歴史

戦国時代屈指のリベンジ『范雎』は、平民から秦の宰相まで出世した苦労人。

平民から超大国「秦」の宰相まで上り詰め、キングダムでも大活躍した蔡沢に地位を譲って引退した『范雎』は、知略だけでなく処世術にも優れた賢人であった。

小説「史記」、横山光輝先生の漫画「史記」で『范雎』のエピソードを繰り返し読んでいたが、最近「蒼天航路」の作者である王欣太先生の「達人伝」で『范雎』のエピソードを読み本記事を作成することにした。

史記の中でも特にお気に入りのエピソードである。

 

 

略伝

范雎(はんしょ、生年不詳~紀元前255年?)は、魏の生まれであるとされるが詳細不明。戦国時代に活躍した人物で『史記』でも紹介されている中国戦国時代の秦の宰相。初め魏に仕えたが、内通者として疑われて秦へ亡命し、秦の昭襄王に仕えて、遠交近攻の策を献じた。

 

 

功績とエピソード

①魏での屈辱
須賈は魏王の命により斉へ赴くにあたって范雎に「私はこれから斉へ行くので一緒に来るように」と言われて供をすることになり、二人は斉に到着すると斉王・襄王との会見に臨んだ。当初は傍で黙っていた范雎であるが、襄王が質問を投げかけてくるので応対することになる。襄王は范雎の応答に満足し、無事に任務を全うし宿舎へと戻った。

一人寛ぐ范雎のもとに、襄王の使者が大量の金と酒を携えて「王は、あなたの応対に感服し褒美をつかわされた」と訪れたものの、丁重に辞退した。しかし、これが後に范雎を窮地に陥れることになってしまうのであった。

須賈は側近から「范雎が襄王からの贈り物を受け取ったらしい」と報告を受け、その贈り物は范雎が斉に内通した謝礼だと思い込んだ。須賈は帰国後すぐに上司である魏斉に「私の部下である范雎が、魏の秘密を斉にもらし多額の謝礼を受け取った」と根拠のない報告を上げた。これを聞いた魏斉は、当然ながら非常に怒って、范雎を呼び出した。

何も知らぬ(実際には罪のない)范雎は、魏斉のもとへ参じると、おもむろに暴行を受る。范雎は状況も分からぬまま暴力を振るわれることに対して、反論しようするも続けざまに暴力を受け続けるのである。范雎は肋骨や歯を折る重傷を負い、このままでは殺されると思い死んだふりをするも手加減されることなく、簀巻きにされて厠へ投げ込まれてしまった。范雎は助けを求めるも多くの者は排泄物をかけるなど更なる辱めを加え、誰も助ける者が現れなかった。

しかし、偶然通りがかった厠の番人にと必死に助けを求めたところ、無事に救助され、九死に一生を得たと言う。この時に、范雎を助けたのが鄭安平で、鄭安平は秦の王稽と范雎を引き合わせてくれたことで、范雎の運は拓けていくことになる。

②秦での登用
引き合わされた王稽は、秦の昭王と范雎を面会の機会を設けてくれた。范雎を昭王に気に入られ、無事に秦で再就職を果たした。そして、後に宰相まで出世することになる。鄭安平と王稽のお陰出世することができた范雎は、後に恩返しをするとともに、魏での屈辱を与えた人間に対しては苛烈な復讐を行っている。

③白起への警戒
将軍・白起は秦に次々と勝利をもたらす名将であり、一気に趙を亡ぼしそうとしていた。

しかし、趙から講和のために送られてきた使者が、言葉巧みに白起が功績を立てすぎると范雎のポジションを脅かすと唆したことで、范雎は昭王に趙とは戦わずに講和を結ぶことを進言したのである。白起にとっては、趙を滅亡させる好機と捉えていただけに非常に悔しい思いをしたようで、二人の関係は破綻し、以降、白起は出陣命令を無視したこともあり流罪にされてしまった。

④遠交近攻の策
范雎の政策として有名なものが「遠交近攻策」である。今までの秦は遠くの斉などの国を攻めていたが、遠くの国とは同盟を結び、近くの魏や韓を攻めるという制作である。同盟を結んだ斉には、攻める国の後方から目を光らせてもらいたい狙いもあった。進言を受け入れた昭襄王は、魏を攻めて領土を奪い、韓に対して圧をかけた。この作戦が功を奏して、秦は領土を大きく拡大することができたため、満足した昭襄王は、范雎を信用し重用することになっていった。

⑤蔡沢の採用
遊説家の蔡沢は、范雎に対して歴史上の人物をあげて、自らの手腕で国を隆盛させた時の王が健在中は重用にされるが、代が変われば千種記されていた不満が出て悲劇的な末路をたどるのが世の習いであると、長く権力の座にあることの危うさを説き引退することを勧めたと言う。その言葉に思うところがあったのか、范雎は引退を決意して、後任には蔡沢推挙したと伝わっている。

 

 

逸話、伝説、評価

①出自
范雎は魏の生まれと言われている。官僚として身を立てたいと願い、諸国を巡り就職活動をはじめるも、なかなか職が見つからなかったと言う。加えて、非常に貧しかったために間もなく活動資金は底をつき、失意のまま魏に戻ることとなった。その後、魏で須賈へ仕えることになったものの、須賈には後に散々な目にあわされることとなるのであった。

②范雎、怨みをはらす
秦の宰相となった范雎は、功績により新たに領地を賜るなど飛ぶ鳥を落とす勢いで出世を遂げる。秦の実力者となった范雎のもとを訪れた魏の使者こそが、范雎が死にかけるほど痛めつけられた原因を作ったあの須賈であった。

そこで、范雎は一計を案じる。須賈が秦を訪れると、みすぼらしい身なりの范雎に遭遇し、須賈としてはそもそも死んだと思っていた范雎が生きていることに驚き「まだ生きていたのか」と軽く声をかけたと言う。それに対して、范雎は「どうにかこの通り、生きております」と応じた。

※范叔=范雎のこと。顔中に傷が残るほどの暴行を受ける羽目になった張本人の須賈と再会を果たした。

 

范雎の見るに堪えぬ姿に同情した須賈は、厚手の服を范雎に与えたと言う。しかし、話はここでは終わらない、続けて范雎は范雎に「ところで、秦の宰相・張禄(秦での范雎の名称)殿とお目にかかりたいのだが」と依頼した。これには、(実際には范雎なので)范雎は俯いて笑いをこらえながら「よく、存じております。私がご案内いたしましょう」と自宅へと案内するのであった。

※范雎=張禄は須賈を乗せて馬車を運転している。街ゆく人々は、超大国「秦」の絶対権力者である張禄宰相にビビって小走りで道をよけるが、須賈は「うむ?」と自体が飲み込めていない。

 

そして、家に招き入れ、応接間に通し「張禄様をお呼びしますので、しばらくお待ち下さい」と告げて下がっていった。移動した范雎は、正装に着替えて再び須賈の前にあらわれ、須賈は范雎が秦の張禄であることに気づいて驚き、彼の前にひれ伏すのであった。

※呼びに行ったきり出てこない范叔にしびれを切らした須賈は門番に話しかける。そして范叔が秦の宰相になっていたことを知る・・・。

 

それを見下ろす范雎は「お前には三つの罪がある。一つは魏斉にありもしない嘘の情報を告げ口したこと。次は鞭で打たれている私を助けなかったこと。三つ目は、厠で私が辱めを受けていることを知っていたにも関わらず、助けなかったこと。以上三つがお前の罪だ。しかし、先ほど私に恩情かけて、厚手の服を渡してくれたことに免じて、死刑にだけはしないでやろう」と申し渡したと言う。

※上着を脱いで地面に頭をこすりつけるしかない須賈。魏と秦の力の差は歴然であった。

 

その後、須賈を歓迎する宴席を設けるも、当然ながら相当当時のことを根に持っている范雎が須賈をただで帰す訳がない。宴席で范雎は須賈に対して「魏斉の首を差し出せ」と冷たく告げるのである。逆らえる立場ではない須賈は「承知いたしました」と承服し、逃げるように退席し魏へと帰国するのであった。

※怒る范雎

 

魏へ戻った須賈は、魏斉にことのあらましを報告。魏斉は死んだものと思っていた范雎が生きていただけではなく、国の要職について権力を持っていることを知り、復讐を恐れて怯えるのであった。命の危機を感じた魏斉は、翌日早々に魏を脱走し趙へと亡命する。

しかし、范雎は執念深く追跡し、趙の孝成王に圧力をかけて、魏斉を引き渡すよう交渉。魏斉は趙にまで圧力をかけてくる范雎の執念にますますに恐れ、魏の信陵君へ助けを依頼するも、拒否されたことで絶望した末に自害。こうして、魏斉の首は予定通り范雎の元へと送られ、范雎は積年の恨みを果たしたのであった。

本エピソードは繰り返し読んでいたが、どこか違和感があった。横山光輝先生の史記では范雎の見た目が綺麗すぎたのだ。王欣太先生の「達人伝」では顔中に傷が残り、歯も殆ど失っている。古代は医療技術がないに等しいので、数時間も凄惨な暴行を受けたら綺麗なままでいるはずがない。それで「なるほど」と思い、本記事を書こうと思った。

 

③范雎の恩返し
范雎は、宰相の位に就くと助けてくれた鄭安平を秦に招き将軍に推薦している。また、昭襄王へ推挙してくれた王嵇に対しては、領地を与えることで報いている。苛烈な復習をする一方で、苦境の折に助けてくれた恩人にはしっかりと報いる。恩も怨みも忘れない性格のようである。

④晩年
血で血を洗うような時代を范雎であったが、最期まで権力にしがみつかずに引退したことが功を奏したのか、暗殺や虐殺されることなく往生したと伝えられている。しかし、一方では、出土した『編年記』の昭王52年(紀元前255年)の記述によれば「王稽・張禄(范雎)死す」との記載があることから、王稽に連座して処刑されたとの説もある。

 

 

まとめ

小説「史記」及び横山光輝先生の漫画「史記」にて最も繰り返し読んだのが、『范雎』のリベンジの回だ。

今も昔も努力家や有能な人物の足を引っ張るのは、やる気がなく、真っ当な努力をするよりも他者を蹴落とすことに尽力する邪な人間である。『范雎』は、そのような逆境に負けることなく這い上がり、見事にリベンジを果たしている。リベンジについては賛否があると思うが、個人的にはお気に入りのエピソードだ。

また『范雎』の最後に関する個人的な意見としては、やはり連座で処刑されたのではないか?と思っている。秦の法は商鞅が作ったものであり、有能な将軍で慕う者も多かったであろう白起とも揉めていたので恨みも相当に買っていた筈だし、見逃されなかったのはないかと思う。

 

-歴史

Copyright© たいらblog , 2021 All Rights Reserved.