歴史

黄巣の乱を制した鴉兒軍の将『李克用』は、元祖独眼竜の豪傑。

独眼竜と聴けば、10人中10人が伊達政宗を思い浮かべる筈だ。私もそうだった。しかし、中国唐の時代に活躍した『李克用』を知ったら変わるかもしれない。それほどの大豪傑である。

中国史に名を刻んだ武のカリスマ『李克用』をご紹介したい。

 

 

略伝

李克用。中国唐の時代(西暦618~907年)末期の将軍にして、五代十国時代(西暦907~960年)の後唐の始祖。克用は諱。本姓は朱耶(しゅや)氏。謚は武皇帝。廟号は太祖。異名は独眼竜。生没年は西暦856から908年。黄巣の乱を鎮圧した事で名高い。唐王朝滅亡前後の時代に宿敵朱全忠と争い、その途上にて病没。死に際して息子に三本の矢を与えて復讐を託したと言われる。

 

 

功績とエピソード

①父に従いて雲中へ往き、段文を排して朝廷を怒らす
大中十年丙子(ひのえね)九月二十二日、朱耶克用は父である朱耶赤心の第三子として産まれた。十五歳になると、唐王朝に仕える父に従って龐勲(ほうくん)の討伐に参加した。その際、克用は鋒を摧き陣を陷とし,諸將の中で最も優れており、軍中にて「飛虎子」の異名を取った。賊を平らげると、父は功績によって振武節度使の地位を与えられ、また、国姓である李を与えられ、名を国昌とした。故に、朱耶克用の名も李克用となり、雲中郡の牙将(副将)となった。

雲中へ居る時、李克用は別館へ泊まり、妓女(ぎじょ)を抱いて酔って寝ていた事が有ったのだが、そこへ子供の侠客が刃を持って現れ、李克用を殺そうとした。その子供は(李克用が居る)密室へ突入したが、帷の(とばり)中が烈火のように激しく輝いて見えたので、驚き乱れて逃げ出したと言う。また、ある時、韃靼(だったん)の者が空を飛ぶ二匹の大鷲(わし)を指差して、「公は一発で中てられるか」

と、言った所、李克用は即座に弩弓で矢を発し、二匹の大鷲を連ねて貫いたので、韃靼人は平伏したと言う。

さて、乾符三年(西暦876年)、朝廷は段文楚と言う者を雲州へ送り込んできた。その年、雲州は飢餓が進んでいたのだが、文楚は軍の食糧の支給を減らしたので、諸軍はその吝嗇((りんしょく)ケチ)を怨んだ。李克用は雲中の辺境を監督する将軍となったが、部下は争って軍の食糧不足を訴えてきて、大勢の有力者が李克用を擁立せんとして雲州へ入り、かつ、一万人の集団が集まった。そして、段文楚を罪人のように枷(かせ)を付けて追い出し、外の勢力と相対した。諸将はその状況を聞くと、揃って李克用に統帥権を与えるよう要請したが、朝廷はそれを認めず、諸々の道兵を動員してこれを討った。

こうして、結局、李克用は父と共に唐軍と戦う事になってしまった。ある時、吐渾(とこん)族の首領である赫連鐸(かくれんたく)が夜に攻撃を仕掛けて包囲してきたが、李克用は兄弟三人と共に四面の賊に応じ、その間に父が速やかに撤退。自らは吐渾を敗退させて軍勢を振るわせた。それに対して、朝廷は昭義節度使李鈞(りきん)を送り込んできた。李釣は幽州の李可挙と会し、赫連鐸と同時に李克用らを攻めてきた。対して、李国昌と李克用はそれぞれ一軍を以って李釣を拒み、李克用は遮虜城に拠った。この時、冬の大雪に見舞われ、李釣らの軍隊は、弓や弩の弦が折れ、寒さに苦しめられ、結局、戦いに臨んで大敗し、代州へ逃げ帰り、李釣はその最中に流れ矢に当たって命を落とした。

このように、李克用の軍は善戦していたのだが、改元して、広明元年(西暦880年)春になると、天子の命により、李涿(りたく)を元帥として数万の兵が代州へ駐屯し、やがて、大軍を率いて攻め込んできた。李克用は迎え撃ったが、父である李国昌が不利に陥ったので、結局、達靼賊の許へ落ち延びる事になってしまった。

それから数ヶ月の間、李克用らは現地へ滞在したが、そこへ赫連鐸が密かに遣いを送ってきて、達靼の者に賄賂を贈り、それによって李国昌から離間させようとしてきた。それによって、少しずつ疑いや拒む態度が生まれてきたのだが、それを知った李克用は現地の豪族らを野へ集め、その毎に、あるいは、馬に鞭打って馳(は)せつつ百歩の距離を射ち、あるいは、針のように細い葉を矢の的にしたのだが、命中すること神の如し。故に、部族の者らは李克用に対して心から平伏し、あえて密かに襲う事をしなかった。

②黄巣、乱をなして暴威有り、朝廷、克用を許して討伐を命ずる
こうして、李克用は達靼の者らの心を掴んだのだが、その頃、唐王朝は黄巣の乱によって滅亡の危機にあった。李克用は祭りの際に部族の首領と食事を取っていたのだが、酒を楽しみつつ語って曰く、

「我ら父子は賊臣の讒言(ざんげん)によって国に報いる事が出来ずにいる。今、聞くに、黃巢が北上して江を犯しておるから、淮(わい)は必ず中原の患(うれ)いとなる。(我らに対して)天子が一日にして宥免(ゆうめん)して征伐の詔を(みことのり)くだされば、公らと共に南へ向かって仆(たお)れる事で天下を定めたい。これが我(わ)が思いだ。人生世間の光陰は幾ばくぞ(人生は短い)。どうして砂丘の中にて老いて終わる事が出来ようか。公らも勉(つと)める事だ」

この後、達靼の者らは李克用に気を遣う事が無くなり、皆、釈然として付き合いを隔てる事が無くなった。

こうして、李克用が達靼族との絆を深めている間にも、黄巣軍は山津波の如く侵攻を続けており、ついに、唐の都である長安を犯すに至り、天子は蜀の(しょく)地へ避難した。唐王朝はもはや国家としての形を失っていたと言えるだろう。

一方、天子から賊の討伐を命じられていた陳景思に加えて李友金と言う者が諸部族の兵士五千騎を率いて南のかた長安へ向かっていた。李友金とは李克用の族父だ。彼らは募兵して半月の間に三万の兵を集めたが、優れた指導者が居ないために、兵らは軍法を守らず制御不能に陥った。友金はこの事態を収めるために、景思に対して、李司徒父子、つまり、李克用たちの罪を許して呼び寄せるよう要請した。景思は了承し、その旨を天子に奏すると、天子は李克用を雁門(がんもん)節度使に任命し、賊軍の討滅を重ねて命じた。

李友金がその詔を李克用の許へ届けると、李克用は即座に達靼の諸部族一万を率いて出撃した。そして、ようやく、長安の近くまで進軍した。そこには勤王の軍勢が雲の如く集結していたが、依然として賊の勢いが激しいため、あえて争う事を避けていた。しかし、李克用がやってくると、賊軍の将軍らは相謂(い)いて曰く、

「鴉兒(あげい)軍が来たぞ。まさにその鋒を避けよ」

つまり、李克用の軍勢は黒い衣装を纏っており、その姿が鴉の(からす)ようだったので、鴉の子つまり鴉兒との異名を取ったようだ。先だって、李克用は黄巣側から多額の賄賂と偽の詔を受け取っていたが、李克用は賄賂については諸将に配り、偽の詔については燃やしてしまった。それでも黄巣軍は十五万の軍勢を布陣させたが、翌日、大軍による合戦を行うと、昼から夕方に及ぶに、黄巣軍は大敗し、賊の集団はその夜には華州へ逃げて立て籠もった。李克用は進軍してこれを包囲したが、黄巣の弟である黃鄴と(こうぎょう)黃揆(こうき)が守りを固めてきた。しかし、一ヶ月後に救援が来ると、一万あまりの兵を率いて逆襲し、黄巣軍を大敗させた。さらに進軍すると、翌日、黃揆は華州を捨てて逃げ出した。そして、四月には、黄巣は長安へ火を掛け、残っている兵を収めて東へ逃げ去った。

こうして、李克用は黄巣軍を大いに覆滅させた。李克用は長安を占領したが、その軍勢が甚だ(はなは)雄々しかったので、諸侯の将軍は皆これを恐れた。李克用はわずかに眇((すがめ)片目が悪い。または斜視)だったので、その時、李克用は「独眼龍」と号された。

③天下へ大いに覇を示すも、朱全忠逆らいて相争う
その後も、李克用軍による猛烈な追撃の前に、黄巣軍はさらに大敗を重ね続け、ついには完全に滅び去った。もはや、李克用は天下人も同然の立場になったかのようだ。しかし、その揚々たる前途の前に思いがけない梟雄が現れ、李克用の足を絡め取り始めた。その者の名は朱温と言う。朱温は元々黄巣軍に所属していたが、途中で見切りを付けて官軍に投降した。この時、天子は蜀の地に居たが、朱温が味方になった事を知ると喜び、「これ天が予に賜ったものなり」と述べたと言う。天子は朱温に左金吾衛大将軍と河中行営副招討使の地位を与え、さらに、「全忠」の名を賜った。この事は天子にとっては僥倖だったのかもしれないが、李克用からすれば、自分が主力となって黄巣軍を撃滅したのに、賊軍から寝返ってきた男が盗み取るように異様な出世を遂げていたのだから良い気分では無かっただろう。しかも、朱全忠は長安から東へ移動してきた黄巣軍におびやかされていた時に、李克用に助けを求めて救われていたから、李克用からすれば全く同格とは認められない相手と言えた。

それだけならまだしも、朱全忠は到底許し難い謀略を李克用に仕掛けてきた。ある日の夜、朱全忠は李克用を宴席に招待し、全忠自ら克用を接待した。克用は酒を楽しみ、たくさんの妓女を侍らせ、全忠と握手さえした。しかし、全忠はもとより克用を忌々しく思っていたから、宴の後に、密謀を巡らせ、逃げ道を塞いだ上で、伏兵を以って克用を暗殺しようとした。全忠が差し向けた兵隊らの迫る音が耳を騒がせ地を動かしたが、克用の方は大いに酔っており、敵襲に対しても眠ったままだったので、傍の者が水を掛けて、

「汴帥謀害司空!(全忠が貴方を謀殺!)」と、叫んだ所、克用は目を見張って起ち上がり、弓を引いて抗戦した。

しばらくすると、煙火が四方を覆い、大いに雨が降り、電が震えた。結局、克用自身は本営へ帰還する事が出来たが、監軍の陳景思と大将の史敬思が殺されてしまった。克用は劉夫(りゅう)人と相向かって慟哭した。翌日、克用はこれを詰(なじ)り、全忠を攻めようとしたが、夫人が止めたので撤退し、代わりに馬を走らせて全忠に檄文を送り付けた。

しかし、全忠は、「闇討ちの夜に御身が討たれる事が無かったのは当然であります。これは朝廷から派遣されてきた天子様の使者が牙將たる楊彥洪(げんこう)と共謀した事でございます」と、責任を他の者に押し付けつつ李克用の機嫌を取って言い訳したが、無論、それで李克用が納得する訳が無い。こうして、李克用と朱全忠は同じ朝廷に仕える身でありながら宿敵となったのだった。

④克用、子に三本の矢を示して没し、存勗、父の遺志を継いで雄飛する
李克用の天下を巡る争いはこれより後も延々続いたが、李克用は齢五十三に至ると病によって亡くなってしまった。

一説によると、李克用は臨終の際に、三本の矢を息子である存勗に渡して曰く、「一本の矢は(裏切り者の)劉仁恭を討つためのものだ。汝は先に(仁恭の本拠地である)幽州を下さずして、江南への侵攻を図るな。一本の矢は契丹を撃つためのものだ。まさに、阿保機(あぼき)と吾は手を取り合って同盟し、兄弟の契(ちぎ)りを結び、唐家社稷を復興せんと誓ったのに、今、約定に背いて賊に附いておる。汝、必ずこれを伐(う)て。一本の矢は朱温を滅するためのものだ。汝が吾(わ)が志を成し得ば、死んでも憾まず!」

克用の死後、存勗は三本の矢を父の廟の庭へ蔵したが、劉仁恭を討つに及ぶと、幕吏に命じて少牢(儀式用の供え物)を以って廟に報告し、一矢を請い,錦の袋を以って盛り、使者はまさにこれを親しく負って前驅した。そして、凱旋の日,首を刎ねた捕虜を付随させて矢を太廟へ納めた。そして、契丹を征伐し、朱氏を滅した際にも同じようにしたと言う。

 

 

逸話、伝説、評価

①独眼竜の元祖
約七百年後の日本に存在した、戦国大名の伊達政宗は李克用と同じような隻眼であったので、後世、「独眼竜」と称された。

②三本の矢の元祖
日本の戦国時代には、毛利元就が臨終に際して、三人の息子に対して三本の矢を渡し、兄弟が協力して家を守っていくよう説いたと言う伝説が有る。これもまた李克用の影響かもしれない。

③李克用の性格
一説によると、李克用の性格は「殺す事を喜び、左右に仕える者に小さな過失が有っただけで必ず死罪にした」と言う。この説から察すれば、李克用の個人的武勇ならびに将軍としての才能は卓抜であり、豪傑同士の素朴な交わりを通ずる事は出来たが、他の人種相手には野獣の如き振る舞いを行って人望を失いがちだったのかもしれない。李克用が圧倒的な武力を有しつつも天下を収められなかったのは、朱全忠の存在のみならず、己自身の凶暴さに原因が有った可能性がある。

④『旧五代記』
『旧五代記』の編者は李克用の評として、「もし、後継ぎの子が英才で無ければ、どうして興王の茂業が有っただろうか。いわんや、その累功積德は周の文王と比べるには及ばず、その創業開基はなお魏祖(曹操)に欠ける。「武」と言う名前を追って謚されたのも、また、幸運な事だったのだ」と、厳しい論調で述べている。
 

まとめ

賛否がある評価とはいえ、李克用の報国の大志と武勇が有ればこそ、唐末の大乱は収められ、唐王朝はわずかながらも命脈を伸ばす事が出来たと見なせる。また、李克用が築き上げた基盤があればこそ、跡継ぎである存勗の才能が大いに開花できたとも言える。

その評価を踏まえれば、「李克用の武は楚の覇王(項羽)に近く、その功業は魏の太祖(曹操)に近い」と評するのが、稀代の大豪傑には相応しい。

 

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