歴史

秦を覇権国家に飛躍させた『商鞅』は、天下統一への礎を築いた法家の権化。

中華を統一し、初めて皇帝と名乗った始皇帝の国「秦」は、春秋戦国時代において他国より優れた力を持っていた。白起や王翦といった将軍、范雎や張儀といった名宰相が有名だが、中でも法を整備して、法による富国強兵をすすめた『商鞅』は秦が強国になった最大の功績者である。その知識や弁舌を用いて、秦の孝公の信任を得ることに成功し改革を始めた。孝公は始皇帝から6代前の秦王である。

孝公から始皇帝までの歴代君主は、下記の通り。
孝公(前361~前338):秦の第25代君主。仁政に努め孤児や寡婦を救済し、兵士を優遇した。また論功行賞を公平にし広く人材を集めた。

恵文王(前338~前311):第26代君主。非常に有能で巴蜀の地を征服し、秦において初めて王を名乗った。

武王(前311~前307):第27代君主。恵文王の死後、嫡男で君主となった。戦を好む粗暴な人物で、普段からその力を誇示していた。在位4年目の紀元前307年、武王は周囲の制止をきかず臣下の力士と力くらべを始めた。鼎を持ち上げたが、あまりの重さに足の骨を折って急死。

昭王(前306~前251):秦の第28代君主。昭襄王とも呼ばれ漫画キングダムでも名前があがる有名な君主。秦史上最高の55年もの長きにわたり王として君臨した。先代の武王には子がなく、燕に人質として預けられていた弟の嬴稷(後の昭王)が秦へ呼び戻され王になった。

考文王(前250~前250):秦の第29代君主。即位の3日後に53歳で死去。

荘襄王(前249~前247):秦の第30代君主。35歳で死去、在位はわずか3年であった。 呂不韋の奇貨居くべしで考文王の20人もの子供の中から太子となった。

始皇帝(前246~前210):秦の第31代君主。言わずと知れた秦王政。

魏からやってきた『商鞅』は抜本的な改革を断行、衰退していた秦を強力な中央集権国家として生まれ変わらせた。都を櫟陽から咸陽に遷都、魏を破り富国強兵に邁進した『商鞅』をご紹介したい。

 

 

略伝

商鞅(しょうおう)。本名は公孫鞅(こうそんおう)。祖先は姫姓。衛鞅とも呼ばれる。中国戦国時代(前390年~前338年)における政治家。衛の国出身。衛の国の分家の子。はじめ魏の国の宰相に仕えていたが、魏の国では用いられなかったので、秦の国へ出向いて孝公に仕える。

結果として、秦の国体を根本的に変え、先進的な法治国家を実現した。しかし、過酷な手段で改革等を行ったせいで大いに恨みを買い、孝公の死後、公子の一派から訴えられる。一度は国外へ亡命するも強制送還され、ついには、反乱を起こして敗死した。

 

 

功績とエピソード

①公孫鞅を宰相にすべし。さもなくば殺し給え
若い頃、公孫鞅は刑名の学を好み、魏の国の宰相である公叔痤(こうしゅくざ)に中庶子(家臣を取り締まる役。家令)として仕えていた。公叔痤は公孫鞅の卓抜たる才能を見出していたが、公孫鞅を王に推薦する事はしていなかった。やがて、公叔痤は病気になった。

公叔痤はここに至って病気見舞いにやってきた魏の惠王に対して公孫鞅を推薦し、自分が死んだ後には公孫鞅に国政を任せるよう勧めた。しかし、惠王は黙ってしまった。公叔痤は席を立とうとした惠王に対して、人払いをした上で、もし公孫鞅を用いる気が無いのでしたら、彼を必ず殺して国外へ出さぬようにしてくださいと頼んだ。他国にて公孫鞅を用いられて大いに業績を挙げられるくらいならば先に殺してしまった方がましだと言う訳だ。

惠王が退出した後、公叔痤は商鞅を呼び、王がお前を殺そうとするだろうから今のうちに逃げよと告げた。公叔痤の立場では惠王に対して最善の策を告げねばならないから公孫鞅を殺せと述べるしかなかった。とは言え、個人的には公孫鞅をむざむざ殺させるのは忍びないと思ったのだろう。だが、商鞅は公叔痤の勧めに従わなかった。曰く、

「彼の王は私を用いよとの貴方様のご意見に従わなかったのでしょう。でしたら、どうしてまた私を殺そうと言うでしょうか」

事実、惠王は公孫鞅の価値を全く認めていなかったらしく、公叔痤の推薦の言葉を重病のせいで発した妄言としか受け取っていなかった。よって、公孫鞅を用いない代わりに殺そうともしなかった。

②秦の王に繰り返し政治思想を説く
公叔痤が亡くなった後、公孫鞅は西の大国である秦の国へ出向いた。当時、秦の王と言える孝公は富国強兵のために優秀な人材を求めていた。公孫鞅は孝公お気に入りの宦(かん)官(がん)である景監を通じて孝公に渡りを付け、面会の機会を得る事に成功した。

そこで公孫鞅は長々と弁舌を振るったのだが、孝公は途中で居眠りをするほど反応が悪く、景監に不満と苦情を述べるほどに機嫌を損ねてしまった。この時、公孫鞅が語ったのは「帝道」、つまり、理想的な政治思想だった。五日後、公孫鞅は考公の前にて再び弁舌を振るったが、今度はいくらかましとは言え、やはり、反応が悪く、苦情を受けてしまう。この時、公孫鞅が述べたのは「王道」、つまり、道徳的な政治思想だった。

公孫鞅は再び孝公に面会して政治思想を述べた。すると、今後は孝公の反応が良くなり、話の後、孝公は景監に対して、汝の客は善し、共に話ができる、と述べた。この時、公孫鞅が述べたのは「覇道」、つまり、武力によって国を治める思想だった。そして、再び、公孫鞅が孝公に対して弁を揮(ふる)うや、孝公は我を忘れて膝を乗り出し席を立ち、数日語って飽きなかった。この時、公孫鞅が語ったのは「強国の術」だった。

どんなに優れた説であろうとも、聞く相手がそれを望んでおらず、また、評価するだけの能力や器量が無ければ無下にされてしまう。公孫鞅は、孝公は殷周の(いんしゅう)徳、つまり、過去の理想的な国家による政治には及ばないだろうと述べた。それは秦の国そのものの運命を予言するかのようだ。

③秦の国を法治国家として徹底的に作り替える
こうして、公孫鞅は秦の国にて大々的に用いられる事になったが、孝公は先祖代々の法を根本から変えて覇道を邁進する事にためらいを感じていたようだ。それに対する公孫鞅の意見は勇ましいものだった。

「行うに疑っては名を得ず、事を疑えば功無しです。行いの質が人より高い者はもとより世の中から否定され、独創的な知恵者は必ず民衆から罵られるものです。愚者はすでに完成している事にすら気付かず、智者は萌(きざ)しが出る前にすでに知っているものです(愚者は成事に闇(くら)く、知者は未萌(みほう)に見る)。ですから、民衆とは共に事業を始める事はできず、成果を共に楽しむ事しか出来ません。最高の道徳を語っても俗人とは相いれないものであり、大いなる功績を成す者は大衆には相談せぬものです。聖人が国を強くする際には法に従わず、民に利益を与えるためには作法に従わないのは其(そ)れ故(ゆえ)です」

結局、公孫鞅は左庶長の爵位を受け、秦の国の法を変えるために精力的に活動する事になった。その政策は徹底しており、国民を五戸または十戸一組としてお互いに監視させて連帯責任を負わせ、密告を推奨して褒賞を出し、罪人をかくまえば敵前逃亡と同じ重罪とした。その上で、農業と機織という本業に勤しませ、成果を大いに挙げた者には課税を免除する一方、商業という末端的な仕事に手を染めたり、怠惰だったせいで貧困に陥ったりした者らは奴隷に落とした。また、家に男子が二人以上居るのに分家しない家には課税を倍にした。軍功の有った者にはその内容に応じて爵位を与えるが、例え、公族であっても軍功が無ければ一族には含めない。また、身分や爵位には細かく秩序を与えた。また、私闘を行った者らには罰を与えて治安を守った。すなわち、功を立てれば栄誉を高く与えるが、功が無ければ財産が有っても贅沢な暮らしをさせないようにした。

こうして、徹底した富国強兵のための効率的な法家主義ならびに全体主義の政策が出来上がった。とは言え、その内容は極めて先鋭的であり、いきなり政策を施行しても民衆がそれを信じない恐れがあった。なので、これからはいかに法律や布告が絶対的なものであるかを知らしめるために、あらかじめ分かりやすい布告を出す事にした。

ある時、三丈の大きさの木を首都の市場にある南の門へ置き、「これを北の門へ移した者に十金を与える」と布告した。しかし、そんな簡単な事で大金をもらえるとは誰も信じず、結局、木は移し替えられなかった。そこで、報酬額を五十金に増やしたところ、ようやく木を北の門へ移した者が現れた。国はその者に約束通り五十金を支払った。それによって、どんなに特殊な内容であっても法律等で定められた事は絶対であると、実例によって民衆に伝えたのだ。

しかし、新しい法律の施行から一年すると、新しい法律は不便だと訴える事例が千に及んだ。その頃、国王の跡継ぎ、つまり、公子が法を犯した。公子であれば法律を無視しても許されるのが普通だったかもしれないが、商鞅は公子を極刑に処す事にした。例え、国王の後継者であろうとも法律を犯せば免れない、つまり、王だろうと民だろうと法律の前では平等である事を強く示す事で、民衆の不満を抑え込もうとした訳だろう。とは言え、さすがに公子を処刑する訳にはいかないので、代わりに、公子の傅(も)り役を処刑し、公子の師匠を入れ墨の刑に処した。効果は翌日より現れ、全ての国民が法律に気を遣うようになったと言う。

公孫鞅の新法が施行されてから十年経った。その効果は目覚ましく、秦の民は大いに喜んでいた。落とし物を拾う者が居なくなり、山から盗賊が居なくなり、家の貯えによって人民は満足した。民衆は公の戦いには勇み立ち、私の戦いには気乗りしなくなり、町や村は大いに治まった。つまり、公孫鞅の政策によって、秦の国は近代的な秩序を持った豊かかつ安全な国に生まれ変わったのだ。

とは言え、公孫鞅の主導する政府はあまりにも苛烈だった。新法を施行した当時に文句を言っていた者らが、今度は新法を褒め始めたのだが、公孫鞅はそれすら許さず、「この者らは教えを乱す民である」と述べ、新法に意見した者らを辺境の城へ追放してしまったのだ。その後、民は国の方針についてあえて議論する事をしなくなった。

その後、公孫鞅は大良造に昇進し、自ら軍を率いて魏の国を攻め、その首都たる安邑を包囲して降伏させた。その三年後、咸陽(かんよう)と言う街にて宮殿や朝廷等を建築し、首都をここへ移した。その際、公孫鞅はさらに改革を進め、父子兄弟が同じ家に住むのを禁止する事で分家を推進させた。そして、小さな町や村を集めて県とし、長官として令を置き、補佐官として丞を(じょう)置いた。その数およそ三十一県。さらに、阡陌(せんぱく)(東西南北へ通じる道)を開いて境界線を無くし、課税を均等にし、枡(ます)、秤、(はかり)物差しの長さを統一した。つまり、田畑や領土を大いに拡張する基礎を作った。こうして、秦の強国としての国体が出来上がっていった。

さらに、法律を施行してから四年後、公子が再び罪を犯したので、商鞅は公子を鼻削ぎの刑に処した。法律の前には身分は不問。その思想は極めて先鋭的であり、民衆からすれば大いに歓迎する事だろう。但し、鼻を削がれると言う惨たらしい目に遭った公子には遺恨が残った。公子は門を閉ざして外へ出なくなった。

④魏の国を撃ち破り、秦の領土を拡張する
この頃、戦国七大国の均衡を崩す事件が発生した。呉起の働きによって千里の領土を獲得したはずの魏の国が急転直下で弱体化したのだ。その直接的な原因は魏の国の将軍たる龐涓が斉の国の軍師たる孫臏によって撃破された事だ。魏の国は無敗の兵法家たる呉起を猜疑心によって国外へ流出させてしまった事を境にして、公孫鞅を抜擢せず、また、孫臏を無実の罪で足切りの刑にしてしまい、結果として斉の国へ亡命させてしまうと言う、人事面での大失態を繰り返していたが、その罰をついに直接的な形で受けてしまった訳だ。

翌年、公孫鞅は孝公に対して魏を討つ事を勧め、結局、自ら大将として魏の国へ侵攻した。さらに、迎撃のために軍を率いてきた大将が魏の公子卬(こう)だったので一計を案じた。つまり、公孫鞅は魏の国に居た際に公子卬と親しく付き合っていたので、盟約を結んで両国を安らかにしたいとの名目で、公子をおびき寄せた上で捕らえてしまったのだ。公孫鞅はそのまま魏の軍隊を散々に撃ち破って帰還した。一方、魏の惠王は秦によって自国の軍隊がたびたび撃ち破られ、国内が空になってしまい、日に日に領土が削られていく事によって恐怖を抱き、ついに、秦へ使者を派遣して黄河の西の領土を割譲して和平した。そして、魏の都である安邑を去り、都を大梁へ移した。梁の惠王曰く、

「私が公叔痤の言葉を用いなかった事は痛恨だった」

公孫鞅は魏へ帰還すると、商と言う土地に在る十五の邑(むら)に封ぜられた。よって、商君、つまり、商鞅と号した。

⑤「ああ、法を為して自ら斃(たお)れるに至るか!」
商鞅が秦の宰相となってから十年経ったが、公族や貴族の中には商鞅を恨む者が多数居た。ある時、商鞅は趙良と言う賢者と交際しようとしたが断られてしまう。その直後、超良は商鞅の頼みに応じ、いかに現在の商鞅の立場が危険であり速やかに領土を返上して辞職する事で身を守るべきかを切々と語ったが、商鞅はその言葉を受け入れなかった。

商鞅の破滅は急速に起こった。それからわずか五ヶ月後に、趙良の述べた通り、商鞅を信任していた孝公が亡くなり、後継者として、商鞅によって鼻削ぎの刑に処された公子虔(けん)が即位したのだ。そして、公子虔(けん)に従う者が、商鞅は反乱を欲していると訴えたので、官吏が商鞅を捕らえようとした。商鞅は逃亡して関所へ至り、宿屋へ泊まろうとしたが、宿屋の者は客が商鞅だとは知らないので、本人の前にて、「商君の法では手形を持たない者を泊めると罰せられます」と返してきた。

商鞅はため息を付いて、「ああ、自らが作った法律によってここで死ぬ事になるのか」と嘆いた。それでも、商鞅は秦の国から脱出する事には成功する。商鞅が亡命先として選んだのは魏の国だった。しかし、魏の人はかつて商鞅によって公子が騙されて軍を撃破された事を恨んでいたので、商鞅を受け入れなかった。商鞅は他国へ行こうとしたが、魏の人は秦の国にとっては反逆者である商鞅を逃すのは不可として、商鞅を秦の国へ送り返してしまった。

商鞅は秦の国へ入ると、自分の領地へ戻り、そこから北へ向かって単独で兵を発し、鄭(てい)の土地を攻めた。しかし、現在、商鞅が戦っているのは、他ならぬ商鞅自身が発展させて精強に仕立て上げた秦の国だ。秦は兵を発して商鞅を攻め、鄭の黽池(べんち)と言う土地にて商鞅を殺してしまった。公子虔つまり秦の惠王は商鞅を車裂きの刑に処して「商鞅のごとき反逆者が出ぬように」と述べた。そして、ついに、商鞅の一族を皆殺しにしてしまった。

 

 

逸話、伝説、評価

①司馬遷(しばせん)による評価
「史記」の著者である司馬遷は、商鞅を以下のように評している。

「商君はその元来の気質が薄情だったのだろう。孝公に帝王の術を語ったのは、彼の本質に見合った事では無かった。しかも、孝公に渡りを付けた方法はお気に入りの家臣を手づるにする事だった。彼が公子虔を刑に処し、魏將卬を欺き、趙良の言を師としなかった事もまた、商君の情が温かさに欠けていた事を示すに足る。私はかつて商君の記した開塞や耕戰の書を読んだ事があったが、その内容は彼が行った事に似ていた。彼が秦にて悪名を受けて命を失ったのも、それがためであったのだ」

司馬遷は商鞅の法治主義による功績にはほとんど触れず、ひたすら商鞅個人の温情の薄さを責めているようだ。中国では精神性が重んじられやすく、法治主義と対になる徳治主義と言う言葉があるくらいだから、尚更、商鞅のような合理主義は評価されづらいのかもしれない。

②法治主義の優れた先駆者
司馬遷は商鞅について、以下の言葉も述べている。

「商鞅は衛を去って秦へ行き、その道を明らかにする事で、孝公を覇者たらしめた。秦の国は後の世まで商鞅の法を守った」

つまり、秦の国は商鞅を処刑してしまったが、商鞅が遺した国家体制はそのまま受け継いだのだ。それが秦の国を軍事的な先進国とし、ついには、大陸を統一するに至ったと言える。とは言え、秦帝国は商鞅の過剰な全体主義や過酷さまでも受け継いでしまったかのようで、僅か十九年で反乱によって滅びてしまった。しかし、その優れた制度は秦を倒した漢帝国に受け継がれた。そして、それから約二千年の後になっても、法治主義は国家を治めるための基礎として、世界中にて大いに受け入れられている。

 

 

まとめ

商鞅の政策は極めて合理的かつ先進的だったと言えるだろう。自国の公子を処罰した事自体は法治主義としては、むしろ英断であり、魏国の公子を騙し討ちにしたのは兵法家としてはむしろ有能とも言える。

趙良の言を受け入れなかったのも、災いが自身に降り掛かる事を覚悟して改革に邁進していたからかもしれない。商鞅ほどの知恵者が自身が背負っている将来の危険を全く認識していなかったと言う事が有り得るだろうか。英雄や傑物は保身を捨てて困難に立ち向かったからこそ歴史に名を残したとも言える。保身を優先するだけならば常人にも行う事が出来る。

秦の公子が商鞅の政策を真に理解し、身を慎む事が出来る器であったとしたら、商鞅の運命は違っていただろう。商鞅は己が作り上げた法治国家の完遂のためにその身を捧げた英雄と言える。

 

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