歴史

蘭陵王『高長恭』は、多くの創作に名を残す名将。

魏晋の南北朝時代は優れた君主は殆どいないが名将、勇将は多く存在する。
その中でも中華史上最強の男前『高長恭』は時代を代表する名将と言えるだろう。

日本の雅楽「蘭陵王」にも歌われている名将をご紹介する。

 

略伝

高 長恭(こう ちょうきょう)は王号を蘭陵王、蘭陵武王、羅陵王。西暦541年頃~西暦573年5月(享年33歳)。河北省衡 水市景県生まれ中国南北朝時代の名将である。549年に父が暗殺される。557年に出仕し560年3月には蘭陵王に封ぜられる。564年には北周と戦った。573年5月33歳で亡くなった。

(出典 Wikipedia)

 

概要

中国南北朝時代末期の北斉の皇族。わずかな手勢で窮地を救う勇猛果敢な武将である。名高い武勇と美貌は後世まで受け継がれる。歌曲『蘭陵王入陣曲』、舞楽『蘭陵王』など多数の創作モデルにもなっている。最期は謀反を疑われた末に自死を命じられ、若くして非業の死を遂げる。悲劇の名将として後世にも伝わっている。

■功績とエピソード
①不遇な生い立ち
子だくさんの家庭の4男として生を受けた高長恭。
父である高澄は、高長恭が幼い時に暗殺されている。後に高澄の仇を討った叔父(高澄の弟)が北斉を建国したことから、本来は高氏一族の嫡流であるはずが傍流の皇族としての立ち位置であった。

②勇猛果敢な働き
500騎を率いての大軍との戦い以外にも、他の諸将がためらうほどの険峻な立地での戦いや夜襲の成功など数々の武勲を立てる優秀な武将であったが、これが残念なことに後に皇帝に警戒される悲劇に繋がる。

③美貌と美声
史書にも「音容兼美」と明記されるほどの当代随一の美貌と美声を誇った高長恭。強く美しい武将ということで、高長恭の楽曲が作られるほどの人気ぶりであった。

④堅実でまじめな人柄
強くて美しいだけに留まらず、褒美として果物を贈られれば独り占めせずに部下に分け与えたり、20人の美女を賜われば1人だけ選んで辞退するという、堅実な性格であったと伝えられている。

⑤非業の死
武功と勇猛さや人柄もあり、周囲からの評判も高かった高長恭ではあるが、彼を疎ましく思った皇帝より毒薬が贈られ、自害を迫られた。高長恭を抵抗することなく、これを受け入れ非業の死を遂げることになった。

■逸話
①美貌に恵まれるも親類縁者には恵まれず
後の世までその美貌が伝わっている高長恭。兄弟の計6人の男児はそれぞれ生母が異なると言われているが、高長恭の母に関する記録は残っていない。当時は、母親の身分次第で成人後の人生が左右される時代であったが、母親の身分が低かったためか安定した後ろ盾を持たなかったとも言われている。また、幼少時に父を亡くし、兄も親戚に殺害され、自身も最期は親類から毒薬を贈られたという親類縁者との縁が希薄な人生であった。

②顔パス入城
わずか500騎のみで救援に向かい、大軍である北周軍を破るエピソードは有名である。洛陽陥落の窮地を救ったという武勇とともに語られる逸話として有名なのが彼の美貌である。
援軍を率いて城門までたどり着いた高長恭ではあるが、当時激しい包囲戦の中で城を守っていた守備兵たちの警戒心は非常に高い状態であったこともあり、高長恭が率いる軍が敵か味方か判断できなかったという。そこで高長恭が兜を脱いで素顔をさらしたところ一目高長恭その人と認識される優れた美貌であったため、味方で間違いなし!と認めて開門し、無事に北周軍の包囲を破って勝利に導いたという。現代でいうところの顔パスの逸話が残っている。

北斉の兵士たちによって、この勝利と高長恭の勇姿を称えて作られた楽曲が、現代まで多様な創作のもととなっている『蘭陵王入陣曲』である。
現代においては、唐の時代になってからの創作と言われているが、『教坊記』の記載には高長恭の容姿に関して「大面出北斉。蘭陵王長恭性膽勇,而貌若婦人。自嫌不足以威敵,乃刻木為假面,臨陣著之。」との記述がある。これが、自身の女性のような容貌が敵に対する威圧感が足りないので、兵の士気を低下させてしまうことを防ぐために、仮面を被って戦いに臨んだという逸話のもとである。

③強く気高く美しく
後世には際立った美貌を中心としたエピソードが目立つが、その人柄はまじめで実直なものであったようである。当時、北斉の諸王の多くは家臣を選ぶ際には、いかに自分に利益があるかを念頭に置いて商人、佞臣、少年などを選んだと言われているが、高長恭は文芸清識の士を選んだので賞賛されたという逸話も残っている。

また、出世してからも身の回りの細かなことは自分で処理した。褒美として果物を贈られれば部下にも分け与えた。登城した際に従僕らが先に帰ってしまっても罰しなかった、過去に窃盗でクビになったことのある部下がおびえていることに気づきあえて小さな罰を与えて安心させた。皇帝より20人の美女を賜ったときも1人だけ選んで他は辞退した。などと部下を思いやる人柄が伝わるエピソードが数多く残っている。

④まじめさが仇となる
武功と勇猛さに卓越した美貌、人柄も備えた高長恭ではあったが、とことん親類縁者に恵まれない一生であった。彼がまじめに活躍すればするほど、妬み疎ましく思った人物は敵国ではなく自国にいた。時の皇帝である高緯からはことあるごとに警戒されることになった。戦に勝った後のこと、皇帝である高緯から「敵陣深く侵入したが、敗北を恐れなかったか?」と問われると高長恭は「家の一大事だったので恐れませんでした(原文:家事親切,不覚遂然)」と答えたことがあった。この切り替えしも皇帝にとっては、自らを差し置いて国家を「家事」として語ったことが気に入らなかったようで、高長恭の威名と武勲の大きさも重なり、目の上のたん瘤のような扱いをするようになったというエピソードが『資治通鑑』に残っている。

その後、粛正を恐れた高長恭は、わざわざ評判を落とすような振る舞いや戦功をあげないように手を抜いたり、病気の治療をせずに放置したりと考えうる限りの警戒されない方法を実行するものの、既に高緯からは獅子身中の虫とも思われるほど警戒されていたため、結局573年に高緯より毒薬を賜り、自ら命を絶つことになってしまったのである。
親類縁者に恵まれなかった高長恭ではあったものの、妻は誠実で貞淑な人柄であったようで、自害を迫られた際にも必死に説得を試みただけではなく、高長恭の死後に弔うために自らの装飾品を売却してでも費用を捻出しようとしたエピソードも残っている。

しかし、この装飾品の売却をもちかけた高長恭の兄弟たちも皇帝から反感を買うことを恐れて、反対されるという後日談もあり、高長恭は生前ばかりか死後までも、とことん親類に恵まれない一生であったようである。
その後の北斉ではあるが、戦力の要でもあった高長恭たちを失ったこと、皇帝の暗愚さもあり瞬く間に周辺国に侵略され、間もなく滅亡している。

⑤多数の創作のモデルに
美貌と武勇に優れた高長恭は、数々の創作に用いられたことでも有名である。高長恭よりも「蘭陵王」の名称の方が広く認知されているようである。ご当地の中国では『蘭陵王入陣曲』以外にも、近年ではTVドラマのテーマとしても用いられている。

また、日本においても、高長恭の武勇伝を題材とした雅楽『蘭陵王』からはじまり、宝塚の演目、三島由紀夫(タイトルにはなっているが高長恭は登場しない)、田中芳樹といった存命中の著名な作家にもモチーフとして登用されている他、明治時代の第3回内国勧業博覧会では、蘭陵王置物という作品が出品されていた記録も残っているなど、長年に渡り創作にモチーフとして用いられてきた非常にポピュラーな人物であると言える。

日本の源氏物語の中にも『蘭陵王』は登場している。第35帖「若菜下」、第40帖「御法」で舞われている様子が描かれており、平安時代の貴族にも親しまれた様子がうかがわれる。
文学以外のジャンルでも、ゲームや漫画などのキャラクターとしても人気が高いようである。

■さいごに

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