

③旧領回復
幸隆の旧領回復時期には諸説あるが、亡命後10年以上経過した後のことであったようである。

難攻不落と言われた砥石城攻略したことによって、旧領を回復した幸隆は、この後も数々の拠点を攻略することで武田氏の領土拡大に貢献し、その存在感を確かなものにしていくのであった。

尚、この時敗れて逃れた村上義清は、越後国へと逃れ、越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼っている。これが後に、川中島の戦いに発展することになるきっかけでもあった。

幸隆は、真田本城を本拠地としながらも、対長尾(上杉)氏の最前線に置かれることとなる砥⽯城の番を兼ねることになった。

④嫡男の初陣と抗争の調停
第4次川中島の戦い以降は、前半生とは異なり、自ら最前線で戦う機会は減っている。第4次川中島の戦いでは、初陣の嫡男・信綱とともに妻女山への夜襲部隊に加わっている。

また、川中島の戦いの後、武田信玄が西上野侵攻を開始しているが、この時、吾妻郡内では鎌原氏と羽尾氏の所領抗争が起こっていた。双方が真田の同族でもあるとの理由から、幸綱が調停に関わったとされている。

⑤晩年
真田幸隆は晩年、病気のために家督を嫡男・信綱に譲って隠居している。そのため、武田信玄の駿河侵攻や西上作戦には加わらずに、上杉謙信や北条氏康の抑えとして留守を守ったと伝わっている。なお信綱は父の幸隆と共に武田二十四将に数えられている。

信綱は鉄砲の銃撃に突撃するなど奮戦するが、次男の昌輝と共に長篠の戦いで戦死している。享年39歳であった。その後、真田家の家督は勝頼の命令により信綱の遺児ではなく、既に他家の家督を継いでいた三男の昌幸が継いだ。

 

逸話、伝説、評価

①出自
真田幸隆は、信濃小県郡の豪族・滋野⼀族の本家筋となる海野家に生まれたとされているが、諸説あり、明確になっていない。
【幸隆の出生諸説】
1.海野棟綱の子(『寛政重修諸家譜』『真武内伝』『滋野世記』など)
2.海野棟綱の子・幸義の子(『白川藩士海野氏系図』など)
3.海野棟綱の娘の子(『白鳥神社海野系図』『小県郡海野白鳥系図』『良泉寺矢沢系図』など)
4.海野棟綱の娘婿(『滋野正統家系図』)
海野棟綱の血縁者であることは間違いないようであるが、当初は海野小太郎と称していたようで、後に領地である真田荘から「真田」を名乗るようになったとされている。

②人脈形成
上野国で居候生活を送っていた真田幸隆は、熱心に人脈形成を行っていたと言う。
箕輪城の長野業正との親交を深め、その長野氏の姻戚関係にある小幡氏とも交流し、加えて吾妻郡羽根尾城の羽尾入道幸全とも親しくなったのだとか。羽根尾城は、幸隆の旧領の隣国であることから、旧領回復の際には役立つことを見込んでいたそうで、幸隆は幸全の娘と結婚し羽尾氏の全面的なバックアップを得ることのできる体制を確立している。

加えて、武蔵国の藤田一族に属する用土業国とも親交を深めており、これが後に息子・昌幸の沼田城の攻略に活かされることになる。
このように幸隆が上野国滞在中に築いた人脈は自らの代だけではなく、次世代の真田一族をも支えることとなるのであった。

③武田家の配下へ
武田信玄に臣従した後、武田軍の信濃先方衆として常に先陣を務めて転戦した真田幸隆であるが、きっかけは信玄の家臣である山本勘助の推薦であったと伝わっている。

『甲陽軍艦』によれば、勘助が幸隆の才能に目を留めて、信玄に推薦した旨が記されている。その他、有能な人材を求めていた信玄に人づてに紹介されたとの説もある。

先陣を務めた以外にも幸隆は、数々の城を攻略し、村上方である望月氏の調略なども⾏うなど、文武共に優れた働きを残している。

④武田信玄との関係
真田幸隆の智略と功績は武田信玄から高い評価を受け、新参者でありながらも譜代の家臣と同等の待遇を受けており、甲府に屋敷を構えることも許されていたと伝わっている。

幸隆が一線を退き、息子たちに後を譲った後にも、度々信玄からの戦況を伝える文が届いていた記録も残っていることから、頼りにされた存在であった様子がうかがえる。

⑤幸隆、覚悟の六文銭
真田と言えば六文銭というイメージが現代では定着しているが、この真田家の旗印である六文銭を使い始めたのは、真田幸隆である。
幸隆はかつて仕えていた山内上杉家を見限って武田家に仕えている。この時、身命を賭して家名を残す覚悟の証として、三途の川を渡る駄賃である六文銭の旗印を用いたと伝わっている。

 

さいごに

天下を統⼀した徳川家康や豊臣秀吉を警戒させる存在であった真田一族。その礎を築いた⼈物が真田幸隆である。幸隆は武田家に仕官し、数々の城を攻略した名将として名をはせた。幸隆が用い始めた真田の六文銭の旗印は、後世まで一族の名声と共に語り継がれている。

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