歴史

廉頗と共に趙国の大黒柱『藺相如』は、智勇を兼ね備えた烈士。

大人気漫画「キングダム」では、主人公達が活躍している時代の1世代前の人物として描かれ、智勇兼備の将として伝説的なエピソードや趙の三大天で大将軍「廉頗」との交わりが紹介されている。

藺相如といえば、まず思い浮かぶのは「刎頸の交わり」、そして「完璧」ではないだろうか。

「刎頸の交わり」とは、"お互いのためなら首を刎ねられても構わない"という強固な信頼関係の2人のこという。藺相如と廉頗が「刎頸の交わり」を結んでからおよそ50年後に張耳と陳余が藺相如と廉頗を見習い「刎頸の交わり」を交わしている。また、日本では、ロッキード事件で証人喚問を受けた小佐野賢治氏が、田中角栄との関係を問われた際に「刎頸の友である」と答え、日本でも広く知られる事となった。

このように後世に多大な影響を与えたエピソードを持つ『藺相如』をご紹介したい。

 

 

略伝

藺相如(りんしょうじょ、生没年不詳)。中国戦国時代(前403~前221年)における趙の国の家臣。いわゆる「完璧」の事件によって趙の国にて重きを成し始める。主に西にある秦の国に対する使者として活躍し、秦の国による詐略や侮辱を剛直かつ賢明な行動によって退け、趙の国の体面と権威を大いに保った。後に、上卿(上級家老)となり、また、大将として軍も率いた。

 

 

功績とエピソード

①肌脱ぎになり、斧の鉄床(かなとこ)へ首を乗せよ
藺相如の特質を一言で述べれば「男気」だろう。それは一国を呑み込み、稀代(きだい)の英雄を心服させる程の智恵と仁徳を兼ね備えた、本物の「男気」だと言える。

当時、藺相如が仕えていた趙の国は中国大陸の北部を大いに支配していた。首都は広大な領土の東部にある邯鄲(かんたん)。領土の北西部には雁門(がんもん)と言う砦があり、匈奴(きょうど)族の侵攻に対する備えを担っていた。また、当時は戦国時代であり、趙の国を含めた七大国が争っており、何の大義も無く利益のみを求めて戦争を仕掛けられるのが当たり前と言う極めて剣呑な状況だった。何より、はるか西では虎狼の国と評される獰猛な秦の国が大いに力を付けており、趙の国も秦の国による威圧的な行動とは無縁ではいられなかった。

さて、ある時、趙の国にて面倒な事態が起こった。趙の国の王である恵文王が和(か)氏(し)の璧(へき)と呼ばれる貴重な宝物を手に入れたのだが、そこへ秦の国から使者がやってきて、その璧を譲って欲しいと伝えてきたのだ。無論、只とは言わない。十五の城と交換したい。そのような事を言ってきた。

なお、璧とは宝玉の事だ。西洋では主に宝石が好まれるようだが、中国では宝玉を非常に珍重していたらしい。宝玉は宝石のように光を外側へ放つのでは無く、光を内側へ秘めるような光り方をするそうだ。璧とは宝玉のうち円板形であり真ん中に穴のあるものを言う。ともあれ、十五もの城が宝玉一個と交換できるのであれば悪い話では無いだろう。だが、話を持ち掛けてきたのは全く信用ならぬ秦の国だ。そもそも、まともな道徳観念を持っているのであれば、他国に対して宝玉を寄越せと言う下品な要求はしないだろう。これまでの振る舞いからすれば、秦の国に璧を渡しても約束を守って城を明け渡す事はしないはずだ。とは言え、秦の国の要求を無視すれば戦争を仕掛けられるかもしれない。趙の王は大将軍である廉頗(れんぱ)や大臣らと対応策を協議したが解決策が定まらない。

そんな時、趙の国にて宦官の長をしていた謬賢と(びゅうけん)言う者が趙の王に対して藺相如と言う男を推薦してきた。当時、藺相如は謬賢の舎人をしていた。つまり、単なる召使いのような立場だったようだ。趙の王からすれば、何故、そのような無名の召使いを勧めてくるのか不思議に思うのは当然だろう。謬賢曰く、

「以前、私は罪を受けた事がございましたが、その時、私は燕の国へ亡命しようと考えておりました。ですが、藺相如がそれを止めました。彼は、

『貴方さまはどのようにして燕の王とお知り合いになられたのですか』

と、聞いてくるものですから、以前、燕の王とお会いした際に、王は私の手を親しく握り、これから交わりを結ぼうとおっしゃってくださった、だから行くのだ、と答えました。すると、相如は、

『趙の国は強国であり、燕の国は弱国です。そして、貴方さまは趙の王さまに好かれておりました。ですから、燕の王も貴方と誼を結ぼうとなさったのです。今、貴方さまが趙の国へ走れば、燕の国は趙の国を畏れ、貴方様を決して国に留める事はせず、かえって貴方さまを縛り上げて趙の国へ送り返すでしょう。貴方さまが成すべきは自ら肉袒(にくたん)して斧の鉄床へ伏す(主人に対して自ら処刑される態度を取る事で恭順の意を示す)事です。さすれば、危機を脱する事ができるかもしれません』

私がその策に従いました所、大王さまは幸いにも私をお赦しくださいました。私めはそれを以って相如が勇士にして智謀も備えている事を知りました。よろしくお使いくださいませ」

趙の王はその言葉を受け入れて藺相如を召し出し、秦との一件について問うた所、その返答はいちいち的確だった。趙の王は藺相如の意見をそのまま受け入れ、彼に件の(くだん)璧を持たせ、使者として秦の国へ行かせる事にしたのだった。

②璧を完うせよ。秦の王に命懸けの交渉を仕掛ける
藺相如は秦の王である昭王と会見し、璧を献上した。秦の王は大いに喜び、璧を傍らにいる美人や左右の者らに見せてやると、左右の者らはみな万歳と唱えた。大国の王としてはあまりにも幼稚な行いであり、取り巻きの反応も媚びへつらいでしかないと言える。

藺相如はその反応を見て、秦の王はやはり璧を奪っておいて城は渡さぬつもりだと判断した。なので、王の前へ進み出て、

「実はその璧には傷がございますから、その場所をお教えいたしましょう」と述べた。

璧の完璧な美しさを好んでいるだろう秦の王からすれば、それに傷があるのは重大な事だろう。案の定、秦の王は相如に璧を渡して傷のある場所を教えてもらおうとしてきた。次の瞬間、藺相如は璧を持ったまま近くにある柱の側へ行き、柱を背にして立った。

その時の藺相如は怒りによって髪を逆立たせ、それが自らの冠を指していると思われるほどに、傲然たる憤怒を逆巻かせていた。その激越さは伝説の怪物たる蚩尤(しゆう)の如きか。怒髪天を突く程に猛り立った藺相如は趙の王宮にて行われた事前協議の内容をつらつらと述べ始め、いかに秦の王が信用されておらぬか、いかに趙の王がこの璧を差し出す際に丁重な儀式を行ったか、そして、璧を受け取った際の秦の王の態度がいかに人を見下し、璧をみっともなく慰みものにしていたかをはっきり口にした。さらに、相如は、

「大王が私を強迫するならば、今こそ、私の頭を璧と共に柱へぶつけて砕いてやりましょうぞ!(大王必欲急臣、臣頭今與璧俱碎於柱矣!)」と、啖呵(たんか)を切り、さらに、本当に柱を睨みつつ璧を持ち、柱へ叩き付けんとした。

これには秦の王も璧が壊される事を畏れ、まず詫び事を述べ、その上で、役人を呼び、趙の国に渡す予定である十五の都を指し示させた。

しかし、当然、藺相如は秦の王の言葉を信用しなかった。なので、彼は秦の王に対して、趙の王が璧を献上する際に行ったのと同じように、五日間、斎戒し、九賓の礼(大掛かりな儀礼)を行えば、璧を献上いたしましょうとの提案をした。秦の王はそれを承諾し、その間、藺相如を宿舎にて休ませる事にした。

やはり、藺相如は秦の王を信用していなかったので、従者に貧しい身なりをさせた上で、璧を密かに趙の国へ持ち帰らせた。そうとは知らぬ秦の王は、言われた通りに五日間の斎戒を終え、九賓の礼を整えた上で、藺相如と謁見した。これでようやく璧が手に入ると思っていたのだろうが、藺相如が代わりに差し出したのは、またしても秦の王に対する厳しい言葉だった。

「秦は穆公(ぼくこう)より今に至るまで二十余りの君主、しかと約束を守った者は居りませんでした。秦の王に騙されて璧を奪われては我が主君に申し訳が立ちませぬ故、使者に璧を持たせて我が国へ持ち帰らせました。璧が欲しければ先に城を明け渡してからにしてくださいませ。私が王さまをたばかった罪は死に値すると存じております故、煮殺されても構いませぬ。大王さまにおかれましては、群臣らとよくよく話し合ってお考えくださいませ」

以上のような不敵極まりない話を慇懃(いんぎん)に奉ったものだから、秦の王は家臣と顔を見合わせて驚きの声をあげた。左右の者は相如を捕らえようとしたが、秦の王はそれを止めた。ここで相如を殺しても、璧は得られずに終わるばかりか、趙との誼が(よしみ)途絶えてしまう。結局、秦の王は相如を型通りにもてなした上で帰らせた。秦の国はやはり城を明け渡す事はしなかったし、趙の国も璧を渡さなかった。

こうして、藺相如は困難な交渉を見事に無傷で収める事に成功した。彼のおかげで趙の国は諸侯から辱められずに済んだので、趙の王は彼を賢者だと評価し、上大夫に任命したのだった。

③その距離わずか五歩。主君を侮辱した秦の王に肉薄する
藺相如の豪胆かつ決死の働きによって、秦の王による璧の収奪は免れたが、それによって秦の国の軍事的な暴威が収まる訳では無い。後に、秦の国は趙の国を伐って石城を陥とし、翌年、さらに趙を攻めて二万人を殺した。

そうしておいて、秦の王は趙の王に使者を送ってきて、友好のために澠池(べんち)にて会合を行いたいと要求してきた。趙の王は秦を恐れて行きたくないと思ったが、廉頗と藺相如は一計を案じた上で、趙の王に会合への参加を促した。なぜなら、ここで王が行かねば趙の弱さと怯えを見せる事になるからだ。藺相如は王と共に行く事にした。一方、廉頗は国へ残る事にした。もし、王が三十日経っても帰って来なければ、王はすでに亡き者にされたと考えて、皇太子を王とし、秦の企みを阻止する事にしたのだ。

実際に趙の王と藺相如が澠池へ行くと、そこで酒宴が開かれた。秦の王は酒を飲んで酔うと、趙の王に対して、

「それがしは趙の王が音楽を好むと聞いております。瑟(しつ)(琴(こと)の一種)を奏でてくださらんか」と、頼んできた。対等な立場の王に対して、召使いの如く音楽を奏でろと要求するのは無礼の極みだろうが、趙の王はそれを受け入れて瑟を奏でた。すると、秦の御史(記録係)がわざわざ進み出てきて、

「某年某日、秦の王は趙の王と与(とも)に飲み、趙の王に瑟を奏でさせる」と、記録した。これは露骨な侮辱であり、あわよくば趙の王を臣下として扱う事を既成事実にしてしまおうと考えているようにも思われる。

だが、このような卑劣な行為を藺相如が許しておくはずが無い。彼は秦の王の前へ進み出て曰く、「我が王は秦の王さまは秦の歌を歌うのがお上手だと聞いております。秦の王さまにおかれましては、(秦にて楽器として使われる)缶(ふ)を打つ事で、お互いに座興として頂きとうございます」

つまり、趙の王に音楽を奏でさせたのだから、返礼に貴方も同じ事をやりなさい、と、言う訳だ。しかし、秦の王は怒って受け入れなかった。それでも藺相如は缶を持ち出し、秦の王のすぐ側まで近づき、ひざまずいて、演奏を請うたが、秦の王は受け入れない。

ここに至って、藺相如は激烈な態度を露わにした。曰く、「相如と大王との距離はわずか五歩の内。相如の首の血が大王に跳ね掛かると思いなされ!(五步之內、相如請得以頸血濺大王矣!)」

今、俺とお前との距離はたったの五歩しかない、言う事を聞かねば、ここでお前を殺して俺も死ぬぞ、と、脅迫したのだ。

それを聞いた秦の王の従者らが相如に斬り掛かろうとしてきたが、相如は目を見開き、襲撃者を叱り付けた。すると、よほどの凄みを感じたのか、従者らは皆ひるんだ。秦の王は嫌々と言った様子ながらも缶を一撃した。そこで相如は趙の御史を呼び、「某年某日、秦の王は趙の王のために缶を打つ」と、記録させたのだった。

その後も、秦の群臣が、「趙の十五の城を秦の王に対する贈り物にして頂きたい」と、傲慢な要求をしてきたが、相如は、「秦の咸(かん)陽(よう)を趙の王に対する贈り物にして頂きたい」と、返した。咸陽は秦の国の首都だから、お前の国を全て寄越すなら城をくれてやっても良いぞ、と言う意味になるだろう。結局、酒宴が終わるまで、秦の者らは趙を押し切る事が出来ず、また、趙の者らは兵の備えを強力にしておいたので、秦もあえて動こうとはしなかった。

かくして、趙の王は藺相如の働きによって無事に会見を終えて帰国する事が出来た。また、趙の国が秦の国によって辱められたり、秦の国に脅迫されて領土を奪われたりする事を防ぐ事が出来た。帰国後、藺相如は功績が大きかったとして、上卿の座を与えられたのだった。

④廉頗と刎頸の交わりを結ぶ
藺相如は趙と秦の会見を見事に取り仕切って出世したが、それを不愉快だと考え、公然と不満を表明した者がいる。それは趙の国の大将軍たる廉頗だ。曰く、

「我は趙の将軍として攻城野戦の大功が有る。しかるに、藺相如はいたずらに口先のみを働かせただけで我の上位に居る。しかも、相如はもともと卑しい出身だ。我は恥ずかしい。あの者の下に居る事には耐えられぬ。我は相如を見たら、必ず辱めを加えてやろうぞ」

廉頗が不満を抱くのは止むを得ない事かもしれないが、咎(とが)の無い相手を賎しい出身と罵って脅し付けるのは明らかに度が過ぎているだろう。ならば、藺相如がそれに屈する訳が無い、と、思われそうだが、実際には違っていた。

噂を聞いた相如は廉頗と顔を合わせぬようにし、朝の集まりにも病気と称して顔を出さず、廉頗と並び立って争う事を望まなかった。外へ出た際にも、廉頗の姿を遠くに望むと、車を引いて廉頗に見つからないようにした。そうしていると、ある時、相如に仕えている舎人らが集まってきて曰く、

「私どもが親戚のもとを去って我が君にお仕えしておりますのは、我が君のご高義を慕っているからです。それなのに、今、我が君は廉将軍と同列であらせられますのに、廉将軍の悪口を畏れて逃げる事あまりにも甚だしゅうございます。これは凡人ですら恥だと思う振る舞いでございます。いわんや将軍や大臣をおいてをや。私どもは不肖であり、我が君の許を去りたいと存じます」

だが、藺相如は彼らを固く止めた上で返答した。まず、相如は舎人らに対して廉頗と秦の王を比べさせた上で、

「私は秦の王すら宮廷にて叱り付け、その群臣を辱めてやったのだ。私は駄馬の如き者とは言え、どうして廉将軍ごときを畏れようか。だが、省みて思うに、強大な秦の国があえて趙へ軍隊を差し向けて来ないのは、ただ、我ら二人が居るからだ。今、この二匹の虎が争えば、共に生き延びる事はできまい。我(われ)がかような振る舞いをする所以(ゆえん)は、国家の緊急時を優先して私的な仇を後回しにしているためだ」

かように国家の石柱として名を挙げられた廉頗は、その話を聞くや、罪人のごとく肌脱ぎになって茨の鞭を背負い、賓客をともなって藺相如の門へ至りて謝罪した。曰く、

「卑賎なる私めに対して、将軍がかように寛大な扱いをしてくださっていた事を知らずにおりました」

その後、藺相如は廉頗と会見して和解し、刎頸の交わり、つまり、自分の首が相手のために共に刎(は)ねられても悔やまぬほどの深い絆を結んだのだった。

⑤柱に膠し(ことじ にかわ)て瑟を鼓するが若(ごと)し
藺相如と廉頗が刎頸の交わりを結んだ後、趙の国は他国に対する征伐を大いに成功させた。つまり、廉頗は数年の間に斉と魏の国を次々に攻めて功績を挙げ、藺相如も大将として斉の国へ侵攻し、さらには、名将趙奢が(ちょうしゃ)秦の軍勢を撃ち破った。かくして、優秀な家臣を揃えた趙の国は武威を大いに高めたと言えるだろう。

だが、時が流れ、趙の恵文王が亡くなった。後を継いだのは孝成王だ。それから七年後、秦の国との間に長平の戦いが勃発。この時、趙の国の三本柱と呼べる家臣のうち、趙奢はすでに亡くなり、藺相如も重病のために動けずにいた。さらに、最後の砦として秦の軍隊と戦っていた廉頗までもが、秦の国による謀略によって将軍の座から下ろされてしまった。

つまり、孝成王は秦の国が密かに流した噂を信じて、廉頗の代わりに、虚名ばかりの趙括と言う男を将軍に任命したのだ。趙括は趙奢の息子であり秀才の誉れ高い男だが、実際には机上の空論ばかりであり実戦には役に立たない。それを見抜いていた藺相如は孝成王に対して曰く、

「王さまは名声のみを以って括を使おうとなさっておいでですが、それは柱を固めて動かせないようにしてから瑟を演奏しようとなさるようなものです。括はいたずらに父の書き残した物を読んでいるだけであり、臨機応変の用兵を知りませぬ」

柱とは瑟を演奏するための道具であり、これを動かす事で音楽を自在に奏でる事が出来る。つまり、これを固めてしまえば、どんなに立派な瑟でも本格的な演奏の役には立たない。兵を率いて戦うための方法も同じであり、固定された知識や戦術を知っているだけでは役に立たないと言う訳だ。趙括は単に理屈を覚えているだけであり、それを実戦の中で応用する事はまるで出来ない。それを瑟に例えて表現した藺相如の言葉は絶妙だと言えるだろう。

だが、それでもなお孝成王の目を覚まさせる事は出来なかった。結局、廉頗の代わりに出撃した趙括の軍は秦の将軍である白起の罠に掛かり、別動隊によって補給線を断たれて飢えに苦しみ、ついには趙括が討たれ、趙の兵士四十万が秦に降伏してしまった。しかも、白起は降伏してきた趙の兵士らを騙し、わずかな子供以外の全てを生き埋めにして皆殺しにしてしまった。以後、趙の国運は下り坂となり、廉頗は他国へ去らざるを得なくなり、廉頗の後を継ぐようにして活躍した李牧も主君に疑われて密かに殺されてしまった。その果てに、趙の国は秦の国によって滅ぼされてしまったのだった。

なお、歴史書である『史記』には藺相如の最期についての記述が無い。

 

 

話、伝説、評価

①司馬相如に傾倒される
後の漢帝国の時代に現れた文章家である司馬相如は、元々は犬子と言う名で呼ばれていたが、学問を一通り修めた頃、藺相如の人となりを慕って、名前を相如に改めた。なお、司馬相如の文章は時の皇帝である武帝を感動させ、「朕がこの者と同時代に生きていないとは!」と嘆かせた。書いた文章があまりにも立派だったので古の偉人が書いたと思い込まれるほどの名文家だったと言える。

②司馬遷による評価
史記の著者である司馬遷は藺相如を絶賛している。
曰く、「死ぬと知れていれば誰でも勇ましくなる。死ぬ事が難しいのでは無い。死に対していかに対処するかが難しいのだ。藺相如が璧を引き寄せて柱を睨んだ時、および、秦の王と左右の者らを叱り付けた時には、殺されるのが当然の状況だったが、例え、そうだとしても、怯えや弱さのせいで声を発せられない事もある。相如はひとたび気力を奮い立たせた事で敵国に対して威信を示したが、廉頗に対しては謙虚に退いたので、その名は太山よりも重くなった。その智勇の用い方は二つの方法を兼ね備えていたと言うべきだ」

 

 

まとめ

藺相如は趙の国の重臣として勇気と沈深厚重たる智慮を示した。彼が単なる剛直のみの勇士であれば、廉頗と暴虎のごとく争って破滅を導いたかもしれないし、単なる謙譲のみの君子であれば、秦の王による傍若無人な振る舞いを制する事は出来なかっただろう。

彼がその類まれな勇気と知性を大いに発揮できたのは、これら二つの徳を共に修めていたからだと言える。藺相如の勇気は、単純に武芸による自信からくるものでは無いからこそ至高の尊さを宿している。

 

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