歴史

今孔明と呼ばれた『竹中重治』は武闘派?稀代の天才軍師の実態。

今孔明というのは、竹中重治(竹中半兵衛)の息子である竹中重門が書いた豊鑑にみられる記述で存命中に呼ばれていたわけではない。この書は重治が亡くなってから、重門が父・半兵衛の友人・知人から伝え聞いた話を筋立ててまとめた伝記である。

さらに今孔明という言葉を広げたのは絵本太閤記』である。この書では「重治=孔明」と思わせるような内容になっている。天才信長の下で飛躍的に出世した秀吉が『半兵衛のがいた時は、何一つ怖いものはなかった』という言葉を残している。

36歳という若さで惜しまれながら亡くなった天才・竹中重治をご紹介したい。

 

略伝

姓名:竹中 重治(たけなか しげはる)
別名:重虎、半兵衛(通称)
時代:戦国時代~安土桃山時代
生没年月日:1544年9月27日~1579年7月6日(享年:36歳)
生まれ:岐阜県揖斐郡大野町 or 岐阜県池田郡片山
主君:斎藤龍興→浅井長政→織田信長(豊臣秀吉)

1544年9月27日:生誕
1556年4月:長良川の戦いにて初陣を果たす
1562年頃:家督を継ぐ
1563年:織田信長軍を退ける
1564年:稲葉山城を占拠し、後に返還
1567年:織田信長が美濃を平定
1570年:姉川の戦い
1577年~:中国攻め
1579年7月6日:播磨三木城の城攻め包囲中に病没

戦国時代の武将。黒田官兵衛と並び「両兵衛」と称される。豊臣秀吉の出世を支えた。天才軍師・半兵衛として知られているが、史実に基づく資料は少ない。

(出典 Wikipedia)

 

功績とエピソード

①生い立ち
竹中氏は、桓武平氏の鎌倉氏庶流と言われており、元は美濃守護の土岐氏の家臣であった。土岐氏が没落すると、代わって台頭してきた斎藤氏に仕えた。竹中重治は、美濃斎藤氏の家臣で大御堂城の城主・竹中重元の子として生まれた。創作物の中では数多く登場する有名人ではあるものの、実は重治の人生に関しては、正式な記録が少なく謎も多い。

②長良川の戦い
美濃国内では、斎藤道三と嫡男・義龍によるお家騒動が勃発。竹中重治は、長良川の戦いでは、道三方として初陣を果たしている。この時13歳であった重治は、不在の父に代わって大将を務め、籠城戦を乗り切ったと伝えられている。

③稲葉山城占拠
竹中重治は、やがて義龍に仕え、後にはその子・斎藤龍興に仕えることになる。
その頃、重治の戦略によって2度退けるも、尾張の織田信長による美濃侵攻は激しさを増していた。龍興は酒や女に溺れ、一部の側近を重用し、重治や有力家臣である美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)らを避けている状態であった。
そこで、重治は部下とともにわずか17人で1日にして龍興の居城である稲葉山城を襲撃して占拠した。

重治による稲葉山城の占拠時、信長は城の受け渡しを重治に対して申し入れがあったものの、重治は「主君を諌めるための行為である」と断ったと伝わっている。約半年程で、稲葉山城を龍興に返還して、重治は隠棲する。重治なき美濃は、信長によって攻略され、斎藤家は滅亡するのであった。その頃、重治は斎藤家を後にして北近江国・浅井長政の客分として、一時的に仕えている。浅井氏のもとでの働きは1年程の短期的なもので、後に辞して旧領に帰っている。

④中国攻め
竹中重治の働きを買っていた織田信長からのスカウトを受け、後の豊臣秀吉の家臣として信長の支配下に入る「与力」扱いで、織田家に出仕していた。信長が毛利輝元が治める山陰・山陽地方への中国攻めを開始した際の総大将に任命されたのが秀吉であった。重治も秀吉に従って中国へ遠征に参加している。中国攻めにおいて秀吉は、重治の調略が功を奏し、宇喜多氏の備前八幡山城を落城させている。秀吉が京都滞在中の信長に報告したところ、称賛を受け100両の報奨金が授けられたと伝わっている。

⑤最期
竹中重治は、中国攻めの最中、播磨三木城の城攻め包囲中に病死している。秀吉からは京都での養生を勧められていたものの「陣中で死ぬのが武士の本望」と断り、最期まで従軍していたと言う。重治が最期に秀吉に授けた兵糧攻め作戦は、後に秀吉の勝利に繋がるものであった。

 

逸話、伝説、評価

①人物像
竹中重治の活躍は、嫡子・重門による『豊鑑』の他に、『武功夜話』、『太閤記』などに登場しており、江戸時代には黒田官兵衛とともに講談で描かれ、今日においては天才軍師のイメージが定着している。

しかし、重治存命中の『信長公記』などでは記述が少なく、残されている資料もあまりないので実態は謎が多い。雇用状態としても、秀吉の正式な家臣であったという証拠がなく、一時は浅井氏のもとに身を寄せていた経緯もあって姉川の戦い頃に織田家から秀吉につけられた与力の一人であるという説が強い。

重治は『太閤記』や『常山紀談』によれば、体が弱く痩せ型で女性のような容姿であったそうである。そのため、斎藤龍興や寵臣たちからは軽んじられていたそうで、斎藤飛騨守からは顔に尿をかけられるという侮辱まで受けたとの逸話も残っている。事件の数日後に重治は、武器を隠し持って稲葉山城に向かい、宿直部屋にいた飛騨守を斬殺して城を乗っ取ったと伝わっている。

②軍師・半兵衛
竹中重治が斎藤家に仕えていた時代、2度に渡って織田信長軍による侵攻を受けているが、重治の巧みな戦略により両方とも撃退に成功している。重治は、美濃に侵攻してきた織田信長を「十面埋伏陣」という独特の戦法で撃退した。

十面埋伏は、三国志で曹操の軍師・程昱が、また項羽と劉邦の戦いで劉邦方の韓信が項羽を四面楚歌の状況に追い詰めた戦法としても知られているものと類似した作成であったとも言われている。このような古代の戦法を熟知して、使いこなしていたことからは、重治が天才軍師として後に語られる一因であると考えられる。

③豊臣秀吉との関係
かつては敵対関係にあった織田信長ではあるが、竹中重治の働きには注目しており、勧誘を命じられた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、三顧の礼で重治を迎え入れたという逸話が残っている。

三顧の礼は『三国志演義』の中で、劉備が諸葛亮を味方したシーンのもので、目上の者が格下の者のもとに三度出向いて依願することである。この逸話も重治が日本版の諸葛亮のような天才軍師像として扱われる所以であろう。秀吉のもとで重治は、軍師として活躍して、秀吉は数多くの戦功を上げることに成功しており、秀吉の出世に欠かせぬ人物であった。

また、長篠の戦いでは秀吉の窮地を救ってもいる。竹中一族の系図『竹中家譜』には、長篠の戦いについての記録が残されている。戦いの最中、武田方の一部が左側に移動したため、横から襲われると考えて焦った秀吉は迎撃しようと兵を動かしたと言う。しかし、重治はこれを陽動だと読んで、動かなかったと言う。結果、重治の読みがあたったことで、秀吉は無事に戦いを切り抜けることができている。

④黒田家の窮地を救う
荒木村重が織田信長に対して反旗を翻した有岡城の戦いでは、秀吉は村重と旧知の仲である黒田孝高(官兵衛)に村重を説得させるべく派遣したものの、孝高はそのまま城に幽閉されてしまう。孝高が村重に加担したと思い込んだ信長は、人質としていた孝高の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の処刑を命じたのであった。

しかし、竹中重治は孝高の裏切りはないと考えていたため、秀吉に対して、松寿丸を自分の部下の屋敷に匿い、信長には偽者の首を提出して、松寿丸の命を助けるよう提案したと言う。有岡上の陥落によって何とか救出された孝高は、殺害されていたはずの息子が、重治の家臣・不破矢足の屋敷に匿われていたため無事であったことに心から感謝したというエピソードが残っている。

この時、重治はすでに病によって亡くなっていたものの、重治への深い感謝の気持ちを込めて、黒田家の家紋を竹中家の家紋に替えたとも言われている。また、重治への恩義を長政も忘れなかったようで、後に重治の孫にあたる重門の庶子を長政が藩主を務めた福岡藩で雇い入れている。

 

まとめ

竹中重治は、豊臣秀吉の出世を支えた人物あった。重治は現代でも天才軍師として人気のある戦国武将ではあるものの、史料が少なく、その活躍や美談は後世の創作という見方もある。

しかし、主君を恐れずに諫めたり、幼子を匿うなどの行動は、記録に残るようななよやかなイメージとは異なり気骨のある武士であったことがうかがえるエピソードである。

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