歴史

異民族との戦いに身を捧げた『趙充国』は、沈勇大略の名将。

趙充国は前漢の名将で、70歳を超えても宣帝(前漢の第九代目)から「反乱を起こした国に誰を将として送るべきか」と尋ねられたとき、平然と「私を超える者はおりません」と答えたという。

さらに宣帝が「羌の軍勢はどれほどか。誰を用いるべきか」と聴きと、自分の目で確かめたいと、趙充国は次のように答えた。「百聞は一見に如かず。遠くからでは兵は測れません。願わくは、急ぎ金城まで向い、そこから方略を献上したく存じます。」こうして「百聞は一見に如かず」のことわざが生まれたのである。

そんな、老いてな偉丈夫『趙充国』をご紹介したい。

 

略伝

趙充国。字は翁孫。前漢時代(前202~8)における将軍。生没年は紀元前137年~紀元前52年。隴西上邽の(ろうせいじょうけい)人。後に金城郡令居県へ徒(うつ)る。主に武帝と昭帝と宣帝に仕える。若年時には匈奴との戦いに身を投じ、それによって出世を重ね、ついには後将軍の地位にまで上り詰める。

齢七十を過ぎた後、羌族による反乱を鎮めるために自ら出陣を願い出る。その後、持久戦と懐柔策を用いて紛争を終わらせようと努力するも、宣帝の命によって、辛武賢らが将軍として出陣し、羌族との武力衝突を実行してしまう。それでも充国は粘り強く己の戦略の正しさを上奏し続け、ついには、宣帝および臣下たちからの支持を得る事に成功する。反乱鎮圧後は再び後将軍廷尉の職に復帰し、齢八十六の逝去時まで、対異民族政策について提言を続けた。

 

功績とエピソード

①匈奴の包囲を突破して全身に二十余りの傷を負う
趙充国は前漢の時代に異民族との戦いに身を投じた武人であり、老人になった後にも武人として活躍した事が特筆されるだろう。趙充国はなんと八十六歳まで生きており、平均寿命が短かっただろう当時としてはもはや仙人並の長寿だと思われたかもしれない。その長きに渡る実戦の経験から生まれた異民族に対する戦法とはいかなるものだったのだろうか。

趙充国といえども、産まれた時から老成していた訳では無い。若き日の充国は始め騎士(騎乗して戦う兵士)になったが、騎射を善くした為、羽林(皇帝の近衛隊)を補った。その人となりは沈勇にして大略あり。幼少にして将帥の節を好み、兵法を学び、四方(よも)の異民族に通じたと言われる。つまり、趙充国は若き頃より将軍としての適性があったと言えるだろう。

趙充国が漢の七代目の皇帝である武帝に仕えていた時、充国は仮司馬として二師将軍たる李広利に従って匈奴を撃ったが、敵軍に包囲されて身動きが取れなくなってしまった。漢軍は数日も食糧を不足させ、死傷者を増やしてしまう。そこで充国は壮士百人余りと共に包囲の突破を狙った。つまり、敵陣を開き、陥れ、潰えさせた。李広利は兵を率いて充国の壮絶な進撃に従い、ついに包囲からの脱出に成功した。

その時、趙充国はよほど奮闘したらしく、戦後、その体には二十余りの傷が刻まれていた。想像するだけでも痛ましい負傷ぶりだ。李広利はおそらく趙充国の働きぶりに報いるためにその事実を書状によって上奏した。結果として、充国は詔を)受けて行在所(皇帝の出張所)へ詣でる事になった。武帝は親しく充国の体の傷を見ると、声を出して感嘆した。結果として、趙充国は中郎の職を拝し、ついに車騎将軍長史に出世した。つまり、若き日の充国は命懸けの戦いぶりによって時の将軍や皇帝にまで知られるようになり、それによって出世の機会を得たと言えるだろう。

②順調に昇進しつつ、匈奴に睨みを利かせる
時代は移り、武帝の後を継いだ昭帝の御世の時、武都の氐(てい)族が反乱を起こした。充国は大将軍の護軍都尉となってこれを撃つ。そして、中郎将となり、将として上谷に駐屯した。さらに、水衝(すいこう)都尉(とい)となる。都尉とは部隊長の事であり、水衝都尉とは皇帝の所有する上林苑とそこで行われる造幣の管理を任される役職だ。つまり、これまでの充国は出世したとはいえ平の武官であったが、ここに来て管理職を任されるようになった訳だ。のちに、充国は匈奴を撃ち、西祁(き)王を獲った。そして、後将軍に抜擢され、水衝都尉と兼任するようになる。つまり、ここに至って、一軍を指揮する将軍に立身を遂げた訳だ。

その後、昭帝が崩御した。当時、漢王朝の政治は、事実上、大将軍たる霍光が動かしていた。昭帝には子が無かったので、霍光は武帝の孫である劉賀を帝位に付けたが、じきに、素行が悪いと言う名目で皇帝から退位させた。その後、霍光は宣帝を擁立。趙充国はその際に霍光と共に働き、それによって営平侯に封ぜられた。かつての傷だらけの若者が、今や王侯となり、国家の中枢にて重きを成すようになったのだ。

その後も将軍として働き、本始中年、蒲(ほ)類将軍として匈奴征伐を為し、数百人程度を斬り、また、捕虜にした。帰還後に、後将軍少府となる。後に、匈奴が十万余りの騎兵を大いに発し、侵攻を狙ってくるが、亡命者が漢に降ってこの計画を未然に伝えてきたので、漢帝国は充国を将として四万騎を九郡の縁辺に駐屯させた。匈奴の王たる単于はこれを聞いて退去した。今や趙充国は漢帝国を代表する護国の盾になったと言えるだろう。

③百聞は一見に如かず。齢七十過ぎにして氐族との戦いに乗り込む

ある時、光祿大夫の職を奉じている義渠安國(ぎきょあんこく)と言う者が、不穏な動きを見せていた異民族の羌族に対応したのだが、その手段が羌の豪族ら三十人余りを呼び出した果てに殺すと言う悪辣なものであり、さらに、千人余り程度の羌族をほしいままに殺したので、すでに漢帝国に降っていた羌族までもが恐れると共に怒り、漢帝国に反旗を翻し(ひるがえ)てしまった。こうなれば討伐せざるを得ない。

この時、神爵元年の春。異民族討伐の専門家と言える趙充国もすでに七十歳余りの老人になっていた。宣帝は老いた充国を将軍にする事はせず、代わりに、御史大夫(副丞相)たる丙(へい)吉(きつ)を使わして、誰を将とすべきか問う事にした。だが、それに対する充国の答えは強気だった。曰く、

「この老いぼれを超える者はおりません(亡踰於老臣者矣)」

だが、宣帝は、いくらそう言われても七十歳を超える老人を大将に据える訳にはいかないと考えたのか、さらに使者を出し、「将軍(趙充国)はどのようにして羌族をたびたび捕らえてきたのか。将軍に準じる力を持った者を用いようと思う(將軍度羌虜何如,當用幾人)」と、諮(し)問(もん)した。

しかし、充国は退かない。曰く、

「百聞は一見に如かず。戦場から離れた場所に居ては兵法を計る事は困難です。臣(わたくし)は金城へ馳(は)せ至りて図上方略せんと願います。羌戎は(きょうじゅう)小さな夷に(えびす)過ぎず,天に逆らって謀反(むほん)を起こし,滅亡久しからず。願わくば老臣にお任せください。心配する事はございません」

宣帝は笑って曰く「諾(分かった)」こうして、趙充国は齢七十を超えて将軍となり、羌族との戦いに赴く事になった。

④以逸擊勞、取勝之道也
この後、趙充国は金城へ着任した。そして、現場の状況をじかに確認した上で、持久戦を選択した。充国は常に斥候を遠くへ送り、必ず戦備を整えて軍営の壁を堅く止めた。その持重たる事は尤(ゆう)能(のう)にして、士卒を愛し、先に計を立て、しかるのちに戦った。軍士は毎日食事を取り、みな役に立ちたいと思うようになった。敵はたびたび挑戦してきたが、充国は堅守して捕虜を得た。そのため、羌の豪族らは何度もお互いを責めて曰く、

「お主が反乱なんぞを語ったせいで、天子が趙将軍(趙充国)を遣わしてきた。将軍は御歳八十か九十にして見事に兵を動かしておられる。もはや一戦して死を望むべきか!」

充国はさらに豪族らに使いを送り、罪を犯した者を捕らえて斬れば罪を赦免するなどと天子の名において告げた。充国の計は威信を以って投降を誘い、賊軍を解散させる事であり、こうして敵の勢力を解体する事を強く求めた。この方針では解決までに時間が掛かるかもしれないが、現実的かつ着実であり、何より、無駄な血を流さずに反乱を収める事のできる有情の戦略だと言えるだろう。

だが、そのような充国の方針に異を唱えるかのような激しい意見を述べ立てる者が現れた。それが酒泉太守の辛(しん)武(ぶ)賢(けん)だ。武賢奏して曰く、

「郡兵はみな南山へ駐屯して備えております。敵地の北辺は空虚であり、その勢いは長くは続きますまい。秋冬の適当な時期に兵を進めます。賊虜は朝夕寇(あだ)を為しており、土地は寒く苦しいですから、漢の馬は冬には活動不能になります。また、武威、張掖、(ちょうえき)酒泉には一万騎以上の兵が駐屯しておりますが、皆、多いに痩せ衰えております。よって、馬には食を与えて役に立つようにし,七月上旬を以って三十日分の食糧を備えた上で,兵を分けて共に張掖を出、酒泉と共に共同攻撃を仕掛けて、敵を虜に(とりこ)致しましょう。賊虜に水産業の者は少なく、畜産を以って生計(たつき)としております。今、自軍を分散させ、兵を分割して出撃させれば、賊虜をことごとく誅する事は出来かねますが、その畜産をほしいままに奪う事ならできます。その妻子を捕虜とし、また兵を帰還させ、冬にはこれを再度攻撃し、大いに兵を重ねて出せば、賊虜は必ず壊滅いたしましょう」

以上の意見に対して、宣帝は羌族を知る者らに対して広く議論を命じたが、趙充国や董通年は明確に反対した。その要旨は、「武賢の遠征案は千里を迂回し、膨大な量の食糧や兵器を抱える事になりますので、敵を追うのは難しく、疲れ果てるのは確実です。賊虜は梢へ(こずえ)退き、水草へ逐電し、山林へ入り、随い(したが)て深く入り、前方では険に拠り、後方を扼(やく)して(塞いで)守り、もって糧道を絶ち、必ず傷危の憂いがございます」との事であり、畜産を奪って妻子を捕虜にすると言う意見に対しては、「此殆空言、非至計也(これはほとんど中身の無い言葉です。計略とすら呼べません)」と、一蹴している。武人そして人間として成熟しきった趙充国からすれば、辛武賢による野心的かつ理屈ばかりの計画はあまりにも未熟かつみだりに犠牲を増やす誤りに満ちた内容だったのだろう。机上にて勇ましい言葉を賢しげに並べ立てる事は実戦経験が無くても可能だが、それが実現可能かどうかは現場にて幾多の戦いを経験してきた者で無ければ分からない事だろう。武人は戦争によって功績を立てねば出世しづらいため、無暗に戦いを求めがちだろうが、これは国家の方針を大いに誤らせて破滅に導きかねない危険きわまりない貪欲だと言える。

だが、宣帝は若さ故か、ついに詔を発し、侍中にして楽成侯たる許延寿を強弩将軍とし、辛武賢を破羌将軍に任命してしまった。武賢に与えられた破羌と言う将軍名からしても、攻撃的な意志が伝わってくる。それに対する趙充国の言葉は痛ましい。その要旨は、「皇帝陛下による将軍(辛武賢)らに対する詔の後、私ははなはだ苦しみを暴露(ばくろ)いたしました。かような作戦を行えば、辺境の兵は少なくなり、民は田を作り保守する事ができません。転輪並び起ち、百姓は煩い(わずら)乱れます。冬に至るを欲せば、賊虜はまさにみな畜食して多いに蔵し、険阻なる山中に依りますが、将軍の士卒らは凍えて手足にあかぎれとしもやけを生じます。どうして有利と言えるでしょうか。将軍は中國(我が国)の出費を考慮しておらず、わずか数年で勝利の証を得ようとの欲望を抱いております。将軍以外に誰がこれを楽しむとおっしゃるのか!」

この後、辛武賢らによる羌族に対する攻撃が始められたが、趙充国による上奏も長きに渡って続けられ、当初、充国の上奏に賛成する者は臣下の中で三割に過ぎなかったが、その後、五割に増え、ついには八割を占めるまでになった。丞相の魏相曰く、「私は愚かにも軍事の利害を分かっておりませんでした。後将軍(趙充国)は何度も軍冊を描きましたが(軍事的な計画書を策定いたしましたが)、その言葉は常に正しいものでした。わたくしはその計略を必ず用いるべしといたします」

宣帝は充国にこれを知らせて曰く、「私は後将軍に対して羌虜に勝つべき道について上書する事を求め、今、将軍に聴く。将軍の計や善し。その屯田および罷者に相当する人馬の数を上留す。将軍良く食し、兵事を謹んで自愛せよ」

こうして、宣帝はついに趙充国の正しさを認めた訳だが、一方では、辛武賢らによる強硬策も推し進め、詔によって強弩将軍と破羌将軍に加え、趙充国の息子たる中郎将趙卬に(ちょうごう)も征伐を命じてきた。強弩将軍は出撃して四千人を降伏させたが、破羌将軍辛武賢は二千人程度の首を斬った。趙卬もまた敵の斬首者と降伏者を二千人余り程度出した。そして、趙充国の陣営ではまた五千人余りの降伏者を得た。

やがて、停戦の詔が出たが、充国は独り留まり屯田を続けた。血気盛んな軍人らによる不要な暴挙によって数多(あまた)の血が流れ、羌族はみだりに殺され、自国の兵は傷つき、何より、国民の営みが破壊された。充国は戦いそのものを目的とするのではなく、国を良く治め、その土地にて生きる人々の生活を守り養うために戦おうとしていたのだろう。そうでなければ、どうして戦いが終わってもなお屯田を続けるだろうか。

明年五月、充国は奏して曰く、「羌族ら必ずや自ら危うきを得ん。屯兵を罷(や)める事を請わん」

つまり、もはや決着が付いたので、屯田を止める事を願い出たのだ。そして、充国は軍を整備して帰還した。
その後、善浩星なる者が充国を迎え賜うて語るには、「世の中の人々は破羌、強弩将軍の出撃によって多数の斬首と降伏を獲得し、破壊を以って虜と(とりこ)したと思っているようですが、道理を弁えた人々は、賊らは困窮して弱っていたので、軍隊で攻撃せずとも必ず自らの意志で降伏していたはずだと考えております。今、将軍(趙充国)と見(まみ)えますに、将軍が無事にご帰還なさった功績は、愚臣(わたくし)の及ぶ所にあらず。将軍の計略が間違っていなかった事が分かりました」

充国答えて曰く、「吾(われ)は年老いて、爵位はすでに極まっている。どうして征伐を嫌い、その一時を以って明主を欺く(あざむ)や! 兵の勢いは国の大事。まさに後法を為す。この老臣が只一つの余命を以って陛下に兵の利害を明言す。吾が死んだら、誰がまさに復(ま)たこれを言うのか」

ついにその意見を上奏すると、宣帝はその計略の正しさを認め、辛武賢を退役させて酒泉太守に帰らせる一方、充国を後将軍衛尉に復帰させたのだった。

⑤八十六歳で大往生す
その後、羌族は降伏した。こうして、趙充国の余生にも静謐(せいひつ)の時がやってきたかに見えた。しかし、趙充国に人生最大とも言える不幸が訪れる。その元凶は辛武賢だった。武賢は羌族との戦いで武功を挙げたにも関わらず、元の官職に戻されてしまったため、その原因を作った趙充国を深く恨んでいた。武賢は在軍中に充国の息子である趙卬と宴の席にて会話する機会があったのだが、その時に聞いた趙卬の話の内容が宮廷の秘密事であり、それを漏らした事は罪に当たるとして弾劾したのだ。結果として、趙卬は自殺してしまった。

充国は息子の骸骨を乞い、安車(老人や婦人用の馬車)と四頭立ての馬車および黄金六十斤を賜った。その際の充国の心境は伝わっていないが、深い悲しみを抱いていた事は想像に難くない。だが、それでもなお趙充国の忠勤の精神は滅びなかった。朝廷にて四方の異民族に関わる大会議が行われる毎に、充国は常に軍略と共に参じて籌策((ちゅうさく)はかりごと)を問われた。充国は死ぬまで国家の石柱で在り続けた。

そして、甘露二年、御年八十六にして、薨去。謚は壮侯。

 

逸話、伝説、評価

①「百聞は一見に如かず」の元祖
有名な格言だろう「百聞は一見に如かず」は、趙充国の発言が出典だと言われている。机上の学問のみでは役に立たず、実情を己(おの)が目でしかと見なければ真の方案を練る事が出来ないと言う、いかにも趙充国らしい実際的かつ知的な表現だろう。

②兵法書を引用しつつ実戦を語る真の知性
趙充国が宣帝に奉った文章の中に、以下の内容が有る。
「臣は兵法に聞く。『攻に不足する者は守り餘(あま)り有り』、又曰く『善く戰う者は人を致して人に致されず』。今、罕羌は(かんきょう)敦煌(とんこう)を為すを欲し、酒泉に寇(こう)す。兵馬を飭え(ととの)、戰士を練り、以って須ら(すべか)く其(そ)れに至り、坐して敵の術を致し得ん。以逸擊勞、勝を得る道なり」

ここで述べられているのはおおむね『孫子』の兵法書に則った言葉だ。攻め手に欠ける場合にはまず守りを固めて敵に乗じる隙を与えない、また、戦上手は相手を思い通りに動かし、相手に動かされる事が無い、と言う意味になるだろう。また、以逸擊勞の戦法は、後の「兵法三十六計」と言う兵法書に「以逸待労」の計として収められている。「逸」とは余裕の有る状態を表し、余裕を持って敵の疲れを待つ、と言う意味になる。趙充国が用いた「以逸擊勞」と言う表現の場合にはより積極的な意味合いが強くなるだろう。その言葉には老いてなお勇壮たる気概が満ちている。

 

まとめ

趙充国は若き日には善く兵法を学ぶと共に敢闘し、長じては社稷の将として重威を成したが、老いてなおその将器と忠烈さには翳りが生まれなかった。何より、武力に溺れず、軍士や民衆を労わり、国家に敵対した者たちにさえ温情を与えて降伏を呼び掛けた。

趙充国はまさしく国士と呼ぶに相応しい高潔な度量を持った将軍だった。同時代の霍光と共に時代を代表する名将だったと言える。

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