歴史

関羽と張飛も敵わない!?北魏最強の男『楊大眼』は、車輪眼の猛将。

長い中国の歴史において武力最強と言われれば、誰を思い浮かべるだろうか?楚の覇王項羽、飛将軍呂布、神になった関羽と万夫不当張飛など多くの名前が挙がるだろう。最強は誰か?というのは興味が尽きない話だが、『楊大眼』は間違いなく上位に入るはずだ。

関羽と張飛が蘇っても勝てない、素手で虎を倒したというような話まで現代に伝わっている『楊大眼』をご紹介したい。

 

 

略伝

楊大眼(ようたいがん)は、中国南北朝時代(439~589年)における北魏の国の武将。極めて勇猛であり、三国時代の伝説的な猛将である関羽や張飛を超えるとすら言われた。主に南の大国である梁との戦いにおいて猛威を振るい、大いに武名を挙げた。506年(正始三年)、仮平東将軍として中山王元英と共に南下し、翌年、鍾離にて梁の軍隊と大激戦を繰り広げるも、梁の名将である韋叡と曹景宗による巧みな陣地構築と迎撃そして水上戦によって大打撃を受けて敗走。515年(延昌四年)、淮堰(わいえん)の役で出陣するも勝利を得られず撤退を余儀なくされる。ついには荊州刺史になったが、その2年後に死去。

 

 

功績とエピソード

①六軍に冠する実力。関張すら敵わぬと評される武勇
中国の歴史において最も有名な時代はおそらく三国時代だろう。とは言え、三国時代から始まる乱世全体の大きさと比べれば、三国時代はその魁に(さきがけ)過ぎない。三国時代の後には晋王朝がわずかな期間成立するも、じきに、漢民族と異民族が入り混じった混沌たる戦乱が巻き起こる。その時代を五胡十六国および東晋と呼ぶが、その後、中国大陸は主に北と南の二ヶ国による戦乱の時代に突入する。この時代を南北朝と呼び、王朝を何度も交代する中で、三国時代を彷彿(ほうふつ)とさせる名将や賢者等を輩出。楊大眼はその中でも特筆すべき稀代の猛将と言える。

楊大眼は武都の氐(てい)族の王だった楊難当の孫であり、優れた肉体能力を有していた。その絶倫たる武勇は「関羽や張飛も楊大眼には敵わないだろう(當世推其驍果、以為關張弗之過也)」と謳われた。また、彼は武勇のみの人物では無く、学問には関わらなかったが、人に書物を読ませ、その内容を全て記憶していたと言う。

やがて、楊大眼は中国大陸の北部を支配する北魏の国に仕え、やがて、孝文帝の南征に参加する。その後も、宣武帝に仕え、直閣将軍、輔国将軍、游撃将軍と、勇ましき肩書きを増やしていき、ついには、征虜将軍となり、東荊州の刺史(施政官)に着任。異民族の首領である樊秀安らの反乱を平定した。その武勇は六軍に冠絶すると言われる。

②彼女こそ藩将軍
楊大眼には自慢の妻が居た。姓は潘氏。名は明らかでは無いが、俗に宝珠と伝えられる。とは言え、潘宝珠は妲己(だっき)や西施あるいは貂蝉を(ちょうせん)連想させるような陶然たる女性では無い。彼女は騎射つまり馬に乗って弓矢を操る事が得意だった。楊大眼も善く馬に乗り、その装束は雄辣(ゆうらつ)だったと言われている。大眼は彼女に軍装させ、ある時は戦場にて共に轡を(くつわ)並べ、ある時は共に林や谷を駆け、幕営へ帰れば妻を同席させた。時の人、これを指して曰く、これ潘将軍なりと。楊大眼と潘宝珠の間には三人の息子が居り、名は長男甑生(そせい)、次男領軍、三男征南と言い、皆、父の気風を有していたと伝えられる。

③鐘離の戦いが起こる
506年、梁の国の王茂と言う将軍が北魏の領内である荊州へ侵攻し河南城を占領した。対して、北魏の国は楊大眼を武衛将軍・仮平南将軍に任命して王茂を討たせた。楊大眼は諸軍を率いて梁の輔國(ほこく)将軍である王花と龍驤将(りゅうじょう)軍である申天化らを討ち取り、捕虜七千人を得る大勝を得た。さらに河南城へ侵攻すると王茂は撤退。大眼は追撃して漢水へ至り五つの城を陥落させた。また、仮平東将軍の称号を受け、別軍として梁の張恵紹を撃破。ついには、勝利に乗じて長躯し、中山王元英と共に、梁が支配する鐘離城へ迫った。元英は今回の南征軍の総大将であり名将として名高い。彼は此度(こたび)の戦では梁の軍隊を次々に撃破して大いに敗走させ、その苛烈なる追撃の果てに鐘離城へ至っている。今や北魏軍は大軍かつ総大将と主将ともに稀代の英傑を揃えている。

鐘離城の北には淮水(わいすい)と呼ばれる河が流れていたので、北魏軍は浮橋によって二本の道を作った。その上で、元英は橋の前方へ橋頭保を作って鐘離城を攻撃し、楊大眼は橋の後方へ城を築いて補給を担当した。一方、鐘離城を防衛するのは昌義之(しょうぎし)と言う将軍だが、その軍勢はわずか三千人ほどでしかなかった。

年が明けて、507年の正月、北魏軍は数十万の大軍で鐘離城に対する攻撃を開始。堀を埋めた後、攻城兵器である衝車を用いて城壁の破壊を狙ったが、昌義之は破壊された部分を泥で埋めて応戦してくる。ついには、衝車が使用不可になってしまった。昌義之は北魏の大軍を苦戦させ、万を超える死者を出させた。かくして、北魏軍は思わぬ大被害を受けたが、それでも元英は攻撃を止めなかった。

二月、北魏の皇帝である宣武帝は元英に召還を命じたが、元英は「今月は霖雨(りんう)(長雨)続きであり、もし三月に晴れたならば、城は必ず陥とせます」として、戦闘続行のための寛大な処置を求め、ここまでの成功を廃する事が無いよう願った。

だが、籠城されている間に、梁の国からは恐るべき援軍が派遣されていた。豫州刺史であり老獪極まりない策士韋叡と、建国の功臣であり勇猛な将軍である曹景宗だ。韋叡は梁建国の際には竹を伐って作った筏に乗って現在の梁の国の皇帝である蕭衍の(しょうえん)許へ参じ、その献策はことごとく採用されたと言われる。鐘離の戦いの時、韋叡はすでに齢六十を超えていたが、「韋虎」と呼ばれるほどの優れた智謀と行動の俊敏さは衰えていなかった。また、曹景宗は騎射の名人であり、すこぶる史書を愛し、司馬穰苴や楽毅と言った古の名将に共鳴する剛毅なる武人であり、皇帝即位前の蕭衍と深く結び付き、梁建国の際にも軍勢を率いて敵軍を壊滅させて武名を挙げている。

梁の援軍の数は二十万。ましてや、その軍勢の一角を指揮するのは韋叡だ。韋叡は機を見るに敏。断固たる意志で強行軍となり戦場へ迅速に到着。さらに、夜の間に、淮水の北側にある北魏の城からわずか百歩あまりの位置にある洲へ入ると、自陣の前へ二十里もの長さの塹壕を掘らせ、鹿角(ろっかく)を植える事で、堂々たる陣容を完成させた。元英は忽然と現れた敵陣を見て大いに驚き、杖を以って地を撃ちて曰く「これ何ぞ神や!」

だが、梁の援軍が対陣した北側の城に居るのは、あの楊大眼だ。大眼はわずか一万騎を率いて出撃。それだけで二十万の大軍であるはずの梁の軍隊は真正面から迎え撃つ事すら出来なくなった。まさしく万人の敵にして、威風凛々、雄壮威猛。勢いは奔馬の如く、発すること巨雷の如きか。楊大眼が関張を凌ぐ武勇を持つと評されたのも故無き事では無い。

しかし、楊大眼を迎え撃つのも稀代の賢者たる韋叡だ。韋叡は戦車を連ねて陣を作ると、包囲の動きを見せる楊大眼に対して強弩(きょうど)二千を一斉に放った。弩とは自動式の弓矢のような武器であり、それを隙間無く一方的に発射したのだから、さしもの楊大眼も超人的な武勇を発揮する機会を得られず、その軍兵をまとめて射殺されてしまった。梁の軍隊が放った矢は楊大眼の右ひじをも貫いた。楊大眼は撤退せざるを得なかった。

その後、元英が韋叡の軍に繰り返し戦いを挑み、夜には矢を雨のように降らせた。韋叡の息子である韋黯(いあん)は父に対して城から退いて矢を避けるよう請うたが、韋叡は従わず、かえって城の上にて笑い声を響かせたため、それまで動揺していた梁の軍隊は落ち着きを取り戻した。かような名指揮官を相手にしては、さしもの元英も戦果を挙げる事が出来ない。かえって、曹景宗が募った千人あまりの決死隊によって北側の城の近くに堡塁(ほうるい)を作られ始めてしまう。楊大眼は堡塁を攻めたが、曹景宗が迎撃してくる。結局、堡塁が完成してしまった。

この時点でも韋叡の将略は絶妙であるが、韋叡はこの決戦に完璧な決着を付けるべく大掛かりな仕掛けを繰り出してきた。韋叡は巨大な軍艦を用意し、馮道根(ふうどうこん)、裴邃(はいすい)、李文釗(りぶんしょう)ら諸将と共に水軍を為し、水位が爆発的に上昇した淮水の上流から進撃を開始。それによって中洲にいた北魏の軍勢を撃滅した。その上で、小船に草を載せ、それに油を注いで火を付け、淮水に掛けられていた二本の橋へ突っ込ませた。

すると、折からの強風によって火が燃え盛り、煙や塵によって日の光が隠れるほどになった。さらに、決死隊が柵を抜き橋を斬り、水は疾く流れる。たちまち、橋や柵は破壊された。馮道根らはみな自ら戦い、軍人は奮って勇を発し、その声は天地を動かすほど。壮大な奇策によって通路を断たれてしまった北魏の軍隊は大いに潰え、元英は橋が絶たれたのを見ると遁走(とんそう)した。大眼もまた陣営を焼き払って撤退するしかなかった。

この戦いによって北魏軍の水死者は十余万に及び、斬首された者の数も同様だった。戦後、韋叡の使者から捷報を受けた昌義之は悲喜こもごも、答えを返す余裕が無く、代わりに「更生! 更生!(生き返った!)」と叫んだ。

かくして、鐘離の戦いは北魏軍の惨敗になってしまった。楊大眼は戦死こそ免れたものの、帰還後、敗戦の罪を問われて一兵卒に降格させられ、営州と言うはるか北方にある辺境の警備に送られてしまった。それはあまりにも無慈悲な仕打ちであるが、それほどまでに鐘離での敗戦が北魏の国にとって痛恨事だったとも言えるだろう。それは三国時代における赤壁の戦いの如く、両国の趨勢に決定的な影響を与えたと見なせるだろう。

④楊大眼の晩年
鐘離の戦いの後、楊大眼は一時没落したが、やがて、復権し、太尉長史に任じられ、仮平南将軍として淮水や肥水を防衛し、梁の国に対する備えとして睨みを効かせた。なお、元英も一時平民に落とされたが、やがて、元の位を取り戻して梁の軍隊を大いに撃破し、ついには尚書僕射(しょうしょぼくや)(宰相)の地位を得た。とは言え、鐘離の戦いの影響は極めて大きかったようで、もはや両国の均衡が崩れるような情勢では無くなっていたと言えるだろう。

楊大眼個人の人生も鐘離の戦いを境に暗い影が差すようになった。前述の通り、一時期、楊大眼は北方の辺境へ送られていたのだが、その間に、洛陽の都にて暮らしていた妻の潘宝珠が別の男と密通していたのだ。それを都の帰還後に知らされた楊大眼は憤怒し、愛する妻を自殺させてしまった。その後、元氏と言う後妻をもらったのだが、彼女は傲慢な性格であり、到底、潘宝珠の代わりになれる器では無かった。

さらに、515年には、淮堰の役によって、楊大眼は蕭宝寅と(しょうほういん)共に梁軍を討つために進発したのだが、勝つ事が出来ず、淮水の上流へ堰を作り、新しい渠(きょ)(排水用の溝)を掘る事によって増水を抑えたのみで帰還。平東将軍となるも、その後の楊大眼は、これまでの慈悲深く涙もろい優しげな性格から変化して、喜怒を激しく表すようになり、鞭打つ事が過剰になり、軍の兵士から恨みさえ買うようになったと言う。度重なる陰鬱な経験が楊大眼の純朴な性格を暴虎そのものに変えてしまったのだろうか。

やがて、楊大眼は荊州刺史になったが、二年後に永眠。その猛威は亡くなる直前まで衰える事が無かったようで、荊州刺史となった際には、常に人を縛り、これを射た上で、領内にいる異民族の頭目らに対して「君らがもし賊を為せば、吾はかくのごとくあい殺して正すなり」と警告した。また、領内へ虎が出没して被害が出た際には、これを退治し、その首を市場へさらした。故に、楊大眼の領内にいた異民族らは、

「楊公(楊大眼)は人を憎み、いつも我らに矢を射かけたが、それには深山の虎さえ免れる事が出来なかった」

と、述べて、ついに、仇なす事をしなかったと言う。

⑤死後、数奇な運命により梁の国へ運ばれる
こうして楊大眼は死去したのだが、直後、楊大眼の遺体はなんと梁の国へ持ち去られてしまう。なぜ、そのような事態になったのか。

北魏の国の歴史書である『魏書』によると、楊大眼の息子である甑生らは、父が亡くなった際、父の後妻かつ義理の母である元氏に対して印綬(いんじゅ)(身分や位階を表す印章の組紐)の所在を問うたが、その時、元氏は懐妊しており、自らの腹を指して曰く、

「開國(かいこく)(楊大眼の爵位)を継ぐ者は私の子だ。お前たちは奴婢(ぬひ)の子ではないか。所望するでない!」

と、罵ってきた。一族の代表である事を示す印章を渡さないと言う事は、一族の実権は自分が握ると宣言しているのと同じ事だろう。ましてや、元氏は甑生らの実母を侮辱したのだ。甑生はこれをもって元氏を深く恨んだ。

やがて、楊大眼の亡骸は葬儀のために故郷へ運ばれる事になり、城から東へ七里進んだ所で宿を取った。そして、夜の二更(午後九時から十一時頃)、甑生らは父の棺を開いた。それを楊延宝と言う者が怪しんで声を掛けてきた。楊延宝は甑生らの実母である潘宝珠の密通を大眼に知らせた人物であり、言わば母の仇だ。三男の征南はこの男を射殺した。元氏はこれを恐れて入水し逃走。征南はさらに元氏を弩弓で撃ったが、甑生は「あに天下に母を害する人あらんや」と述べて征南を止めた。甑生らはついに大眼の屍を(しかばね)取り出し、馬の上へ乗せて抱え、それを左右から挟むようにして出奔した。荊州の人々は甑生らの驍勇を(ぎょうゆう)畏れ、あえて厳しく追い掛けようとしなかった。やがて、甑生らは襄陽へ辿り着き、蕭衍に帰順したのだった。

 

 

逸話、伝説、評価

①三丈の縄を髻へ(もとどり)繋いで走る
楊大眼は単に筋力に優れていた訳では無く、胆力があり、飛ぶように走ったと伝えられている。楊大眼は当時南伐のための官を選んでいた尚書である李沖の許へ出向いて登用を求めたが、李沖は許さなかった。そこで大眼は「尚書は私の事をご存じないですから、ひとつ技をお見せしましょう」と述べ、三丈もの長い縄を自らの髻へ繋いで走った。すると、その縄が空中へ浮かび上がり、矢のように真っすぐに伸びた。馬が駆けてもこれには及ぶまい。そんな大眼の神業を見た者らは驚いて感嘆せぬ事なし。李沖は「この千年の間、かくの如き逸材はおらなんだ」と述べ、大眼を軍主(武官)として用いる事にしたと言う。

②兵士を憐れみ、子供と共に遊ぶ
楊大眼はその勇猛さから恐ろしい怪物のような性格をしていたと思われるかもしれないが、実際の楊大眼は士卒らの許を巡って労わり幼子を呼び、彼らが傷付いたのを見ると涙を流したと言う。また、自らは将軍であるにも関わらず常に兵士よりも先に固く守られた敵軍の列へ突撃したと言われる。

③車輪眼を持つ
楊大眼の目は車輪に例えられた。現代でも一つの目に二つの瞳が車輪のように宿る症状が実在するらしいので、楊大眼の車輪眼もそれと同様の物だったのかもしれない。ある時、王秉(おうへい)と言う者が大眼に対して「南方でも貴方様のお名前は聞き及んでおりまして、車輪の如き目をお持ちだとの事。ですが、こうして見るに、人と異なる所はありませんな」と述べた。すると、大眼は「(戦いにおいて両軍の)旗や鼓を相望むと、怒りの目が奮発するのです。(ですが、この不自由な目では)貴方を充分に見る事が出来ません。何ゆえ車輪のごとき大きな目が必要でしょうか」と述べたそうだ。

 

 

まとめ

楊大眼は超人的な剛勇によって武名を轟かせ、その名は関羽や張飛に比べられた。その武は万人を敵とし、梁の軍隊二十万をたった一万余りの騎兵によって畏れさせた。その威勢は天地を蓋うが如きであっただろうが、敵国である梁には韋叡と言う虎の如き名将がなお生存していたために、その進撃を阻まれ、自軍を壊滅の憂き目に遭わされた。楊大眼は兵を指揮する能力ではなく、個人の武勇が優れている猛将タイプで張飛のイメージが強い。圧倒的兵力で攻めたにも関わらず、梁に大敗してしまった。とはいえ中国史での武力ランキングではベスト10に入る猛将だったのは間違いない。

 

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