歴史

戦わずして勝つがモットーの『宇喜多直家』は暗殺と謀略が十八番の戦国三大梟雄。

宇喜多直家について調べたので記事にしたいと思う。

その能力の高さからKOEIの信長の野望シリーズでも京都以西を制圧した際には配下にしたい武将の1人だが、直家にまつわる逸話の種類からゲームの中でも野望や反骨的なパラメータが非常に高く、扱いに困る名将である。

登用して間もない時期や忠誠度が低い状態で敵国と隣接した国に置いたり、合戦にだしたりすると寝返る可能性があるのだ。そうなると能力の高さが仇となり、強力な戦力が敵に生まれることになってしまう。

そんな宇喜多直家にまつわるエピソードなどについて書いてみたい。

 

略伝

宇喜多 直家(うきた なおいえ、1529年~1582年2月1日、享年:53歳)は別名を三郎右衛門尉、和泉守(通称)、謀聖(渾名)といい戦国時代~安土桃山時代にかけて活躍した名将である。生まれは岡山県瀬戸内市邑久町豊原と言われるが定かではない。官位は従五位下、主君は浦上宗景→毛利輝元→織田信長と変わっている。

備前守護代浦上家の家臣であったが1531年or1534年に祖父が政敵の島村盛実らによって謀殺されたため、放浪の中で幼少時代を過ごした(年は定かではない)元服後に浦上家に出仕し、祖父の復讐を果たすために島村盛実を暗殺したのを初め、策略で次々と功績を上げる。

1544年に初陣を飾り1566年には三村家親を暗殺する。1570年には石山城主の金光宗高を切腹に追い込む。毛利家と結んで謀反を起こし1575年、天神⼭城の戦いに勝利し浦上氏を追放。主君浦上宗景を追放して戦国大名となった。1578年には浦上氏の残党を退ける。

その後は備前のみならず、備中や美作にまで勢力を広げている。1579年、隆盛を誇った織田信長へ臣従。1582年2月1日に53歳で亡くなった。(実際には1581年末頃との説あり)

備前国の戦国大名で斎藤道三や松永久秀と並んで戦国三大梟雄と言われる。(三大梟雄については宇喜多直家ではなく北条早雲であるとする説もある)

また直家は中国三大謀将の一人でもある(他2将は尼子経久、毛利元就)なお、3人の中でも特に暗殺を多用した人物であった。

謀将と梟雄の2つの名を持つ宇喜多直家は、ザ戦国乱世の武将と言える。

 

功績よエピソード

①生い立ち
宇喜多氏は元は備前を治める浦上氏の家臣の家系である。京都南禅寺の僧・九峰宗成が書いた『宇喜多能家画像讃』によれば、宇喜多氏は備前地方の名士で、直家の祖父・能家は備前守護代浦上則宗、宗助、村宗の三代に渡って仕えた股肱の臣であると言う。

宇喜多直家は、祖父・能家が家中での権力争いに巻き込まれて、不仲であった同僚の島村盛実に攻められ自害させられたことで、父・興家とともに命からがら逃げ延び、6歳(3歳との説もあり)にして、城を追われての放浪生活を送るという不遇の幼少期を過ごすことになった。

商人のもとに身を寄せるなどしながら過ごす放浪生活の中で、父をも失ってしまうのであった。成人する頃になると直家は帰参を許されて、浦上宗景に仕えるようになった。そこから直家は、初陣で早速手柄を上げるなど目立った活躍もあり、すぐに頭角を現しはじめるのであった。尚、盛実は能家を葬って以降は、浦上家内で権勢をふるっていたものの、直家が盛実に謀反ありと疑いをかけ死に追いやり、祖父の仇を討ちに成功している。

②日本初、銃による暗殺
宇喜多直家の領地の隣・備中を治める三村家親とは、度々戦うもなかなか勝てずにいた。

そこで、直家は策を講じた。浪人の身であるものの射撃の名手である遠藤秀清、俊通兄弟に声をかけ、家親を狙撃させるという当時としては前代未聞の日本初の銃を使用した暗殺作戦を決行するのであった。

見事に遠藤兄弟による狙撃は成功し、家親の暗殺も成功。暗殺を前に直家は、遠藤兄弟に対して、万が一のことがあった場合には、遠藤の家族のことは引き受けるので安心するよう約束していたと言うエピソードも残っている。結果としては、遠藤兄弟は任務を全うした功績から浮田姓を与えられて、直家と後には息子・秀家にも仕えることになる。

③下克上成功
浦上家中で着実に力をつけていった宇喜多直家は、密かに毛利氏と手を結び、下克上の機会をうかがっていた。

主君・浦上宗景に反旗を翻した直家は、一度目は降伏して許されている。しかし、直家はその後も虎視眈々と次なる機会をうかがい、宗景の兄の孫に目をつけ、本来ならこちらが主筋であると主張し、彼を擁して挙兵。今度こそは失敗しないように念入りに策を練っていた直家は、事前に宗景の配下の者たちに調略を巡らせ、離反させるよう画策。

重臣の離反もあったことで、宗景の力を削ぐことに成功し、播磨へと追いやる。当然、浦上家中の者から反撃されることもあったものの、数か月ごしの攻防の末に旧浦上勢力を領土内から追い出したのであった。こうして、直家は浦上氏から独立して、戦国大名の地位を獲得したのであった。

④宇喜多家の興隆は、信長と秀吉のお陰?
宇喜多直家が戦国大名としての地位を確立するに至ったキーマンが織田信長と豊臣秀吉である。直家が、浦上氏を追い落とそうとしていた頃、信長は秀吉に命じて、中国地方平定に乗り出していた。当初は、信長に抵抗する姿勢を見せていた直家ではあるが、信長有利と見るや態度を転換。毛利と手を切って、信長に従う姿勢を見せるのであった。

当然、織田方も直前まで毛利方であり、かつ数々の謀略を巡らせてきた直家をすぐに信用することはなかった。秀吉が仲介役として奔走したことによって、信長の息子・信忠に直家の名代として従兄弟が謁見することを実現できたために、活路を見出すことができたのである。

その後の直家は、秀吉軍下で毛利方と最前線で戦った。この働きにより信頼と実績を得たことにより、息子・秀家の代まで宇喜多家は秀吉の引き立てを受けて無事に存続することになったのである。

⑤最期
生涯、数々の暗殺や謀殺を繰り返した宇喜多直家の死は、意外にも自領の城での病死であった。

『武将感伏記』の中には、病が重篤になり死期を悟った直家が弱気になったのか、家臣に対して「誰か自分が死んだ際には殉死してくれるだろうか」と問うたと言われている。

その時、戸川秀安という家臣は「人には向き不向きがあります。自分は戦はできますが殉死はできません。死んでも地獄に落ちるしかありませんから。死出の旅路の供が欲しいのならば、家臣ではなく僧侶でも頼んだ方が良いのではないでしょうか」と一蹴したそうである。

これに対して直家は怒るでもなく「気が動転していたようだ、悪かったな」と応じたというエピソードが残っている。結局、直家は、病が悪化し下血が止まらずこの世を去るものの、後を継いだ幼い息子・秀家を宇喜多三老と呼ばれる古参の重臣たちや直家の弟・忠家らが裏切ることなく支えたことで、その後も宇喜多家は存続することになる。

 

逸話、伝説、評価

①美少年を送り込んで暗殺
宇喜多直家は、難攻不落言われた城を落とすために、城主の性質を利用した作戦で陥落させている。

龍ノ口城は難攻不落の城として知られており、城主である穝所元常は勇猛な武将として名高い人物であった。できれば、正面から戦うことは避けたいと考えた直家は、謀略をもって臨むのであった。

そんな直家が選んだのは、色仕掛け。男色という噂のある元常の元へ美少年の刺客を送り込むという作戦を決行したという逸話が残っている。直家は、出会いの演出から開始。美少年の小姓に川辺で笛を吹かせ、元常の眼に留まるように仕向け、予定通り刺客である小姓を元常のもとへ送り込むことに成功。やがて小姓は、側に常に侍るほど元常の寵愛を受けるようになったのだとか。

そして、酒を飲んで寝入った隙に小姓は、見事に元常の殺害に成功。
戦上手と言われた元常は、直家のシナリオ通りに戦にも出ぬままに暗殺されてしまったそうである。

②婿同士を争わせて敵を減らす
松田元輝、元賢父子と浦上家の和睦を取り付けた後、宇喜多直家は元賢に娘を嫁がせている。また、松田家家臣・伊賀久隆には、妹を嫁がせている。

後に松田氏が戦の際に、直家へ援軍を出さなかったことで、松田氏と直家の関係は不穏なものとなる。そこで直家は久隆を寝返らせ、松田父子の城を包囲し攻撃させる。これにより元輝は射殺され、元賢は討死。元賢の妻となっていた直家の娘は自害。久隆もまた、後に直家の他の妹の婿(久隆との関係は義兄弟)に毒殺されている。

こうして、目障りな者は自分の手は汚さずに始末する。これこそが直家が戦国三大梟雄にあげられる所以であろう。

③言いがかりをつけて謀殺
直家の家中には、三村氏(襲撃により暗殺済)に仕えていた金光宗高という人物がいた。

宗高は石山城(後の岡山城)の主であるが、直家は石山城を拠点に城下町を作りたいと考えており狙っていた。そこで、直家は宗高に対して毛利と内通しているという言いがかりをつけて、切腹させる。こうして目的の石山城を手中に収めた直家は、大改修して城下町の整備を始め、今日まで続く岡山城下の発展の礎を築いたのであった。

④豊臣秀吉との関係
宇喜多直家は、豊臣秀吉に対しては恩義を感じていたためか、誠心誠意尽くしていたと言われている。これに対して秀吉も、直家亡き後わずか10歳であった息子の秀家に家督を継ぐ段取りつけたり、自分の「秀」の字を与えるなど厚遇し、猶子にもしている。後には、養女にして溺愛していた豪姫(前田利家の娘)と秀家を結婚させている。幼馴染のように育った二人は複数の子にも恵まれ仲睦まじかったと伝わっている。

この豪姫との縁組によって、秀家やその息子たちが関ヶ原の戦いに敗れて八丈島に流刑となった後にも、豪姫の生家である加賀の前田家を通じて仕送りが届けられ続けることになる。前田家からの仕送りは、徳川の世が終わった明治時代まで続き、子々孫々まで支えることになった。

⑤一人で事に当たるな
直家を形容する言葉として残るものは悪逆暴戻、逆臣、資性奸佞、獅子身中の虫などいうヒドイものばかりである。直家と血を分けた弟の忠家でさえ、晩年の述懐にて「兄はとても恐ろしい男でだった。腹黒く、何を企んでいるか分からなかった。

それゆえ兄の前に出る時は、必ず衣服の下に鎖帷子をつけたものだ」と語ったという。直家がいかに凄味のある男であったかがうかがえるエピソードである。そんな直家は周りを用心深くさせるのはもちろんだが、本人はその何倍も用心深かった。何しろ自身が謀略を尽くしているのであるから当然だ。直家は何をするにしても、担当者を2人配置するなどして、必ず万全の態勢をとって事にあたるようにしていたのである。

⑥人物評
息子・秀家が幼くして跡を継いだ後にも、宇喜多直家の家臣たちはよく補佐し、無事に存続したこと。暗殺や謀殺によって戦をすることなく勝ち、家臣を粛正することはなく、時には家臣と共に耕作に励み、自ら節食して兵糧を蓄えたという逸話も残っていることから、部下からは慕われていたようである。

また、姻族を謀殺し、嫁いだ者は多数自害している直家ではあるが、弟・忠家に対しては信頼を寄せていたと言われている。数多くの謀略を用いる一方、策謀の対象とした敵を手厚く弔い、暗殺の実行者を使い捨てず厚遇するなど、穏やかで極めて理知的な一面も持った人物であったようである。

 

さいごに

戦国三大梟雄と言われる宇喜多直家であるが、暗殺や謀略を駆使して可能な限り戦わずして勝つという姿勢を貫いた武将であった。

戦わずして勝つと言えば孫子兵法の極意でもあるが、やはり分かり易く大衆が憧れるのは真田幸村のようなタイプだと思う。

直家のように謀略を駆使して勝利するタイプというのは玄人が好むのであって万人ウケするタイプではないかもしれない。しかし、無駄な戦力を失わぬようにしたことで、有力で有能な家臣団は死後も次世代を支えることが出来ており、近年では直家への評価が見直される動きもある。

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