歴史

足利尊氏も恐れた『北畠顕家』は花将軍の異名を持つ若きエリート公卿。

南北朝時代と言えば1に楠木正成、2に足利尊氏、3に後醍醐天皇、4に新田義貞という具合の知識しかなかった。それを覆したのは、NHK大河ドラマの太平記である。

太平記で名前しか知らなかった北畠顕家を知ったのだ。そしてこれまたKOEIの信長の野望シリーズのいにしえ武将で登場した北畠顕家のパラメータの高さに興味を持ち、あれこれと調べてみたこともある。

そんな北畠顕家をご紹介したい。

 

略伝

北畠 顕家(きたばたけ あきいえ、1318年4月3日~1338年6月10日、享年:21歳)は鎌倉時代末期~南北朝時代にかけて活躍した貴族、公家、南北朝時代、南朝方の武将である。

出生地は不明。官位は建武政権においては従二位、右衛門督、検非違使別当、権中納言、鎮守府大将軍、南朝においては権中納言、陸奥大介、鎮守府大将軍、贈従一位、右大臣といずれも高位の役職であった。主君は後醍醐天皇→義良親王(後の後村上天皇)である。

1321年1月にわずか3歳で叙爵される。1332年には若くして従三位参議・左近衛中将となった。これは最年少クラスでの叙任であり期待の若手であったことが分かる。さらに1333年には建武の新政を補佐、従三位陸奥守拝命、正三位に叙任、1334年に北条氏残党の追討し、従⼆位に叙任された。1335年に鎮守府将軍を拝命し1336年からは足利尊氏らと度重なる戦いを繰り広げた。

公家の生まれでありながら、武家を統率していた足利軍を何度も破った名将。1338年6月10日に21歳の若さで亡くなった。

 

功績とエピソード

①最年少クラスでの出世
北畠顕家は、前例のない10代前半で参議となるという、将来を期待されていた人物であった。

鎌倉幕府滅亡時の建武の新政がはじまると、父・親房は後醍醐天皇を補佐するポジションとなる。顕家自身も正三位参議・陸奥守に任じられている。着任にあたっては義良親王(後の後村上天皇)を奉じて、顕家の父・親房も同行した上で、陸奥国府多賀城(現在の宮城県多賀城市)に赴任している。顕家は、その地で東北地方の統治を任されている。

さらに、翌年には北条氏の残党討伐で功を上げたことにより、従二位に任じられている。このことは、南北朝時代の中原師守の日記である『師守記』においても「幼年人、参議に任ずる例」として取り上げられていることから、当時としても異例の史上最年少出世であったことが分かる。尚、当時の参議の位は、大臣、大・中納言に次ぐ重職である。

このような異例のスピード昇進から顕家は、麒麟児、俊英として、後世の小説などの創作物で扱われている。

②足利尊氏討伐
若くして異例の昇進を遂げた北畠顕家であったが、中先代の乱にて足利尊氏が謀反を起こしたことをきっかけに激動の戦乱に巻き込まれていくことになったのである。

後醍醐天皇が派遣した新田義貞ら率いる官軍は、箱根・竹ノ下の戦いで尊氏に大敗を喫したことによって、散り散りになって京都に逃げ帰ってきた。『太平記』によれば、この時顕家は義良親王を奉じて、5万の軍勢を率いて尊氏方を追ったと伝えられている。

顕家は、まず足利義詮・桃井直常らの足利方を破って鎌倉を制圧すると、東海道を進み、近江愛知川に達するという約半月で600km(一日あたり40km)という驚異的な速度で進撃し、義貞や楠木正成と合流した後には、園城寺にて細川定禅率いる足利方の軍勢を破るに至った。

これを受けて、尊氏はいったん京都を離れて撤退。顕家は、義貞や正成とともに追跡して勝利し、尊氏は西国へと落ち延びていくのであった。
続いて朝廷は、尊氏討伐の勅を発して、新田義貞を将とした討伐軍を出を出すも、足利方討伐軍に勝利し再度京都へ進撃するのであった。

③度重なる戦い
北畠顕家は、再び義良親王を奉じて霊山から上洛の途に就いた。顕家にとって、これが最後の上洛となったのである。

この頃、顕家は国府が移っていた霊山城を拠点に、東国で足利方と戦っていた。後醍醐天皇より京都奪還の勅令が出されたこと、父から伊勢への援軍要請が出されたことを受けて、上洛を目指して霊山城を発つこととなったのであった。

利根川の戦い、安保原の戦いと相次いで足利方を破り、鎌倉を攻略して斯波家長を討ち取る快進撃を果たす。鎌倉から進軍した後には、美濃国で兵を集め阻みに来た足利方と応戦し、青野原の戦いで大勝するも、顕家方の軍勢の損害も大きかったため、すぐの入京は諦めて、伊勢国へと向かった。

また、足利方との出川・櫛田川の戦いでは勝敗はつかず。続く、大和の国での般若坂の戦いで桃井直常に敗退したことで、顕家は義良親王を吉野へ逃がして、河内へと退却するのであった。足利方とはその後も一勝一敗を繰り返しつつ、度重なる戦いに顕家方は徐々に消耗していく。

湊川の戦いでは、楠木正成が死亡し、新田義貞は破られ、後醍醐天皇は比叡山に立てこもるなど徐々に戦況は不利になっていったのであった。

④最期
兵力の減少から上洛を諦め、伊勢伊賀へと転した北畠顕家。追い打ちをかけるように北朝側は、顕家討伐の軍を発して、諸将は顕家討伐のために伊勢へと進軍するのであった。

以後、北朝方・足利方と激しい戦いを繰り広げるも、敗れて和泉へ向かう。顕家らは、和泉で北朝方相手に奮戦するも、連戦による疲弊から石津の戦いで壊走し、その後、討たれて20代前半という若さで人生の幕を閉じることとなった。

 

逸話、伝説、評価

①生い立ち
北畠親房の長男として生まれた顕家ではあるが、母や生誕地についての記録は残されていない。北畠家は、村上源氏の支流である中院家の傍流にあたり、本家の久我家は精華家として、大臣や源氏長者の地位を占めた名門である。北畠家もその傍流として、歴代の当主は権大納言を務める家柄であった。

父・親房は、顕家が生まれる頃には権中納言に任じられているおり、後醍醐天皇の治世下で吉田定房・万里小路宣房とならんで「三房」として信任を得ており、その後も要職を務め重用されていた。

また、顕家も自身の才能と父の権勢の影響で3歳にして叙爵。数え14歳にして、前人未到の従三位参議・左近衛中将の位に任じられるという異例のスピード昇進を遂げている。顕家は、家柄、才能共に恵まれたエリート公家であった。

②才色兼備
後醍醐天皇に寵愛もあり、異例のスピード昇進を果たした北畠顕家。そんな顕家には、美少年(美青年)であったという説も残っている。

北山へ行幸した後醍醐天皇が花の宴で自ら吹く笛にあわせて、13歳の顕家が陵王を舞ったことは有名な逸話であるが、この陵王自体が中国の美男子として知られる人物がモチーフとなった作品でもある。当時の記録によれば、「幼く可愛らしい姿であり、しかし態度はしっかりしていた」と『舞御覧記』にあり。

また、『増鏡』においては、その舞について「桜の花に夕日が映える中、顕家が輝くが如くに登場した」と表現されているほど舞の技術・容姿ともに優れていた様子であった。

これらの記録から、顕家の存在感は際立ったものであったことがうかがい知ることができる。この逸話から大河ドラマでは、美少女として有名な女優であった当時16歳の後藤久美子さんが演じるなど顕家=美少年説は今日まで語り継がれている。

③風林火山
北畠顕家は、武田信玄よりも先に「風林火山」の陣旗を用いていたという逸話も残っている。

顕家が足利尊氏との戦いに際して、風林火山の陣旗を掲げて戦って見事に打ち破り、尊氏を九州へと敗走させたと伝わっている。

④驚異の進撃速度
足利方討伐のために北畠顕家が率いた軍が、奥州白河関から遠江に至る約600kmを16日間での進軍は、日本史上屈指の速度である。

例えば、安土桃山時代、本能寺の変を受けての豊臣秀吉らによる中国大返しも、当時としては驚異的な速度であったと言われているが、この中国大返しは10日間で約200kmの進軍であった。

また、秀吉が通った山陽道は既に道が整備されていたことや、姫路までは(黒田家などの所領で)自身の勢力圏内の移動であったという利点もある。一方、顕家が通った道の一部は、利根川などの大小の河川と湿地が入り交じり、道中は下野、武蔵、相模、三河など足利氏と関連が深い地域が多数ある状況であった。

その悪条件下において顕家は、驚異的な速度を維持したまま京都へと達して、疲労をものともせずに尊氏らを破っていると言う。ちなみにこの時、顕家は数えで18歳と伝えられており、現代であればSNS炎上間違いなしのブラックな労働環境に違いない。

⑤顕家の上奏
『北畠顕家上奏文』は、顕家が最後の出陣にあたって後醍醐天皇に上呈したものとして知られている。

当時、やりたい放題であった後醍醐天皇へ対して、上奏文という名の実質的な苦言を呈した内容であり、聞き届けられないならば山に籠るとまで言い残したと言う。さすがの後醍醐天皇も顕家からの決意のこもった上奏文の内容は、多少は聞き入れたと伝わっている。

具体的な内容としては、「大がかりな内裏の工事を止めて、贅沢を控えて、増税はお控えください」「代々朝廷に仕えてきた貴族の荘園を取り上げたり、卑しい身分の者を近づけ重用し、官位を与えたりするのはお止めください」といったものであった。

 

さいごに

動乱の時代にわずか3歳で叙爵され、都を離れて各地を転戦し、南朝を父子ともに支えてきた北畠顕家は、生き急ぐように20年弱の生涯を閉じた。顕家や楠木正成らを失ったこともあり、その後南朝は消滅し、足利尊氏らが台頭して武家による政が行われる時代に本格的に進むこととなったのである。

私は歴代大河ドラマの中で伊達政宗と太平記が好きだ。太平記では武田鉄矢さんの楠木正成が未だに印象に残っている。本記事を書くにあたり、太平記を見直したが後藤久美子さんが演じる北畠顕家も美麗で印象深かった。

現代であれば、毎日適当に遊んで暮らし、国のこと以前に自分や家族のことすら考えていないような人が大勢いる年齢(私はそうでした)で国や大義の為に命がけで戦う人がいたこの時代は、なんと言えば正解か分からないが、とにかくとんでもない時代だったと思う。

そんな時代だったからこそ、私たちはその歴史、物語に惹かれるのだと思う。

-歴史

Copyright© たいらblog , 2022 All Rights Reserved.