歴史

秦三代に仕えた『樗里疾』は白起や王翦にも劣らない滑稽多智の知恵袋。

商鞅の大改革によって他国に抜きんでた国力をつけた秦は、秦王政により天下統一される。名将は数多いたが、秦の国力を飛躍的に高めたのは商鞅である。紀元前338年に商鞅が亡くなってから、およそ117年後の紀元前221年に約500年続いた戦国時代は終焉を迎えた。

天下統一については、常勝将軍「白起」、万能将軍「王翦」などの大活躍はもちろんだは、それより少し前に、商鞅がつくった礎、強国秦をさらに飛躍させる一翼を担った『樗里疾』をご紹介したい。

 

 

略伝

樗里疾(ちょりしつ)。樗里子または厳君とも呼ばれる。中国戦国時代(前四〇三~前二二一年)における秦の将軍ならびに宰相。秦の恵王の腹違いの弟。没年前三〇〇(昭王七年)。秦の恵王と武王と昭王の三代に仕えた。商鞅による改革後の秦にて文武両面で活躍。当時の秦の国では賢者の代名詞として名を知られていた。功績としては軍事面で突出しており、五ヶ国連合の合従軍を撃破し、その後も各国をたびたび撃ち破って武功を重ねた。また、武王の時代より甘茂と共に宰相として働くようになり、昭王の代には単独で宰相の地位を占めるに至った。

 

 

功績とエピソード

①商鞅亡き後に起こった秦の国の躍進
戦国時代に秦の国が強大になったのは商鞅の改革によると言われている。商鞅は恵王に恨まれてついには処刑されてしまったが、恵王は改革の恩恵を受けて他国に武威を発した。樗里疾はそのような飛躍の時代に取り立てられ、恵王の牙として大いに働く事になった。

恵王七年、函谷関にて秦と韓・趙・魏・燕・斉および匈奴による合従軍との戦いが起こった。秦の国はこれを迎撃して五ヶ国を全て敗走させた。さらに、樗里疾が修魚にて戦い、敵将申差を捕らえ、趙の公子渇と韓の太子奐を倒し、八万二千もの首を取った。この一時のみでも樗里疾生涯の勲功とするに充分な大戦果と言える。

樗里疾の戦いはさらに続く。八年、樗里疾は右更(うこう)の爵位を受け、大将として魏の国を攻め、曲沃を(きょくよく)征伐し、その住人をことごとく追い出して城を取り、その土地を秦の領土へ組み込んだ。十一年、樗里疾は魏の国の焦と言う土地を攻めて屈服させ、韓の国の岸門を抜いて一万の首を斬り、結果として敵将たる犀首(さいしゅ)を逃走させた。十二年には趙の国を攻めて敵将莊豹(そうほう)を捕らえた。十三年には韓の国を助けて東に斉を攻めた。それから時は流れ、二十五年には大将として趙の国を討ち、趙の将軍たる莊豹を捕らえ、藺(りん)の城を抜いた。翌年、魏章を助けて楚を攻め、楚の大将たる屈丐(くつがい)を破り、漢中の土地を取った。秦は樗里疾を封じて厳君と号するに至った。以上、樗里疾はまさに将軍として大いに采配を振るい、長きに渡って秦の将軍として武勲を輝かせた。

②樗里疾の宰相就任と武王の時代
秦の恵王は張儀と言う縦横家を宰相として任用していた。張儀はかの有名な「連衡(れんこう)」の策の実行者であり、それによって秦の国の立場を強くしていたと言える。しかし、恵王が亡くなって武王の時代になると、張儀の立場は非常に危うくなった。なぜなら、武王は張儀をもとより嫌っており、即位後には臣下らも張儀の悪口を盛んに言い立てたからだ。諸国は武王と張儀の仲が悪い事を知ると、秦との連携、つまり、連衡を止め、秦に共同して敵対する「合従」の方針に戻ってしまった。結局、張儀と魏章は秦から追い払われ、代わりに、宰相として抜擢されたのが樗里疾と甘茂だった。

この時代の秦を語るにおいて甘茂を外す訳にはいかない。武王の三年、秦の武王はかつての王者である周の国を平伏させたいと願い、そのために、甘茂を魏の国に対する使者として送り、共に韓の国を討とうとした。しかし、甘茂は魏の国へ着くと、自分に付いてきた向寿と言う者を送り返し、王に対して征伐を止めるよう伝えさせた。王は息壤と呼ばれる土地にて甘茂を出迎え、その理由を問うた。

甘茂の言い分は、仮にここで魏の国と協同作戦の同意を取り付けても、その間に、本国では樗里疾や公孫奭(こうそんせき)が韓の国を弁護し、王は必ずその言に従うだろうから、結局、魏の王を欺き(あざむ)、韓の宰相である公仲侈(こうちゅうし)から恨まれる事になる、と言う事だった。案の定、甘茂が韓の国を攻撃している最中に、この二人が王に対して弁舌を激しく揮ったので、王はあやうく魏に対する攻撃を止めさせる所だった。

しかし、甘茂が息壤の名を告げると、逆に、大いに兵を発して甘茂に攻撃を続けさせ、結果として、宜陽を陥落させた。その後、樗里疾が車百乗を以って周の国へ入り、大いに敬われた。このように、武王の時代には、樗里疾に加えて、甘茂、公孫奭、向寿と言った者らが朝廷にて影響力を持っていたようだ。

③樗里疾と甘茂の行く末
武王の時代にはすでに韓・魏・斉・楚・越の諸国が秦に屈服していたとされる。かつて、秦の国では商鞅や張儀といった賢者が現れて政治や外交を主導していたが、その成果が武王の代に及んで大いに実ったとも考えられる。とは言え、武王自身は賢者よりも単純に力の強い者らに親しんでいたようだ。武王は筋力が強く、力試しの遊びを好んでおり、任鄙、烏獲、孟節などの力士を大官に登用していた。しかし、ある時、力試しをしていたのか、孟節と共に鼎を挙げた際に、脛骨を絶ってしまい、その怪我によってそのまま亡くなってしまった。

武王の後を継いだのは腹違いの弟である昭王だ。昭王元年、樗里疾は宰相となった。その年、樗里疾は大将として衛の城である蒲(ほ)を征伐したが、蒲の太守から依頼された胡衍(こえん)の言葉によって撤退した。胡衍曰く、蒲を陥落させてしまえば、衛の国は独立しておられず、必ずや魏の国に従うでしょうから、かえって秦の国にとっては不利となり、樗里疾は王から罰を受けるでしょう、と言う訳だ。

一方、甘茂は、向寿と公孫奭に讒言(ざんげん)されたせいで国外へ亡命していた。甘茂は手を尽くして秦の国での復権を目指したが叶わなかった。代わりに宰相になったのは向寿だ。向寿を宰相に勧めたのは楚の国だ。楚の国からすれば、賢者である甘茂が宰相になって秦の国が強くなるよりも、王の親族という立場によって政治に関わっている向寿が宰相になった方が都合が良かったのだ。甘茂はついに魏の国にて亡くなった。一つの時代が終わりを告げようとしていた。

そして、昭王の七年、ついに、樗里疾が亡くなった。

その後、昭王によって、五十六年に渡る長い治世が続けられる事になる。昭王の時代には名将白起が現れ、秦の武威をさらに発揚させた。そして、昭王の死後、二人の王による短い在位期間を挟んだ後に、秦王政の時代が訪れる。後の世に言う始皇帝である。始皇帝による中華統一は後世に良く知られているだろうが、そこに至るまでには数多くの先人による改革と奮戦と智謀の発露があり、樗里疾の時代もまた、中華統一に至る大いなる道の一片を担ったと言える。

④「力則任鄙,智則樗裏」
樗里疾が影響力を持っていた時代、天下は特に謀略や詐術に走っていたとされる。例えば、張儀は宰相として連衡の策を仕掛け、甘茂も他国へ亡命した際に蘇代の弁舌に救いを求めた。蘇代の兄は合従の策によって出世した蘇秦であり、蘇代は兄の真似をして成功したとされる。

そして、樗里疾もまた知恵と弁舌を売りにしていたきらいがある。樗里疾はその才を「滑稽多智」と評されている。ここで言う滑稽とは能弁かつ俊敏であり理屈をこね回して物事の筋道を分からなくする意味であり、優れた知恵で自分にとって都合の良い結論をひねり出す事に長けていたとも解釈できる。樗里疾の功績の多くは軍事によるが、世間ではむしろ知恵者として名高く、「力持ちなら任鄙、知恵者なら樗裏(樗里疾)」と謳(うた)われており、秦の人は樗里疾の事を「智囊(知恵袋)」と呼んだと言う。

⑤樗里疾による最期の予言
樗里疾は亡くなる際、遺言として奇妙な言葉を残している。曰く、

「百年後、ここにまさに天子の宮殿が出来て、我が墓を挟むであろう」

樗里疾が葬られたのは渭水の南、章台の東だった。また、樗里疾の屋敷は陰郷の樗裏と呼ばれる場所に在ったので、その主である樗里疾も俗に「樗里子」と呼ばれていた。やがて、漢の時代になると、はたして、その東に長楽宮が在り、その西に未央宮が在った。まるであらかじめ未来を知っていたかのような的中ぶりだと言えるだろう。樗里疾は立地条件などを吟味した上で、宮殿が立ち並ぶのはここ以外には有り得ないと判断したのだろうか。樗里疾の面目はこのような飛躍した知的な言動にあったのかもしれない。

 

逸話、伝説、評価

①周の国へ使者として出向いた際に敬われた理由
秦の武王が甘茂を使わして韓の国を攻め、以って宜陽を落とし、その上で、樗里疾を西周の都へ使者として送り込んだ時の話。その際、周の国のもてなしようは甚だ恭しく、それを聞いた楚の国の王が腹を立てるほどであったと言う。周の国の言い分は、周の国は秦の国を「虎狼の国」と呼んで警戒しており、樗里疾を護衛するとの名目で、実際にはこれを捕らえていたと言うものだった。

つまり、秦の国を尊重している訳では無いが、秦の国に対する備えを怠っては、じきに滅ぼされてしまう恐れがあり、その備えとして恭しく出迎えるしかなかったと言う訳だろう。それほどまでに当時の秦の国はすでに精強だったと言える。

②司馬遷による評価
当時の歴史を記した「史記」の作者である司馬遷は、樗里疾について以下の評を述べている。

「樗里子が(王の)肉親である事を以って重んぜられたのはもとよりの理だが、それでも秦の人はその智を称えている。故に、いささか采り上げる。(中略)篤行の君子にあらずといえども、戦国の策士然とはしている。秦の国が方々に強大さを誇っていた時、天下は尤も謀略詐術に走っていた」

以上の評は甘茂やその孫である甘羅と合わせて行われたものだ。彼らもまた策を用いて名を挙げた。樗里疾も彼らと同じく時代が求めた人物だったと言える。

 

まとめ

樗里疾は名声としては知恵の深さを称えられ、実績としては数々の武勲を挙げている。もし、その具体的な功績や言動が数多く後世に伝えられ、あるいは、物語として赫々と表現されていれば、後の白起や王翦の如く大いに世に知られていたかもしれない。その知性が並々ならぬものであった事は遺言の際の予言に表れており、それを以って、後世には伝え切れなかっただろう樗里疾の知性の鋭さを類推する事も可能だろう。

歴史が全て正しいとは限らず、残された資料にも限りが有る。それでも、一欠けらの逸話さえ残っていれば、その人物の輝きを伝える事は出来る。樗里疾の知恵袋たる所以も、司馬遷が采り上げた事によって、後世にその残余を残す事が出来たと言えるだろう。

 

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