歴史

孔明のモデル?明建国の大功臣『劉基』は神算鬼謀の大軍師。

軍師と言えば?という問いや中国史で軍師として有名なのは?という問いに対して、日本人なら『三国志の諸葛孔明』を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。

しかし本国、中国では諸葛孔明と並ぶ、いえそれ以上に人気のある方が劉伯温こと劉基白温である。

天才軍師のイメージを確立させた『三国志演義』の諸葛孔明は劉伯温がモデルになってると言われるほどで人気、実力ともに伝説級の人物だ。

その他、臥薪嘗胆で有名な越王勾践に仕えた范蠡少伯、遠交近攻策を唱え秦の昭襄王に仕えた范雎叔、漢三英傑の一人張良子房、孫子兵法の孫武と孫臏、孫子と並び表された呉子の著者である呉起(呉起またはその門人が著者であると言われる)と長い中国史には多くの天才軍師がいるがその中でもトップクラスの才能と実績を上げたのが劉白温である。

明建国の大功臣である天才軍師『劉基白温』(りゅうき はくおん)をご紹介します。

 

概要

劉基(1311年-1375年)字は白温。青田(浙江省)の人。元王朝末期、23歳で進士に合格して地方官を歴任し、行省元帥府都事を努めたが、上司である括州鎮守の石抹宜孫(回鶻系契丹迪烈部出身、石抹也先の後裔)と衝突して辞任して故郷に隠棲した。南京を陥落させて呉国公となった朱元璋の招きに応じて配下となる。軍師として天下統一を助けた。明王朝成立後も重要な助言をして国の基盤づくりに貢献。その功により誠意伯に封ぜられる。

 

朱元璋の招きに応じる

数多い功臣の中でも戦略計画の策定、朱元璋の功業を補佐したのが劉基である。彼はしばしば漢の三傑である張良と比較されるが役割が似ていたからであろう。
劉基は名家の出身で豊かな教養を身につけていた。

幼い時から経学、歴史、理学を学び天文、地理、兵法、易学にも詳しかったという。

劉基はわずか23歳で元代末期の科挙試験に合格し、行省元帥府都事という、いわば県の副知事にあたる役職に就く。
科挙の平均合格年齢は大体40歳ぐらいと言われていたので20代での合格はよほどの天才でないとできない。劉基はもちろんよほどの天才であった。

やがて方国珍の乱という海賊による大規模な反乱が起きた時、劉基はその討伐の任に就いた。
この方国珍という海賊、元々は塩の密売人をしていて、その経済力はかなりのものがあった。唐滅亡の原因となった黄巣の乱の黄巣も塩の密売人であったが、当時塩は国家の専売品であったため、高値でかつ質も良くなかった。そこで生活必需品を安価でしかも良い質で売ってくれる密売人は庶民に人気があり、経済力もあった。

当時の元の政治は腐敗しきっていて、この方国珍という人物は劉基の上司や中央政府に対し賄賂を贈り、劉基にも当然のように賄賂を贈ってきた。劉基はこれをはねつけ、方国珍の本格的な討伐に乗り出す。

しかし元朝はあろうことかこの海賊に官職を与え、劉基には罰を与える。
こういった具合で清廉潔白な彼には末期の腐敗した官僚社会は合わず三度官職につきながら三度とも同僚や上司と衝突して見切りをつけている。劉基は官職を辞し、田舎に帰って「郁離子」という書物を著し、天下国家のあるべき姿を記した。

この辺りのエピソードに劉基という人間を物語っているように思う。
彼はまさに憂国の士であり、常に天下のことを考えて行動している訳である。この辺りが中国でも人気の理由なのだと思う。

元朝末期には海では先ほどの方国珍が、陸では白蓮教徒による反乱が大規模になっていた。

白蓮教というのは弥勒菩薩を信奉する宗教で、世直しを旨とする仏教の一派と言われているが、その内容はマニ教やゾロアスター教の影響がみられる。特に善悪二元論ともいえる「光と闇」の対立をその教義の基礎となし、朱元璋が光の部分を信奉したので国号は「明」となったのであった。

中国王朝はその成立地で王朝名が決まっていた。例えば益州(四川省)なら蜀だし、荊州なら宋、江東なら呉と言った感じだ。すいった事情から歴史上でいくつか同じ国名が出てくるわけである。

ちなみにKOEI三国志では条件を満たして自分が操作する君主が皇帝につくと国号が決まるが、私は演義の影響で蜀びいきだったので国号も無理やり蜀にしていた。例えば戦略上の理由で君主を洛陽や襄陽においていても即位しそうになったら成都あたりに移動させていた。

そういった状況の中で劉基に目をつけたのが南京で勢力を築いたばかりの朱元璋であった。当時の朱元璋は有能な将軍は抱えていたものの軍師と呼べるような文官サイドの人材は乏しかった。名声があり名家出身で学がある劉基は極貧民の出の朱元璋からすると幕下に加えるだけで箔がつくのだ。

ところが劉基は朱元璋の招きを断っている。劉基は地方の名家出身であり、いくら勢いがあるとはいえ紅巾軍という反乱軍の大将に仕えるのはためらいがあったのかもしれない。(紅巾軍とは元末期の1351~1366年、元を倒し、漢民族王朝を復活するきっかけとなった農民の反乱。白蓮教徒などの宗教的結社が中心勢力となり、紅色の頭巾を用いた。反乱鎮圧後の内乱状態の中で紅巾軍であった朱元璋が明朝を興した)

しかし結局仕えることにしたのは朱元璋の軍の厳正な綱紀にひかれたからだと言われている。天下安寧の希望を託してみる気になったのかもしれない。

 

我が張良子房

劉基が朱元璋と会ったのは1360年3月で朱元璋33歳、劉基50歳の時だ。劉基と朱元璋の関係は良好で劉基がきかせる内容を朱元璋がかしこまって聴くというような関係であった。

劉基は朱元璋の招きに応じると謁見し、「時務十八策」を述べた。それはかつて「郁離子」として編集した内容をまとめたものであったと言い天下国家を大いに語った内容だったという。朱元璋はそれを聞くや「我が張良子房!」と言って大変喜んだという。その後も常に「老先生」と呼んで敬い続けた。

軍師としての劉基は紅巾軍の名目的な首領である韓林児に対して、「牧童に過ぎない。こんな者を奉じてどうなる!」と大喝したり、朱元璋が湖南の陳友諒を措いて、蘇州の張士誠を討とうとした時に諌めて、先に陳友諒を討つべきと進言したりしている。

王者には師傅が必要だと言うのが古来からの中国の認識でった。命令をきく部下だけでは権力は堕落する。時には叱られ教えを受ける師傅のような存在があってこそ大業をなせるというわけだ。

朱元璋にとって劉基を得たことは参謀と師傅の両方を一気に手に入れたようなものである。

劉基は明が成立すると太史令から御史中丞となり、主に綱紀粛正に取り組んだ。しかしそのことで李善長、胡惟庸などの他の家臣からの恨みを買い、朱元璋の耳に劉基の讒言が入る。その中でも劉基は公正であり続け、李善長が罪に問われた時に李善長をかばったりもしている。

その後も讒言は止まず、退官して故郷へ引退した。猜疑心の強かった朱元璋も劉基に対する讒言には「あいつが取って代わる気があるのなら、建国以前にその機会はいくらでもあった」として相手にしなかったがそれでも讒言が続いた。
一度は故郷に帰って隠棲した劉基も嫌疑晴らす為に都に戻ることとなった。都に戻って間もなく病に倒れて亡くなった。
劉基の死後、胡惟庸に対して劉基を毒殺したとの疑惑がかけられ、これをきっかけとして胡惟庸の獄と呼ばれる大粛清が始まる。

明史に次のような記述がある。
「太祖(朱元璋)の張士誠を取り、中原に北伐し、ついに帝業をなせるは劉基の謀の如し」
これは明の正当な歴史評価である。つまり公式に朱元璋が天下をとれて明を建国できたのは劉基のおかげだと記されている訳である。
孔明でさえ陳寿に戦が下手だと書かれたのに、一臣下でここまでの記述がされているのは中華4000年の歴史の中でも劉基だけである。

 

『焼餅歌』の伝説

中国においては劉基は朱元璋と並ぶかそれ以上の知名度を誇っており、李善長や徐達と言った他の朱元璋の功臣達とは比べ物にならない。これには明代の小説や講談に劉基が主役として取り上げられたことが要因としてあり、小説や講談に登場する劉基は予言者として描かれている。劉基によるとされている予言書の中で名高いものが『焼餅歌(中国語版)』(シャオピングー)である。

『焼餅歌』の伝説ではある日、朱元璋が焼餅(シャオピン)を食べていた時に劉基が拝謁を求めて宮中を訪れた。朱元璋は食べかけの焼餅を碗に隠しておいてそれを劉基に占いで当てさせた。このときの劉基の答えは以下のように伝わっている。

「半似日兮半似月。曾被金龍咬一缺。此食物也。」

日のように丸く月のように欠けている。それは金龍が一口齧ったのです。それは食べ物です。

伝説では、この答えに驚いた朱元璋が劉基に懇願して明の将来をも占わせ、劉基はそれに対して暗喩に満ちた詩で占った結果を述べたとされる。そのため劉基が作ったとされる予言詩全体が『焼餅歌』と呼ばれている。『焼餅歌』の解釈本は多数あり、明の将来を越えて遥か未来まで占ったと解釈しているものも多い。それらの中には原子爆弾の発明まで予言したとするものさえある。

劉基自身は儒者であったにも関わらず、このような魔術師的な軍師のイメージが増幅したため、占卜書の著者に仮託されたりした。 劉基の人気は現代でも非常に高く、劉基を主役とした作品が多く作られている。

『三国志演義』の赤壁の戦いの火計の描写は劉基の進言により陳友諒を火計で破った(鄱陽湖の戦い)時の描写を羅貫中が参考にしたと言われており、また演義の中の諸葛亮の人物描写も劉基を元にしていると言われる。

 

鄱陽湖の戦い

明の建国にあたっては元王朝との戦いがメインであったように思うのが普通だが実際には元に対して反乱を起こした漢民族の戦いがメインであった。
そういえば三国志も漢に対して反乱を起こした者同士の戦いがメインだった。

南京の地を得た朱元璋の敵は元ではなく蘇州にいた張士誠と江州にいた陳友諒という人物だった。
朱元璋は両面との戦争は不可能なのでどちらかと戦わねばならかったが、どちらと戦うべきかわからない。悩む朱元璋に劉基は迷いなく江州の陳友諒を討つことを主張した。

理由は簡単で蘇州という豊かな土地を手に入れた張士誠は遊んで暮らしており軍を動かさない。彼は天下の器ではなく大局を見ずに享楽に耽るだけの人物であるから放っておいても平気だというのである。朱元璋らの上流に勢力を張り、虎視眈々とこちらを狙っている江州の陳友諒を先に討ってしまえば大志のない孤立した張士誠を討つのは容易いのだ。

朱元璋は劉基の進言を聞き入れ江州の陳友諒を討ち果たすことに成功した。劉基の言う通り張士誠は動かなかった。

また、その陳友諒の部下であった胡美という人物が降伏を申し出てきたが、その条件が軍団を解散させないことであった。つまり兵力を保持したまま部下にしろということである。朱元璋はここでも悩む。隙を見て離反されるのを避けたかったし罠であることを警戒していた。しかし劉基はこれを受けることを進言、胡美の部隊は私兵で、陳友諒のために戦う意思はないだろうからというのが理由である。これもまた成功した。

陳友諒が大軍をどうお胤して長江を下り、太平を陥落させ南京に進撃する動きを見せたときのこと。朱元璋の配下たちは①降伏を主張するもの②鍾山に逃げ隠れて再起を図るの2つの意見に割れていた。いずれも勝ち目がないので戦いを避けるという点では同じである。

劉基は軍議中に一度も意見を発しなかったが後程、朱元璋と二人きりの時に意見を求められると「敵は勝ち戦に乗じて調子に乗っています。深く引き入れてから伏兵で迎え撃つのです。ことわざにも後の先という言葉があります。大業を成せるかはいまこの決断にかかっていますぞ」朱元璋は劉基の策を用い陳友諒を敗走させた。

陳友諒の方もやられっぱなしではなかった。やがて強力な水軍を結成し、その数は60万を数えるほどだったという。対する朱元璋の軍は20万人ほど。1363年、両軍は鄱陽湖において雌雄を決することにした。両軍ともにこの戦いが中国の覇権を決める戦いであることを認識していた。

陳友諒側の船は巨大な船が多く、朱元璋の側は小さな船が多かった。戦況は多数の兵と巨大な船を有する陳友諒が終始有利であった。陳友諒軍の船が朱元璋の船に向かって進水していき、もはや絶体絶命と思われたその時、風が吹いた。

劉基の言った通り、東南の風が吹いた。朱元璋にとっての文字通りの追い風である。

朱元璋は用意していた火船を敵方に向かって次々と放つ。陳友諒軍の巨大船が一つ、また一つと炎に包まれていく。
「煙焔天にみなぎり、湖水ことごとく赤なり」
敵将であった陳友諒も戦死し、朱元璋は勝利者となった。

三国志で有名な赤壁の戦いにおける諸葛孔明の活躍は、明代この劉基の活躍をそのまま転用したものではないかと言われている。後の世に鄱陽湖の戦いと呼ばれるこの戦いは赤壁の近くにあることや孔明が読んだのが東南の風であったことを考えてもその可能性は非常に高いだろう。

劉基はいずれの場合にもあらゆる情報を得てから分析し、結論を導いている。まさに科学的な人物だと言え、後の世からは魔術師と呼ばれた所以である。
鄱陽湖の戦いに勝利した朱元璋はその勢いで1367年に張士誠の軍も撃破し、さらに北京にせまると1368年には元の勢力を中華から駆逐したのである。
明史には「略、其ノ謀ノ如シ」とあり、劉基の描いた構想通りに進んだのである。
ここに、北宋以来の中国の統一王朝「明」が建国されたのであった。

 

劉基のさいご

朱元璋は光武帝の劉秀や李世民、趙匡胤と違って英雄と呼ばれることはあっても名君と呼ばれることはない。それは漢の高祖である劉邦も同じだ。なぜならば天下統一後に配下を粛正したからである。

劉邦は韓信や彭越、英布などの建国の功臣を粛正しているし、朱元璋に至っては「胡惟庸の獄」で30,000人、「藍玉の獄」においては15,000人の部下を粛正している。
これは中華史上でも最悪の粛正といえる。明建国の功臣であり、丞相もつとめた李善長も粛正の対象になっており有能な人物は全て粛正されたと言っても過言ではなかった。
朱元璋は人の醜い部分を見過ぎたのかも知れない。彼が信じていたのは家族だけであった。

ちなみに家族を信じた朱元璋が一族の裏切りによって自ら定めた後継者が地位を簒奪されるのは何とも皮肉な話だ。なお簒奪したのは明でも最大の名君と言われ、その名を後世に残した永楽帝である。

劉基は明建国の功臣の中で唯一と言ってもよいほど粛正されなかった。
朱元璋は特に知識人階級を憎んでいたのか、呉中四傑といわれる代表的な知識人は全て粛正されているのだが、劉基だけは粛正しなかった。劉基の子孫は明朝末期まで続いているほどだ。

劉基は明が建国されるとすぐに「軍衛法」と言われる法律を整備し、厳正にその法を執行した。汚職などには厳しく対処し、朱元璋でさえ厳しすぎると言わしめたほどであったという。しかしあまりにも厳しくし過ぎたために他の臣下たちとの間に軋轢が生まれ恨まれてしまった。特に李善長、胡惟庸の二人の丞相に憎まれあることないことで中傷を受けたのである。

李善長は漢の名丞相であった蕭何にあたる人物で建国の基礎を作った功臣だが性格的には人の功を妬むところがあった。
そんな李善長が劉基を敵視するきっかけになったのは李善長が目をかけていた役人が罪を犯した際に李善長が劉基に対して見逃してあげてほしいと頼み込んにも関わらず法に照らして断罪したことだ。

もう一人の丞相である胡惟庸の場合の事情はこうだ。
朱元璋は丞相の李善長の専横に嫌気がさしていた。ある時、劉基に後任人事を相談した際のこと。
朱元璋「李善長の専横ぶりに困った。そろそろ変えたいが誰がよいか?」
劉基「李善長は大功臣であり、文武百官もよく抑えております。代えない方がよいと思います」
朱元璋「李善長はそのたを中傷してきた。なぜ弁護するのか?むしろそなた丞相についてくれないか?」
劉基「とんでもないことです。丞相を代えるのは床や柱を変えるようなもの。」
朱元璋「それならば楊憲はどうか?」(楊憲は劉基と昵懇の仲であった)
劉基「楊憲は相才はありますが器はありません。」
朱元璋「それなら汪広洋はどうか?」
劉基「楊憲より劣ります」
朱元璋「では胡惟庸はどうか?」
劉基「胡惟庸では国家がひっくり返ってしまいます」
朱元璋は劉基の進言をきかず楊憲、汪広洋、胡惟庸を丞相としたがことごとく失敗したのである。

胡惟庸はこの時の酷評を根に持ち丞相となった時にあの手この手で劉基の失脚を図っている。

そのような状況で度重なる讒言により劉基は官職を辞して故郷に帰ることにした。あるいは劉基ほどの人物なら朱元璋の闇に気づいていたのかも知れない。

故郷に帰ってからはひたすらに隠棲をしていたが、執念深い胡惟庸の弾劾を免れることはできず都に戻ることになった。劉基は戻って間もなく朱元璋が大粛清を始める少し前の1375年に65歳で亡くなった。

なお「胡惟庸の獄」というのは胡惟庸が劉基を毒殺したのではないかという疑惑から始まった大粛清である。

 

さいごに

劉基は長い中国の歴史の中でも太公望、張良に並ぶ中国史を代表する最強軍師の一人である。

明の歴史家である李卓吾は劉基を張良以上の人物であると評価している。どちらも大帝国の建国を助け、その後の粛正を逃れているという点では共通している。

劉基はとにかく質実剛健で、不正などを常に許さず、己の信念を貫き通した。その智謀はもとよりその人格も中国史において輝きを放っていた。

もし劉基がいなかったら明はなく、中国は唐滅亡後の五代十国時代のような戦国乱世になっていたかも知れない。

朱元璋が張士誠の領土を攻める際、「殺戮することなかれ、略奪することなかれ」という布告をだしていたが、これは劉基が進言したことだと言われている。
もし劉基がいなければ、朱元璋の軍も多くの軍閥のように正義なき軍隊になっていたかも知れない。

混乱した世の中を平定し民衆に平和をもたらした功績の多くは劉基のものであり、世界史上の中でも特筆すべき英傑である。

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