歴史

悪党か英雄か?「大楠公」と称えられた『楠木正成』は謎多き武将。

外国の歴史、特に中国史では軍師や参謀という立場の人が多く登場する。しかし日本はどうだろうか?有名なのは豊臣秀吉に仕えた竹中重治、黒田孝高、大河の影響で直江兼続や片倉景綱、宇佐美定満などでしょうか。

しかし日本の場合、当時は軍師という言葉がなく、いたのは軍配者という存在でした。そして先に名前をあげた方々は軍配者ではなく家臣という位置づけでした。とはいえ知恵者だったのは間違いないでしょう。

大河や小説の影響で策士、戦術の天才というイメージの強い『楠木正成』について調べてみた。

 

略伝

楠木 正成(くすのき まさしげ)は別名を兵衛尉、左衛門尉、判官、河内判官という。尊称は大楠公(だいなんこう)である。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。生年不明~1336年7月4日(享年:?)出生地は不明。官位は兵衛尉、左衛門少尉、検非違使、河内守・摂津守、河内国・摂津国・和泉国・守護主君は後醍醐天皇である。

1331年~1333年に元弘の乱で後醍醐天皇を奉じる。、1333年に鎌倉幕府滅亡、建武の新政、1336年7月4日に湊川の戦いにて自害した。南北朝時代~江戸時代、日本史上最大の軍事的天才との評価を一貫して受ける。太平洋戦争前には「忠君愛国」の権化として「大楠公」と称えられた。

(出典 Wikipedia)

功績とエピソード

①後醍醐天皇との出会い
『太平記』によれば、楠木正成と後醍醐天皇との出会いは以下のように語られている。

「倒幕の謀議が発覚し都を追われた後醍醐天皇は笠置山で失意の日々を送っていた。ある日、後醍醐天皇がまどろんでいると、夢の中に紫宸殿の庭先に大きな常磐木があらわれた。その下には百官が並んでいたが、南側の玉座(天皇が座るべき場所)には誰もいなかった。

天皇が不審に思っていると童子が現れて天皇を玉座に招いた。目覚めた後、後醍醐天皇は左右の者に『木へんに南といえば楠と書く。このあたりにクスノキという者はいないか』と尋ねると、ある者が『河内国金剛山の西麓に楠木正成という者がおります』と答えたため、後醍醐天皇は楠木正成を呼び寄せた」と。

②後醍醐天皇の野望
鎌倉幕府を実質的に支配していた北条家に対する世の中の不満を感じていた後醍醐天皇は、朝廷に実権を取り戻して、かつての公家を中心とした政治を復活させたいと切望していた。倒幕に向けて動き出した後醍醐天皇に呼応するように、楠木正成も河内で兵を挙げ、勝利した後には1年余りの短い間ではあるものの、後醍醐天皇による政権が叶う。

念願かなった後にも、後醍醐天皇の正成に対する信任は厚く、建武の新政権では正成を河内・和泉両国守護などに任じて側近として重用したとされている。

③ゲリラ戦の天才
楠木正成の有能さが認識されるようになったのは、千早城での籠城戦がきっかけであった。鎌倉幕府軍の包囲網から脱出した正成は、護良親王(後醍醐天皇の皇子)と提携して、和泉・河内を中心に各地を転戦した。河内金剛山の千早城に篭城した山岳ゲリラ戦では、投石での応戦など地道な戦法と軍略によって、10万に及ぶ幕府の大軍を翻弄したと伝わっている。

この際、正成自身は直接幕府軍と真っ向勝負したわけではないものの、戦略によって幕府の大軍を千早城にひきつけることによって長期戦へと持ち込んだ。全国各地の武士たちにとって、ゲリラ軍に翻弄される幕府軍の姿は、鎌倉幕府が弱体化していることを知らしめる結果となった。

正成が時間を稼いでいる間に、後醍醐天皇は無事に隠岐から脱出に成功。新田義貞、足利尊氏ら有力な御家人が鎌倉と六波羅を攻め落としたことで、鎌倉幕府は滅亡することになったのである。その後、正成は、後醍醐天皇が京都に凱旋した際には、先鋒として7,000人の兵を率いて入洛を果たした。

④足利尊氏との戦い
楠木正成は、後醍醐天皇が失策した後にも側に残って、足利尊氏らの軍勢と戦う路を選ぶ。

建武の新政が失敗に終わると、正成は新田義貞とともに足利尊氏と戦うことになる。京都での戦いに敗れて都落ちしていた足利尊氏ではあったが、九州で力を蓄えて勢力を盛り返し、再び京都を目指して進軍してきたのである。その情報を入手した正成は、後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言している。

正成は、現状の混乱の原因が後醍醐天皇の政治にあることも、もはや公家に武士を抑える力はないことも分かっていたようで、この社会の混乱を静めるにはこれまでのように武家主導による政治以外の方法はないと理解していた。

そして、武家主導による政治の中心として力を発揮できるのは尊氏以外にいないという考えもあったと言う。後醍醐天皇に尽くした正成であったが、忠誠心とは別に理性では、公家中心の運営は不可能であることをよく理解していたようである。
そこで、後醍醐天皇に尊氏と和睦するよう進言したものの、天皇は聞き入れなかったため、勝ち目のない戦と知りながらも、やむなく出陣するに至った。

⑤死後
死後に楠木正成は、「(室町)幕府が奉じる正統な朝廷(足利尊氏)に刃向った逆賊」として朝敵の汚名を着せられることになった。

しかし、彼が戦いの中で講じた軍略は、江戸時代には楠木流軍学として大流行し、多くの武士がこぞって学んだと伝えられている。そして、幕末に尊王思想がひろがった頃には、正成は正統な皇室の流れを汲む南朝に尽くした忠臣として扱われるようになり、室町時代の悪評が嘘のように一転してヒーローとして扱われることになった。

明治~太平洋戦争までの時代には、正成は「大楠公」と称されるようになっていった。学校での歴史や道徳の教育の教科書でも、正成は天皇や国のために忠節を尽くして散った理想の日本人像として讃えられるに至ったのである。

 

逸話、伝説、評価

①出自
楠木正成は、1294年に河内国赤坂水分(大阪府千早赤阪村)で生まれたという説もあるものの、実際には正成の前半生は謎に包まれており、裏付ける正確な資料などは残っていない。その出自も河内豪族出身とも盗賊とも言われているが、同じく推察の域を出ない。自身は橘家の末裔を名乗っていたようであるものの、こちらも同様に確証はない。

②桜井の別れ

楠木正成の息子・正行もまた、父の死後にその遺志を継いで、南朝方の武将として北朝軍と戦ったと言われている。親子にまつわる逸話として有名なものが「桜井の別れ」である。これは『太平記』に出てくる名場面として人気で、太平洋戦争前には小学校の教材の中でも扱われていた逸話である。

1336年、湊川の戦いに出陣する楠木正成の軍には、正行も同行していたものの、摂津の桜井まで来たところで、正成は正行を呼んで、故郷の河内に帰るよう命じた。正行は、父に一緒に行かせてほしいと願い出るものの「父は恐らくこの戦で死ぬことになるであろう。そうなれば天下は足利尊氏のものになるに違いない。しかし、武士は生き延びることを重視して、一旦決めた節義を変えてはならない。そなたもこの父と同様に生涯、後醍醐天皇に忠節を尽くして戦え。そして、いつか朝敵を滅ぼしてもらいたい」と説得した。結果として正行は、父の言いつけに従って河内へ戻った。

③江戸時代に大流行
天才的なゲリラ戦術を駆使した正成は、戦略家としても評価されている。また、御恩と奉公という武士の主従関係が利害によって成立していたことで、利益次第で敵方へと寝返ること珍しくはない時代にあって、負け戦と知りながらも主君(後醍醐天皇)のために命をかけた正成は、『太平記』の中で英雄級の扱いを受けていたのである。

特に足利家の時代が終わった戦国以降は、武略と忠義がクローズアップされ、正成は悪役から一転ヒーローとして扱われるようになり、一般庶民にも大人気であった。加えて、武士の間では楠木流軍学が大流行する。戦国時代の動乱を乗り越えて、太平の世となっていた17世紀中頃の江戸では、楠木不伝という兵学者が登場する。戦国時代に活躍した楠木正虎の息子という触れ込みであった。

この楠木不伝は、祖先である楠木正成の軍略をベースにして、楠木流軍学を成立させたのである。楠木流軍学は武士の間で広く受け入れられて、越後流軍学や甲州流軍学などとともに軍学の一大流派へと成長を遂げる。

④湊川神社と子孫たち
楠木正成が最後の戦いに臨んだ地にほど近い兵庫県神戸市にある湊川神社は、湊川の戦いで正成が戦死したことにちなんで、1872年に湊川古戦場跡地に創建され、正成を祀っている。創建にあたっては、明治天皇の後援も受けたという記録も残っている。
神社の管理は、正成の子孫など縁のある人物で構成される楠木同族会などが行っている。

 

さいごに

楠木正成といえばNHK大河ドラマの武田鉄矢さんのイメージが強い。人懐っこい笑顔、庶民的で泥臭い感じだけど、内に秘めた忠義や信念が半端ではないとう姿に惹かれた記憶がある。悲劇的な最後も惹かれた理由の一つだと思う。

天下を統一した人物より志半ば、忠義を尽くして悲劇の最後という人の方が人気がある気がする。三国志の関羽や楠木正成が神とされたのは後の時代の権力者の思惑が多分にあるが、それでも時代を色だった英雄の1人であったのは間違いない。

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