歴史

五胡十六国時代を代表する名君「苻堅」を支えた『王猛』は時代を代表する名宰相。

長い中国の歴史は小説、漫画、アニメ、ドラマ、映画、ゲームなどの影響で知名度に天と地ほどの差がある。五胡十六国時代はその複雑も相まってか余り知名度が高いとは言えない。

歴史好き、その分野のお仕事や授業を受けている方でなければ、この時代に詳しいという人は殆どいないと思う。

そういう状況であるから『王猛』はあまり馴染みがない名前かもしれないが、三国志→晋のあとの長い戦乱時代である五胡十六国時代を代表する名宰相である。

そして『王猛』は、どこか三国志の劉備と孔明、項羽と劉邦の劉邦と張良のような印象を持ってしまう部分がある。そんな『王猛』について書いてみたいと思う。

 

略伝

王猛(おうもう)は西暦325年~西暦375年(享年51歳)、山東省濰坊市昌楽県に生まれた五胡十六国時代前秦の名宰相である。

354年に桓温と出会い357年苻堅が帝位に就く。王猛は中書侍郎、尚書令など政治の中枢を担う職を歴任しその手腕をふるった。さらに372年6月丞相に任じられる。375年51歳で亡くなった。

(出典 Wikipedia)

 

概要

前秦の宰相。苻堅の覇業を全面的に補佐した賢臣で華北統一に貢献した。
唐代の史館が選んだ中国史上六十四名将の(武廟六十四将)一人に選出された名宰相である。

 

功績とエピソード

①生い立ち
五胡と呼ばれる民族が中国を支配していた時代に漢民族の有力貴族の家に生まれた王猛の暮らしは極めて貧しいものであったと言う。その暮らしぶりは幼い頃から、畚(もっこ:縄や竹、藁などを網状に編んで作る運搬用の道具)を売って生計を立てなければいけないほど困窮していたようである。

王猛は勉学を好み、立派な風采をしていたものの誰にも仕えることなく華陰山(現在の陝西省渭南市華陰市にある華山を指す)の山奥に隠遁し真に仕えるべき主が来るのを待ちわびていたというエピソードも残っているが、一方では、若くして遊学したものの、当時の時流に合った万人受けするタイプではなかったためか、彼の才能を評価する者は少なかったとの説もある。

後趙の徐統だけは早い段階から王猛をただ者ではないと一目置いていたそうであるが、王猛は仕えることを望まず隠遁生活を送ることを選んだと言われている。

②苻堅のもとへ仕官
当時の大国である東晋からの誘いも断った王猛が仕えた人物は、前秦の皇帝の従兄弟にあたる苻堅である。苻堅はやがて前秦の君主の座に就き、王猛を重用していく。

ある時、豪族が領内で好き勝手に振る舞い強盗略奪が横行していた地域の統治を任された王猛。着任後速やかに厳格な処罰を行い有力者を処刑した。

苻堅もさすがに驚き、王猛へ「政治には徳が大切である。さすがに死刑にするのは酷すぎるのではないか?」と問うた。王猛はそれに対して以下のように答えたという。
「平和な国を治めるには礼をもって、乱れた国をおさめるには法をもって行う必要があります。私は悪人を一掃することが役目であるものの、悪人はまだ山ほどいます。悪人を一掃できなければ私は罪を受けますが、成し遂げていない現段階ではまだ罰を受けるわけにはいきません」
それを聴いた苻堅は納得し、やがて王猛を宰相の地位に任じ、その後ますます重用していくことになる。

反発する者がいれば苻堅は容赦なく左遷や降格、クビにし、苻堅自ら処刑した者までいたと伝わっている。ここまでされては周囲も表面上は何も言えなくなった。しかし、このことが王猛の死後、苻堅を窮地に陥れることの一因となってしまうのである。

③連戦連勝
当初は周囲からの反感が強かった王猛ではあるが反乱の鎮圧、他国の制圧に次々と成功させたことで、周囲の反応もやがて変化していった。最終的に前秦は中国の約半分を支配下に置くことに成功している。

④富国強兵の内政
王猛の執政は公平であり、給料を貰いながら職務を全うしない者は追い出し、隠居して世に用いられていない者や才能ある者を発掘した。また真実に則り正しく裁いた。王猛の政治によって兵は強く国は富み、平和な時代となった。
また王猛は廃れていた学校を再建、首都を中心に街道を整備することで商人が安心商売できる体制を整えた。

⑤王猛の最期
王猛が病床に伏すと苻堅は自らも熱心に祈りを捧げ近臣を各地の祠に派遣して祈祷させた。病状が一旦回復した折には境内の死罪以下に大赦を下した。これに対して王猛はこれまでの受けた恩に大変感謝するとともに、今後のことについても伝えた。

その後、病状が重篤となると、苻堅は自ら病床を見舞いに訪れた。葬儀では苻堅は泣き崩れるほどであったと言う。

死に際して王猛は後秦の運命を左右する遺言を残したが、苻堅は守らずに自滅へ繋がる選択をすることになる。

 

逸話

①人物評
立派な容姿をしており、博学で兵書を好んだと言い伝えられている王猛は若い頃はあまり社交性が高くなかったようで、誰とでも親しく交わるタイプではなかったらしいが他人から軽んじられても全く気にしなかったと言われている。

真面目で剛毅な性格であり、度量が広く細かなことにはこだわらなかったと言われている一方で、こうと決めたことに関しては決して信念を曲げることのない頑固な一面もあったという。加えて目上の者に対してもストレートに物を言うタイプでもあった。

普段は物静かで清廉潔白な人物であると評されているが、恩も怨みも忘れずにしっかりと返す主義だったようである。

②苻堅との出会い
王猛の望みは世を救う志を抱いて龍顔(天子となる人物)に仕えることであった。仕えるべき主君との出会いを夢見ながら、山奥で勉学にいそしみつつ、ひっそりと天下の動静を観察していた王猛。
大国からのスカウトを受けるものの、首を縦に振ることのなかった王猛であったが苻堅との縁がその後の人生を変えることになる。

当時の前秦の君主であった苻生は、官吏の殺戮を繰り返す残忍暴虐な人物であった。苻生の従兄弟である苻堅は、文武ともに優れた才能を有しており、大志を抱いていた。周囲の人々より、苻生を誅殺して代わりに即位するようにすすめられていた苻堅であったが、なかなか決心がつかずにいた。

そこで信頼する尚書の呂婆楼に相談を持ち掛けた。呂婆楼からは王猛という人物が不世出の才を有しており、国家の大事を相談するに足る人物であると推薦を受けたため、苻堅は呂婆楼を派遣王猛を呼び寄せるよう依頼した。こうして出会った王猛と苻堅は、まるで旧知の仲であるかのように国家の興亡など様々なことを話し合い意気投合した。

苻堅の理想主義や熱い志が、王猛の心を動かしたようで苻堅はこの時のことを「劉備玄徳が諸葛孔明に会った時のようだ!」と大いに喜び、王猛もまた「佐世の志」を持つ仕えるべき君主にようやく巡り合うことができたと喜んだという逸話が残っている。これ以降、王猛は苻堅の下で仕えることになった。

③桓温との交流
山奥で隠遁生活を送る王猛のもとを訪れた人物が桓温であった。桓温は、中国の南半分を占める東晋の実力者である。

この際の王猛は、着古した衣類を身に着けシラミを取りながら応じたという逸話も残っているものの、桓温は王猛のことを大変気に入って贈り物をするなどしたが王猛はスカウトを固辞した。
そんな二人であるが桓温と王猛との縁は切れずに後年、王猛へ援軍を要請した記録も残っている。

④王猛への差別
王猛は後秦の官僚から度々不当な弾圧を受けていた。当時、胡族は漢族を自分達の耕作奴隷と見なしていた。その漢族出身の王猛から自分たちが指図されることは耐え難いことであったと言う。

しかし、どれだけ周りが讒言しようとも苻堅の王猛への信頼は揺らぐことはなく、むしろ讒言した者を処罰するほどであった。

⑤王猛の死後
王猛の進言を受け入れることが大半であった苻堅ではあるが、幾つか聴き入れなかったことがあり、後に苻堅は窮地に陥る。苻堅は鮮卑の慕容垂や羌の姚萇を始めとする異民族を極端に優遇していたため、王猛は信用しすぎては危険である進言したが、受け入れられなかった。

また苻堅が東晋を攻めることに対して最期まで反対し、逆に東晋とは友好を結ぶようにも提言していた。

王猛は「晋を攻めないように。国家の重要事として東晋とは友好を結ぶべきである。鮮卑、羌(前燕から降った慕容垂と羌の姚萇のこと)は仇敵だからいずれ害となる。徐々に力を削って排除してしまうように」と遺言して死去した。

しかし苻堅はこの言を守らなかった。王猛の死後、苻堅は東晋軍を攻めた結果、淝水の戦いで大敗を喫した。また、この機に乗じて、異民族の混成国家だった前秦から諸部族の離反と自立が相次ぎ、その後、苻堅自身も姚萇によって殺害されることになった。

 

さいごに

五胡十六国時代はその複雑さもあり余り描かれていない時代だ。三国志以後のこの混迷の時代、長らく時代を代表し後世に長く名を残す英雄中の英雄は出ていなかった。

そんな中で登場したのが理想を追い求めた不世出の名君「苻堅」とその苻堅を補佐し基盤を見事な手腕で固めたNo2である名宰相「王猛」である。

この二人が築いたものは長らく重用し、その言を重要視してきた「苻堅」が遺言という「王猛」最大最後の言をきかなかったことで脆くも崩れさっていく。

古代中国に存在した英雄やその英雄が起こした王朝は現代まで続いていないため、どこかの時点でバッドエンドを迎えてきたが、名宰相「王猛」も同じく大業を成すには至らなかった。

そういう儚さも歴史の面白さを物語っているように思う。

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