歴史

唐の太宗李世民が、信頼した大豪傑『尉遅敬徳』は、神勇と呼ばれた武神。

長い中華の歴史の中で名君は誰か?という問いに必ず名前があがるのが、唐の太宗「李世民」である。その他、後漢の光武帝「劉秀」、北宋の太祖「趙巨胤」、清の聖祖「愛新覚羅玄燁」(康熙帝)等は、同様に必ずあがっている。

同じく、中華最強は誰か!?という問いも目にする。こちらの問いでは、三国志で有名な「関羽」、「張飛」の義兄弟コンビ、楚の覇王「項羽」、北魏の車輪眼「楊大眼」、抗金の英雄で万人敵こと「韓世忠」、救国の英雄「岳飛」などの名前がよくあがっている。

その最強を決める問いで先にあげた英雄たちに負けず劣らずの大豪傑が、神力の神勇こと「尉遅敬徳」である。

中華を代表する名君に仕え、最強談義でも名前が必ずあがる「尉遅敬徳」をご紹介したい。

 

 

略伝

尉遅敬徳(うっちけいとく) 。姓は尉遅、名は恭。字は敬徳。中国唐王朝(618~907年)の武将。朔(さく)州善陽県出身。生没年は西暦585年から658年。隋王朝の儀同(ぎどう)だった尉遅伽(うっちか)の子。始め、隋(ずい)に仕えて功績をあげるも、隋は失政により破綻へと向かい、各地にて反乱が起こる。617年、劉武周が反乱を起こすと、尉遅敬徳はその部将となるも、やがて、唐の秦王たる李世民に降伏。以降、李世民から絶対の信頼を受け、その武将として大いに豪勇を発揮する。右一府統軍(将軍の最上位である大将軍に次ぐ位)に任じられた敬徳は多くの群雄を討伐し、唐の全国平定に貢献。玄武門の変では主導者の一人となり、李元吉を討ち取る。李世民が皇帝に即位した後も刺史(しし)や総督として働き続けたが、晩年には隠遁し仙人の修行に励んだと言われる。凌煙閣二十四功臣の一人。後世には同僚の秦叔宝と対になる形で門神として祀られた。

 

 

功績とエピソード

①隋の国が滅亡し、群雄再び割拠する
かつて、中国は春秋戦国時代と言う大いなる乱世の果てに、秦の国が大陸を統一したが、じきに、乱世に逆戻りした。その歴史を八百年後に隋の国が繰り返そうとしている。この時代、中国大陸は三国時代から始まった長い戦乱と分裂の時代をようやく終え、隋の国によって統一されていたが、隋は秦の時と全く同じく、二代目である煬帝の時代に早くも大いに崩れた。

煬帝は圧制を敷いた上に高句麗討伐に失敗して国力を著しく減じた末に、家臣である宇文化及によって殺された。煬帝と言う名前は「礼を去り衆を遠ざける」と言う意味であり、国を滅ぼした君主に対する辛辣な評価が反映されている。

こうして、中国大陸には群雄が割拠した。この混沌とした恐るべき時代を再び治める者は誰か。偉大なる君主が現れず、優れた家臣が集わなければ、中国大陸はまたしても分裂と暗黒の時代を続ける事になってしまうかもしれない。

②尉遅敬徳登場。劉武周の武将として南進する
隋の国がまだ存続していた頃、その武将として尉遅敬徳と言う大剛の男が現れていた。「尉遅」とは相当珍しい名前だろう。漢の国が滅んで以来、中国大陸には本格的に異民族が流入したので、もはや多民族国家と呼ぶべき状態になっており、その影響もあってか、漢の時代より前には見られなかったであろう新しい中国人の名前が現れるようになる。そもそも、隋の国自体が異民族的な軍閥を主体とした国家であり、尉遅と言う姓も漢族ではなく胡族の名である。ともあれ、尉遅敬徳は隋の年号では大業末年、西暦では617年に高陽にて従軍し、賊の群れを討って捕らえ、もって勇武を讃えられ、朝散大夫の地位を累(かさ)ねて与えられた。しかし、同年にはすでに反乱のために決起した劉武周と言う人物の偏將(副将)となっている。

劉武周は馬邑(ばゆう)と言う北辺の土地にて独立した豪傑である。劉武周は驍勇にして善く射を為したが、豪俠(ごうきょう)つまり力自慢のやくざ者たちと付き合っていたので、兄からたびたび「汝の人を選ばぬ交遊ぶりは、ついにはまさに我が一族を滅ぼす」と戒めを受けていた。武周は長じて隋の大僕に仕え、高句麗遠征の功績によって出世し、校尉(大規模な部隊を司る部隊長)の地位を得、馬邑郡の太守である王仁恭に仕えて甚だ(はなは)親しく処遇されたのだが、武周は仁恭の侍女と密通し、それが露見する事を恐れていた。その頃、天下がすでに乱れているを見て、武周は全てを解決する計略を抱いた。

武周曰く、「今、百姓は飢餓に苦しみ、死人は互いを枕として野ざらしになっているのに、王府の尹(長官)は倉を閉ざして救い恤(めぐ)む事をしない。どうして百姓の意を憂えるか」

こうして皆の怒りと怨みと煽った上で、椎牛(ついぎゅう)の祭りを行い、ほしいままに酒を飲んで曰く、

「盗賊かくのごとし。壮士は志を守り、並びて溝壑(みぞや谷)に死す。今、倉の内には粟が積まれてみな爛熟している。誰か我と共にこれを上手いこと取る者はいないか」

豪傑らは皆その問い掛けに応じた。こうして、武周は十人余りの者を連れて仁恭に謁見した上で殺し、その首を持ち出して郡中を従わせ、倉を開いて窮乏を賑わせた上で、檄文を境内へ走らせたので、その城に属する者はみな武周に帰順し、これによって、武周は一万人あまりの兵を得た。武周は太守を自称し、突厥(とっけつ)族と誼を(よしみ)結び、雁門の土地を支配下に置き、楼煩郡を撃破した。武周はとうとう皇帝を自称して格式を整え、さらに、用兵に優れた宋金剛と言う武将の帰順を受け入れて妹と婚姻させた。宋金剛は武周に対して南のかた晋陽を取って天下を争うよう進言し、武周はこれを受け入れた。

当時、晋陽つまり太原を支配していたのは李淵と言う武将だった。李淵は元々には隋の初代皇帝である文帝の外戚であり名門の出である。李淵は隋の時代から有力な武将として様々な役職を歴任しており、隋の統治が崩れて反乱軍が決起し始めても、なお、隋の将軍として反乱軍や異民族の侵入を防ぎ、ついには、太原留守と(りゅうしゅ)なった。留守とは文字通り皇帝が居ない場合に代理でその土地を治める役職である。そこで次男である李世民が晋陽の令である劉文静と共に義兵を挙げる事を首謀してきた。李淵はこれに応じ、やがて、長安を攻略。皇帝に即位して唐を建国し、元号を武徳と定めた。

つまり、劉武周は北の地にて皇帝を名乗り、李淵は中原の地にて皇帝に即位していた事になる。劉武周が天下を取るためには、南下して李淵を撃破し、中原の地を得る必要があった。

こうして、西暦619年(武徳二年)、宋金剛は二万人の兵を率いて南下し、また、突厥(とっけつ)族の集団も率いる事で、兵の強さははなはだ盛んとなった。そして、榆(ゆ)、次に、縣(けん)を襲って破り、介州へ侵攻して陥落させた。対して、李淵は太常少卿である李仲文と言う者を派遣してきたが全滅。仲文は逃げ帰った。李淵はまた右僕射である裴寂を(はいじゃく)遣わしてきたが、また敗れた。こうして、武周が迫ってくると、李淵の四男にして総監斉王の李元吉は城を委ねて遁走。武周はついに太原へ拠り、金剛を遣わして晋州へ侵攻を開始した。六日して城は陥落。唐の右驍衛大將軍である劉弘基を捕らえた。進んで澮(かい)州を取り、属する県をことごとく支配下に置いた。この際、尉遅敬徳は宋金剛と共に南進し、晋と澮(かい)の二州を陥とした後、さらに深く侵入し、夏縣の地へ至り、永安王孝基を襲って撃破し、獨孤(どくこ)懷恩や唐儉(けん)らを捕らえた。この時、劉武周の軍隊は得意の絶頂だっただろう。

だが、同年十一月、李淵の次男である李世民が劉武周の軍を討つために進発してきた。この時、李世民は二十歳を少し超えた程度の若者であったが、すでに英雄としての堂々たる風格を有していた。李世民は柏壁(はくへき)と言う土地へ駐屯した上で、殷開山と秦叔宝の二武将を遣わし、美良(びら)川において尉遅敬徳を大破した。李世民は劉武周を評し、もっぱら宋金剛を恃みにしているだけであり、その軍勢は多いが中身は空虚だとし、さらに、その軍勢の狙いは速戦にあるとし、堅営蓄鋭を以ってその鋒を挫く事にした。果たして、持久戦を仕掛けられた宋金剛の軍は飢えて逃げ出した。李世民はそれを追い掛けて介州にて接敵。李世民は部将らに小競り合いを仕掛けさせた上で、自ら選りすぐりの騎兵を率いてその陣後を突き上げた。金剛軍は大敗し、唐軍が追奔すること数十里に至った。

この時、尉遅敬徳は残った兵士を収容し、依然として介休の城を守っていた。しかし、そこへ李世民が道宗と宇文士及と言う者を送り込んで論じさせたので、敬徳は尋相と言う者や八千の兵と共に李世民に降伏する事にしたのだった。

③冠絶たる武勇によって李世民に親衛する
敬徳が帰順してくると、李世民は大いに喜び、わざわざ曲宴を開いた程だった。しかも、敬徳を右一府統軍とし、群雄の一人である王世充に対する攻撃に従わせた。李世民はかように尉遅敬徳を尊重していたが、他の武将らはそうでは無かったようで、敬徳と共に降伏した尋相や、元々には劉武周の配下だった将軍らがみな反逆した際には、李世民に仕える武将らは、敬徳も必ず反逆すると疑って、軍中にて彼を捕らえてしまった。そして、屈突通と殷開山の両名が李世民に対して曰く、

「敬徳は国家に帰順したばかりであり、その情志(感情)は未だ馴染んでおりません。その人となりは勇健かつ非常であり、また、(我が軍は)敬徳によって苦しめられる事が長かったので、すでに皆から妬(ねた)み疑われており、怨みを必ず生じます。これを留めておけば後悔の恐れが残ります。今すぐ彼を殺してください」

だが、李世民は答えて曰く、「寡人(かじん)(わたし)は違う意見だ。もし、敬徳が裏切りの計を抱いているのであれば、どうして尋相の後に付く事があろうか」

つまり、李世民は、敬徳ほどの優れた人物が裏切りを考えていたのならば、とっくの昔に実行に移していたはずだ、と考えた訳だ。李世民は速やかに命じて敬徳の縛めを解かせ、自分の寝所へ引き入れると、金宝を贈って曰く、

「大丈夫は意気を以って通じるもの。小さな疑いを意に介する必要は無い。寡人は讒言(ざんげん)によって忠実にして善良なる者を害する事は無い。だが、公(あなた)はとても痛ましい目に遭っている。どうしても去る事を欲しているのであれば、今、渡した物を費用として使って欲しい」

こうして話は終わったが、ちょうど、その日、唐軍は王世充に属する数万の歩兵ならびに騎兵の軍勢に遭遇し、戦いを挑まれ、世充の驍將た(ぎょうしょう)る単雄信(ぜんゆうしん)と言う者がまっすぐに李世民へ迫ってきた。豪傑に狙われた大将の危機。そこへ馬を躍動させて現れたのが尉遅敬徳であった。敬徳が大声で呼ばわりつつ雄信を横から刺して落馬させると、敵徒はやや後退した。敬徳は李世民と一対の翼のごとく並んで敵軍の包囲から脱出し、さらに、騎兵を率いて世充と交戦すると、わずか数合で敵軍は大いに潰え、敵の偏將である陳智略を捕らえ、六千人の槊(さく)兵(槊は矛の事)を捕らえて排除した。李世民は敬徳に向かって曰く、

「皆は貴方が裏切ると言ってきたが、私だけは天の意志に導かれて貴方を信じていた。その善意の行いに対する報いが与えられる事の何と早いことか」

李世民は敬徳に対して特別に金銀一箱を贈り、その後も恩顧が日に日に高くなった。こうして、尉遅敬徳は唐軍の正式な武将として受け入れられ、以後、その神業の如き武勇を李世民のために揮う事になったのだ。

尉遅敬徳の武勇は勇敢であったが猪突猛進では無かった。つまり、善く槊(さく)を回避し、単騎で賊軍の陣へ突入し、賊が群がって槊で刺してきても、ついに傷を負う事が無かった。また、よく賊の槊を奪って、逆にこれをもって相手を刺した。また、敵に重ねて包囲されても出入りは自在だった。

だが、李世民の弟である斉王元吉は馬に乗って槊を扱う事が得意であり、敬徳の神がかり的な武勇を軽く見ていた。そこで、敬徳を自ら試してやろうとして、槊から刃を外した上で決闘せよと命じてきた。敬徳曰く、

「ご自由に刃を振るってください。傷を負う事はございません。どうかこれ(刃)を取り除かないでください。敬徳の方では謹んで槊の刃を取り除きます」

元吉は言われた通りにしたが、ついに刃を当てる事が出来なかった。李世民は敬徳に対して曰く、

「槊を奪うのと、槊を避けるのでは、どちらが難しいか」

敬徳は対(こた)えて曰く、「槊を奪う方が難しゅうございます」

そこで李世民は敬徳に元吉の槊を奪うよう命じた。元吉は槊を取って馬を躍らせ、敬徳を刺してやろうとしたが、敬徳はわずかの間に三度もその槊を奪ったので、元吉は大いに恥じ入ったのだった。

当時の中国大陸の情勢はいまだに騒乱としており、元々には侠客だった竇(ひん)建德が板渚(ばんしょ)と言う土地へ陣営を張って李世民に挑戦してきた。対して、李世民の側では、まず、李勣(りせき)と程知節と秦叔宝らを伏兵にした。そして、李世民は弓矢を持ち出し、敬徳は槊を執り、竇建德が造った砦の下にて、その軍団を大いに呼ばわった。敵軍は大いに驚いて入り乱れ、数千騎を出兵させてきた。李世民は敵軍を誘い込むために、ためらった様子を見せつつ、少しずつ後退したが、その前後に数人の敵を射殺しており、また、敬徳は十数人を討ち取っていた。そして、ついに敵軍を伏兵の場所へと誘い込む事に成功し、李勣らと共に奮戦して、これを大破せしめた。

また、王世充の兄の子である椀と言う者が、竇建德の陣に使いしていた際に、かつて隋の煬帝が乗っていた葦(あし)毛の馬に乗っており、また、その者が着込んでいる鎧甲は甚だ鮮やかであり、はるかに軍前から出ていく際には自慢げだった。

李世民はそれを見て曰く、「彼の乗るところ、真に良い馬だ」

すると、敬徳はその馬を取りに行く事を請い、高甑生(こうそうせい)、梁建方(りょうけんほう)と共に往き、ただ三騎のみで敵軍へ真っすぐに突入して椀を虜にし、その馬を引いて帰ろうとしたが、敵軍の中からはあえて敬徳らに当たろうとする者が現れなかった。

また、臨洺(りんめい)と言う土地において、劉黒闥(こくたつ)と言う者を討つために従軍した際、黑闥軍が李勣の軍を襲ったので、李世民は馬を走らせて掩護(えんご)してこれを救ったのだが、すでに新たな黒闥軍が襲来しており、その軍と四合戦った。その際、敬徳は壮士を率いてその囲みへ突入し、敵陣を大破した。李世民は江夏王たる道宗と共にこれに乗じて出撃し、又、従いて、徐円朗を撃破した。こうして、戦功を重ねた敬徳は秦王府左二副護軍の地位を授かったのだった。

④主君に迫り、玄武門の変を引き起こす
李世民軍の活躍により、隋王朝の滅亡によって乱れた世は収まりつつあった。李世民は名目上には父たる皇帝の臣下ではあったが、薛仁杲(せつじんこう)・劉武周・王世充・竇建徳・劉黒闥と言った隋末に現れた群雄をことごとく撃ち破り、事実上には王者であった。父たる李淵も李世民に対して格別の待遇を与えたが、それでも、なお、李世民の業績に報いるには足りないと言えた。李淵の後継者は長男である李建成だが、李世民がいる限り、建成の立場は安泰では無い。そのためか、建成は弟である元吉と共に李世民を謀殺しようと企み始めた。

ある時、建成は尉遅敬徳へ密書を送ってきて、車一台分の金銀器物を贈って招こうとしてきた。いわゆる離間工作だろうが、敬徳は謝絶した。建成は怒って付き合いを絶ってしまった。また、元吉らは敬徳を深く怨んでいたので、壮士を送り込んで敬徳を刺そうとしてきたが、敬徳はその事を知ると、あえて屋敷の門を開け放ち、安らかな態度で寝転がって動こうとしなかった。当然、壮士らはしきりに敬徳の庭へ入り込んできたが、あの尉遅敬徳が相手では何事も出来ず、結局、侵入しきれなかった。

こうして、元吉は敬徳の暗殺に失敗したが、今度は、父親に対して敬徳の悪口を吹き込む事で、敬徳を獄へ繋いだ末に殺してしまおうとした。それに対しては、李世民が固く諫めて許しを得たので事無きを得たが、元吉らの敵意が消えた訳では全く無い。

ある時、突厥族が侵攻してきて鳥城をさんざんに侵したのだが、建成は元吉を将軍とし、一方、密かに謀って、李世民を昆明池へ送り込み、そこで殺してしまおうとした。皇太子らの所業はもとより許せるものでは無かったが、今や、その害意は極まっており、もはや、一切の猶予を与える訳にはいかない。敬徳はその謀略を聞きつけると、重臣である長孫無忌(ちょうそんむき)と共に、未だにためらう李世民に対して、害を取り除くよう、にわかに、重ねて、強く、働きかけた。

こうして、武徳九年六月四日、玄武門にて、李世民の手勢が李建成らを襲った。建成はすでに殺されたが、敬徳は七十騎を率いて敵の残党を追い掛けて近接した。元吉は馬を走らせて東へ逃げていたが、左右の者がこれを射ち、その馬を墜とした。しかし、李世民の乗馬も林の下へ逸(そ)れて転覆してしまい、結局、どちらもまともに動けなくなった。元吉はにわかに来たりて弓を奪い、李世民を絞めようとしたが、そこへ敬徳が馬を躍らせてこれを叱り付けると、元吉は徒歩(かち)のまま武徳殿へ逃げ帰ろうとした。敬徳は速やかに追い掛けてこれを射殺した。

武徳九年八月癸亥、(みずのとい)高祖(李淵)傳(伝)位於皇太子、
太宗(李世民)即位於東宮顯德殿。尉遲敬德封吳國公。

⑤唐王朝のために奉職し、神仙の道をもって晩年とする
李世民の皇帝即位によって、年号は「貞観」に改められた。唐王朝が大陸を再統一するに及んで、その方針も「創業」から「守成」に変わっていく。それによって王朝の中心人物は房玄齢ら文臣に移っていき、一方、武将である尉遅敬徳の影響力が減じるのは止むを得ない。それでも外敵はいまだ精強であり、武徳九年八月に突厥族が高陵へ侵攻してきた際には、敬德は涇(けい)陽(よう)にてこれを大破して千余り程度の首を斬った。また、貞観元年に起きた突厥族の入寇に(にゅうこう)対しても、敬徳は軽騎兵と共にこれに挑戦し、敵軍の名将を討ち取って撃破している。だが、敬徳は武人としての強烈な自負が有るせいか、乱世が治まった後の、文臣たちが幅を利かせている朝廷内へ馴染む事が難しかったようだ。敬德は手に入れた財産は必ず士卒に分け与えたと言うから、他人を思いやれない人物では無かったのだろうが、訐直((けっちょく)他人の秘密を暴き出して己の正しさを誇る)を好んで功績を自負していたせいか周りとの折り合いが悪くなったようだ。

ある時、宴が開かれた際に、敬徳は自分より上位の席へ置かれた者に対して怒り、

「汝は何の功が有って、我の上へ合わせて座るのか!」

と、言い放った。そんな敬徳に対して、任城王たる道宗が釈明したが、敬徳はその態度がよほど気に入らなかったのか、勃然として道宗の目を殴り、危うく失明させる所だった。この暴挙にはさしもの李世民も許さずに罷(や)めさせ、敬徳へ向かって曰く、

「朕は漢の歴史を覧(み)て、高祖(漢帝国の祖である劉邦)の功臣に身を全うした者が少ないのを見るに、なぜ、そうなったのか常に疑問に思っていた。(故に、朕は)大位に居るに及んで(つまり、皇帝になって)以来、常に功臣の保全を欲し、その子孫を途絶えさせない事を命じてきた。然るに、卿(けい)が官に居て容易(たやす)く憲法を犯した事で、初めて、韓信や彭越が殺戮されたのが漢祖の罪では無い事を知った。国家の大事とはただ賞と罰であり、恩の領分では無い。(これまで敬徳が自ら行ってきた)数々の所業を不可として、自ら身を正して慎む事に励まねば、後悔を残す事になるぞ」

その後の敬徳は長きに渡って朝廷に仕え、刺史を歴任して鄂(がく)国公に改封され、二つの州の都督となった。十七年、上奏して骸骨を乞い(引退を願い出て)、開府儀同三司という高位を授けられ、一月のうち一日と十五日のみ朝廷に出仕する事になった。そして、長孫無忌ら二十四人と共に凌煙閣において肖像画を描かれて顕彰された。敬徳は主君の戒め(いまし)を良く守って身を全うしたと言えるだろう。

とは言え、敬徳の戦いはまだ終わっていなかった。その年、李世民が自ら将となって高麗を征伐したいと言い出したのだ。敬徳は奏して曰く、

「もし車駕(しゃが)(天子様)御自ら遼左へ往き、また、皇太子は定州に居られますれば、東西二つの都へ府庫が所在し鎮守(ちんじゅ)ありといえども、つまるところ、(君主が不在なのですから)空虚であります。遼東の道は遥かにして、(高句麗遠征を原因とし、隋末の反乱の魁と(さきがけ)なった)玄感の変が起こる事を恐れます。かつ、(高麗は)辺境の小国であり、親しく万乗を労する(大軍を出して親征する)には不足でございます。良将に委ねて自ら応対させて摧滅(さいめつ)いて滅ぼす)すべき事を伏して請いまする」

だが、李世民は承知しないので、敬徳は自ら総監として従軍し、駐蹕山(ちゅうひ)において高麗を撃破した。敬徳は未だに矍鑠で(かくしゃく)あった。

とは言え、さしもの敬徳も、もはや旧(ふる)き者であるとして、帰還すると退職した。

晩年の敬徳は仙人の方術を篤(あつ)く信じ、金石を飛煉(れん)し、雲母の粉を飲食した。また、池へ高殿を築き、煌(きら)びやかかつ高らかに飾り立て、清商楽をもって自ら奉養させ、外部の人間との交際を止める事およそ十六年。あたかも漢帝国の功臣たる張良に範を取ったかのような、権力とは無縁の身の処しぶりであった。

そして、月日は流れ、顕慶(けんけい)三年に、李世民の後を継いだ高宗によって幽州都督の地位を追慕されたが、その年、逝去した。享年七十四。謚は忠武。

 

 

逸話、伝説、評価

生涯無傷
生来の武人であった事から文官達と度々衝突した。高句麗遠征から帰還した後は一切の地位を捨て引退。引退後は仙人としての修業に明け暮れ、74歳で没した。生涯の大半を戦場で過ごし、敵の包囲を突破する事も数多あったが、かすり傷一つ負わなかったといわれてる。

 

門神として崇められる
後世、尉遅敬徳は秦叔宝と対になる形で「門神」と呼ばれる魔除けの神として描かれている。その由来については様々な書物で語られているようだが、その話は『隋唐演義』でも取り上げられている。ある時、李世民は夜になると魔物に祟られて病気になってしまったのだが、秦叔宝と尉遅敬徳が門番として警護しているとすこぶる爽やかな気持ちになれた。そこで、この二人の像を描かせて門へ貼ると怪奇現象が鎮まったと言う。

 

 

まとめ

尉遅敬徳は、 先に劉武周に仕えていたが、いまだ使えるべき主君を得ていなかったと言うべきだろう。もし、李世民という若き天才に巡り合えなければ、敬徳の武名が歴史にて特筆大書される事は無かったかもしれない。敬徳は武勇においては頂点を極めていたと言えるだろうが、多くの人望は得る事が出来なかった。

もし、敬徳が秦漢の時代に生まれて劉邦に仕えていたとしたら、天下統一後に粛清されていたかもしれない。だが、敬徳は名君を得たために、身を守る事ができ天寿を全うした。

また、李世民も敬徳を手厚くもてなしたからこそ幾多の危機を乗り切って皇帝の位に付く事が出来たと言える。敬徳と李世民はその絆によって互いの宿命を覆した。どちらか一方が欠けても上手くはいかなかったはずだ。

中華最強の最有力候補である項羽、三国志の関羽と張飛達は何かしらが欠けていて大望を果たせなかった。神勇と呼ばれた尉遅敬徳も前半生は同じく時を得ていなかったが、名君と名高い李世民と出会ったことで大成できたと言えるだろう。

 

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