歴史

春秋五覇の一人『荘王』は、逸話を多く持つ楚国第一の名君。

数々の逸話を持ち、優れた手腕で覇者となった楚の『荘王』は、その歴代君主の中でも最高の名君と言われている。その『荘王』の充電時代に命をかけて諫言したのは「伍挙」といい、「屍に鞭を打つ」の故事で有名な伍子胥の先祖である。伍子胥といえば呉王の闔閭に何度も孫武を登用するように説くなどした名将である。

現代社会においても人の上に立つ役割を担っている人は是非参考にして頂きたい『荘王』をご紹介したい。

 

 

略伝

楚の荘王(熊侶)姓は羋、氏は熊。諱は侶、諡は荘。中国春秋時代(前770~前403年)における楚の国の第22代の王。生年不明。没年前591年。即位直後には酒と女に溺れて暗君ぶりを発揮したが、ある時を境に名君に一変して国内の人事を大いに刷新した。軍事面での功績が大であり、領土を拡張し、一時は周の国都に迫るなどして国威を発揚させた。後世、その業績によって春秋五覇に数えられるようになった。また、数々の逸話を有しており、「鳴かず飛ばず」「鼎の軽重を(かなえ けいちょう)問う」と言った故事で知られる。

 

 

功績とエピソード

①春秋時代における覇権の成り立ちと楚の国
楚の国は主に中国大陸の南部に位置する大国である。文化圏としては蛮夷に近いが、領土は広く、常に他国の脅威として存在していたと言える。その国力が飛躍的に増大したのは荘王の時代だと言われている。

そもそも、春秋とはいかなる時代だったのか。かつて中国を統一していた周の国は春秋時代にはすでに有名無実に近くなっており、代わりに、どの国が大陸の政治を主導するかと言う問題が重要になっていた。各国は大陸の主導国を「会盟」と呼ばれる一種の国際会議によって決定するようになった。その主導国が覇者として認定されるようになったと言える。

初期に覇者となったのは、名宰相「管仲」をようした斉の桓公であり、その次に覇を唱えたのが晋の文公だ。西暦前632年、晋の文公は城濮の戦いにて三舎を避けた上で楚の軍隊を撃破した。この戦果によって晋の国が大陸にて君臨するようになったのだ。かような情勢が続く中で、荘王は即位した。西暦前614年の事である。

②三年蜚(と)ばす鳴かずも、豹変して鉦鼓(しょうこ)の懸(けん)を絶つ
晋の国によって粉砕され、捲土重来を期したい楚の国であるが、新たに王となった荘王はとんでもない昏君(馬鹿殿)ぶりを発揮した。荘王は即位しても政治について何も号令を出さず、日夜遊びにふけった。それどころか、国中へお触れを出して曰く、「あえて諫める者あれば死して赦さず!」

つまり、俺の遊びを邪魔する奴は処刑するぞ、と言った訳だ。荘王は左に鄭(てい)の姫を抱き、右に越の女を抱き、坐して鉦鼓を聴いた。こうして、女を抱き、音楽を楽しんで、愉快に過ごすこと三年。とうとう、荘王に諫言する者が現れた。その者の名は伍挙と言う。伍挙曰く、

「ここに鳥が居ります。その鳥は丘に在り、三年もの間、飛ばず鳴かず。これは何と言う鳥でしょうか」

ちなみに、都市国家は丘の上へ建てられやすく、中国の都市国家の名前にも丘を含む物が多いと言われているので、丘に在る鳥すなわち国王であると解釈する事も出来る。かような伍挙の謎掛けめいた進言を聞いた荘王はこう答えた。

「三年飛ばずとも、飛べばまさに天を沖する(突く)。三年鳴かずとも、鳴けばまさに人を驚かす。挙よ、退け。吾は分かっている」

荘王はここに至ってようやく昏君の裏に潜む別の顔を見せたと言える。とは言え、伍挙の諫言の後、荘王のみだらな遊びはますます甚だしくなり、それが数ヶ月に達した。とうとう大夫たる蘇従が荘王を真正面から諫めるためにやってきた。荘王曰く、「汝は命令を聞かないのか」対して曰く、「殺されるを以って主君の心を明らかにするのが臣の願いでございます」

その時を境に、荘王の態度が一変した。荘王は左手で蘇従の手を取ると、右手で剣を抜き放き、それによって鐘や鼓の掛け紐を絶った。これが荘王による淫楽生活終了の印となった。翌日から荘王は名君に豹変し、政を(まつりごと)聴き、数百人の悪しき者らを成敗し、数百人の善き者らを昇進させ、伍挙と蘇従に政を任せた。国の人々は大いに喜んだ。

つまり、荘王は三年もの間、昏君のふりをして臣下らを試し、その本性を容赦なく鑑定していたと言う事だろう。人間とは相手に応じて態度を変え、特に目上の者や自分にとって利益のある相手に対しては、善人を演じて本音を隠しがちな存在だと言えるかもしれない。ましてや、相手が王であれば尚更だろう。だが、荘王が昏君のふりをしている間、性根が悪い者ほど荘王をあなどって悪行を為した事だろう。逆に、正しい性根を持った者は死を覚悟して荘王に正しい行いを勧めてきた訳だ。荘王はそれらを全て覚えており、三年の後に内患を全て一掃し、真の忠臣賢者を選んで政治の中枢に据えたとも言える。

③軍を率いて周へ至り、鼎の大小軽重を問う
こうして、荘王は名君として動き始めた。この年、荘王はさっそく庸の国を滅ぼして威を発した。そして、荘王の六年、宋の国を討ち、五百乗もの戦車を獲得した。この時代、中国大陸には無数の中小国家が乱立しており、荘王はその小国を攻めて覇業を推し進めた訳だ。

そして、荘王の八年、荘王は軍を発して討伐を行い、長き道程の果てに、中華文明の中枢たる洛陽へ至った。そして、周の近郊にて観兵を行った。つまり、荘王は望めば周王朝を滅ぼす事すら出来る距離にまで達したと言える。それに対して、周の定王は王孫満と言う賢者を遣わして労をねぎらってきた。

その際、荘王は王孫満に対して鼎の軽重を問うた。鼎とは食べ物を煮るための三脚の容器であり、王権を象徴する神器でもある。つまり、荘王は、「周王朝なんてものは、もはや名ばかりのちっぽけな軽いものではないのか」と、化けの皮を剥ぐような事を遠慮なく言い放ったのだ。しかし、王孫満は一歩も退かない。曰く、「徳に在り。鼎に非ず」

つまり、周王朝について問うべきは、国力や権威では無く、正しい道義を踏んでいるかどうかです、と、返した訳だ。

だが、荘王は納得しない。曰く、「子(先生)よ、九鼎を阻む事無き! 楚の国では鉤を折りてこれをついばむ。足を以って九鼎を為さん」

つまり、鼎なんて楚の国では粗末な扱いですよ、周の王室もさっさと楚の国に従いなさい、と言う事だろう。だが、王孫満はさらに言葉を揮った。

「ああ、君王はお忘れですか? 昔、虞夏(ぐか)の王朝が栄えし時、遠方より皆至りて、貢ぎ物の黄金は九牧、鼎を鑄し、物を象り、百物にしてこれを備え、民を使わして神姦(怪物)を知りました。ですが、桀王には徳に乱れが有り、それによって、鼎が殷王朝に遷(うつ)ったのです。それから殷が六百年ものあいだ載祀(さいし)いたしましたが、紂王が(ちゅうおう)暴虐だったために、鼎は周王朝に遷りました。徳の休明(立派かつ麗しい事)は小といえども必ず重し。その姦回昏乱は大といえども必ず軽し。昔、成王は鼎を郟鄏((こうじょく)周の旧都)において定めましたが、これより世を占うこと三十代、年を占うこと七百年。これは天の命ずる所です。周の徳は衰えしといえども、天命いまだ改まらず。鼎の軽重、いまだ問うべきにあらず」

過去の王朝の例を見れば、鼎つまり王権が動くかどうかは、国が大きいかどうかではなく、統治者が徳を失ったかどうかで決まっており、周王朝は確かに衰えているが、王権を失うほど徳を失っている訳では無い、と言う事だろう。

さて、以上の言葉を聞いた荘王の反応は、実にあっさりしていた。
楚王すなわち帰る。王孫満の立派な態度に感心したらしく、そのまま何もせず帰った。

荘王の性格には極めて淡泊なところがあるようだ。つまり、覇者たらんと欲しているようだが執拗(しつよう)では無く、眼前に仁義を見ると、実に容易く自国の利を捨てて敵に情けを掛けて去っていく。ややもすれば陰険過酷になりやすい乱世において、荘王の恬淡(てんたん)とした心根には清々しさすら覚える。但し、ここまで必死に付いてきた兵士らの心情を思うと手放しに誉めるべき事なのか迷いもする。荘王は全く異彩なる名君であった。

④蹊田奪牛を(けいでんだつぎゅう)止め、陳の国に信義を通す
荘王はその後も覇業を推し進めた。九年には讒言(ざんげん)による誅を恐れて反攻してきた若敖氏(じゃくごう)を撃滅し、十三年にはこれを滅亡させた。さらに、十六年には陳の国を討伐し、夏徵舒を(かちょうじょ)殺した。徵舒はその君を弑逆し(しいぎゃく)た故に誅を加えたのだ。荘王は陳を破った後、陳の国を支配下に置いた。群臣はみな慶賀した。しかし、申叔時と言う者だけは慶賀しなかった。荘王がその故を聞くと、申叔時曰く、

「庶民の話に曰く,牛を牽(ひ)いて他人の田を通ったところ,田主は(勝手に田を通って荒らした罰として)その牛を取りました。他人の田を通った者は正しいとは言えませんが、その罰として牛を奪うのは極端すぎます。さて、王は陳の内乱に乗じて諸侯を率いてこれをお討ちになられましたが、これを義戦と称しつつも、実際には陳の領土を奪ってしまわれました。また何を以って天下へ号令するのですか」

荘王は田主のように正義をふりかざして夏徵舒という咎人(とがびと)を罰したが、それにかこつけて陳の国そのものまで奪い取ってしまうのは利益を貪るものであり、かような余分な略奪行為をしておきながら正義と称していては、もはや天下へ号令しようとも通りませんよ、と言う訳だろう。

荘王はその言葉に感じ入ったようで、その後、陳の国を陳の王に返した。利益よりも信義を重んじたその行動は荘王の面目躍如と言える。

⑤大国晋と雌雄を決し、楚の覇業を完成させる
荘王の覇道は仁義を通しつつもさらに拡大していった。17年の春、荘王は鄭の国を包囲し、三月にはこれに勝利した。自ら皇門へ入ると、鄭の為政者(いせいしゃ)たる襄公が肉袒(にくたん)し(上半身の肌を露わにし)、羊を牽(ひ)いて迎えてきた。これを「肉袒牽羊(にくたんけんよう)」と言い、謝罪と降伏の意を表す。なお、羊を牽くのは料理人として貴方に仕えたいと言う意味らしい。

鄭の襄公は堂に入った降伏の言葉を恭し(うやうや)く述べてきた。楚の群臣らは「王よ許すなかれ」とあらかじめ釘を刺してきたが、案の定、荘王は、

「その主君が良くへりくだる事が出来るのであれば、必ずその民も信用できる。何故それを断つべきか」

そう言って、自ら旗を手にして左右の軍を差し招き、兵を去り三十里の舎を退いたと言う。かように、荘王の仁義は相手の性情を見抜く眼力によって行われていたとも言える。その賢明さと篤実さが荘王を単なる覇王では無く名君たらしめているようだ。

その後、荘王は許の国を平定するなど影響力を増した。そして、その年の六月、ようやく鄭の国を救援するために晋の軍隊がやってきた。楚の国からすれば、かつて、晋の文公によって大敗の憂き目に遭わされ、覇権を握られた雪辱を果たす機会が訪れたと言える。

当初、晋の軍隊は救援しようと思っていた鄭の国がすでに降伏した事を知り、撤退しようとしたが、中軍の佐(第二位の将軍)である先穀の独断に引きずられて、止む無く戦う事にした。一方、楚の側でも、主戦派である伍参(ごしん)と非戦派である令尹(れいいん)(宰相)の孫叔敖に(そんしゅくごう)よって意見が割れていた。それでも一旦は和睦する事になったのだが、和睦のためにやってきたはずの晋からの二人の使者が攻撃を仕掛けてきた。使者らは攻撃に失敗して退却したが、それを楚王の本陣の兵が追い掛けた。それによって本陣の兵がそのまま晋の軍隊の中へ突出しそうになったので、孫叔敖は臨機応変に判断をひるがえして突撃を命じた。

結果として、不意を突かれた晋の軍隊は全軍撤退を選んだが、下軍と中軍は撤退に失敗して壊滅した。黄河を渡って撤退しようとした兵らも、舟の数が足りないので、限度を超えて舟へ群がった。このままだと舟自体が転覆する恐れがあったので、すでに舟へ乗り込んでいる兵は後から舟へしがみ付いてくる兵の指を斬り落としていった。そのせいで、舟の中には切り取られた指が大量に残った。結局、撤退に成功したのは上軍だけであり、戦いは楚の国の完勝となった。後世、これを邲(ひつ)の戦いと呼び、以降、楚の荘王は晋に代わって天下の覇者として君臨する事になった。

その後も、荘王の戦いは続いた。二十年には宋の国を包囲し、五月になっても包囲を続けていたのだが、そのせいで、城内では食糧が尽き、お互いの子を取り換えてその肉を食い、骨を砕いて炊くと言う惨状に陥った。そこで、宋華元と言う者が城から出てきて荘王に惨状を訴えた。それに対する荘王の回答は実に簡潔だった。

「(あなたは)君子だな!」

ついに戦いを止めて去っていった。それから三年後、荘王は亡くなった。
荘王は最後まで相手を許して去る事のできる名君であった。

 

 

逸話、伝説、評価

①絶纓の会
前漢の劉向が著した説話集である『說苑』には、楚の荘王について以下の話が記されている。

楚の荘王は群臣に酒を賜り、日暮れてたけなわだったのだが、ある時、燭台の明かりが消えてしまった。その暗闇の中にて、ある者が荘王の美人の衣を引いた(つまり側室の女性に対して男女の悪戯をしようとした)者が居た。美人はその男の冠の纓(ひも)を引っ張って断ち切ると、荘王に対して事情を説明した上で、灯火を付けて纓を絶たれた犯人を捜してくださいと願い出た。しかし、荘王曰く、「その者は酒を賜って酔ったから礼を失しただけの事だ。なぜ夫人の節を顕す(あらわ)ために士に屈辱を与える事を欲するのか」。そして、左右の者に命じて曰く、「今日、私と共に飲む者のうち、冠の纓が絶たれていない者は楽しまず!」荘王の命に応じて、群臣百人あまりが皆その冠の纓を絶った後に火を灯し、終わりに至るまで楽しみ尽くした。

それから三年して、晋と楚の間で戦が起こった。その際、一人の臣下が常に前へ出て、五合五奮して敵の首を取り、ついに、勝利を得た。荘王怪しみて問うて曰く、「私は徳が薄く、また、かつて貴方を格別に扱った事が無いのに、貴方はなぜかように死地へ出て疑う事が無かったのか」。すると、その臣下曰く、「私はまさに死んだ身なのです。かつて、酔って礼を失した者を、王は隠忍して誅を加えませんでした。私は隠蔽(いんぺい)の徳を以って罪を明らかにされなかったおかげで、思い切らずに事を終える事ができまして、それをもって王に報いんとしました。肝臓や脳を地に塗れさせ、敵を久しくすすぐために頸(くび)の血を用いる事を常に願っておりました。私こそすなわちあの夜に纓を絶たれた者です」。ついに、晋軍は破れ、楚は強を得た。陰徳ある者には必ず陽報あり(隠れて徳を積む者には必ず目に見える報いがあるものだ)

 

②京観(けいかん)を作らず
春秋時代の歴史書である『春秋左氏伝』によると、宣公十二年の夏、つまり、邲(ひつ)の戦いの後に以下の事があった。

荘王の臣下である潘党(はんとう)と言う者が晋の屍を用いて京観を作る事を提案した。京観とは敵軍の屍を用いて作る記念碑の事だ。潘党曰く、「私は聞いております。敵に勝てば必ず子孫にそれを示し、もって武功を忘れないようにすると」。だが、荘王曰く、「それは私の知っている所とは違う。武は矛(ほこ)を止めると書く。(中略)周の武王は暴を禁じ、兵を収め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにした者だ。故に、子孫はその功績を忘れてしまう事が無い。(中略)このように、武王には七つの德があるが、我には一つも無いではないか。それなのに、何をもって子孫に示すのか。(中略)古の明王は不敬を討伐し、その鯨鯢(げいげい)(大悪人。悪党の首領)を取ってこれを封じ、以って大戮を為し、これにおいて京觀がある。今、晋の民に罪は無く、皆、忠義を尽くして君命によって死んだのだ。それなのに、何を理由にして、さらに京觀を作るのか」

 

 

まとめ

楚の荘王は春秋時代の覇王として名を残したが、その逸話はむしろ武を収めて仁義を通す内容がほとんどであり、英雄の心を感じさせる。後に孔子は楚の荘王が陳の国を陳の王に返した事について「賢きかな楚の荘王。千乗の国(大国)を軽んじて一言を重んじた」と述べて称賛した。

また、老子は「善くする者は果たして已む。敢えてもって強をとらず(善き戦士は目的を果たせば戦いを止め、それ以上、力を振るおうとはしない)」と述べたが、荘王の行いこそこれに当たるだろう。荘王は武力によって天下へ覇を唱えたが、その武力と権威は大らかな仁義と賢明さによって生み出されたものだと言える。道徳家である孔子すら武で覇を成した荘王を称えたのだから。

三年鳴かず飛ばずのエピソードは、どうしても織田信長を思い浮かべてしまう。もちろん荘王の方が圧倒的に元祖だが、信長のうつけ時代から有能さを表わす逸話としては分かり易い。

それにしても三年は長くないか?と思うのは私だけだろうか。王族に生まれた運命を受け入れ、名君として自らを律する前に好き勝手にしてみたかった期間も少しはあるのではないか?と意地悪な想像をしてしまう。

いずれにせよ数多の君主がいた中国史の中で、数えるほどしかいない名君の一人であるのは間違いない。

 

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