歴史

光武帝のために戦い続けた『馮異』は、雲台二十八将でも屈指の名将で万能の大樹将軍。

中国史には多くの皇帝が存在するが、名君となるとそれほど多くはない。そして長い中国の歴史の中で名君と言えば?という問いをした場合、必ず名前があがるのが、唐の太宗である李世民、清の聖祖である康熙帝、そして後漢の光武帝である劉秀である。

劉秀は、三国志の劉備達が成しえなかった漢の最高を遂げたのはもちろん、自身がスーパーチートマンであったこと、嫁もスーパーウーマンであったことだけでなく、部下もスーパーマが多かった。そのチートマン劉秀の部下の中で特に優れた28名を「雲台二十八将」と称している。

そして「雲台二十八将」の中でも光武帝劉秀が父として敬った『馮異』をご紹介したい。

 

 

略伝

馮異(ふうい)。後漢王朝(二五年~二二〇年)における武将。字は公孫。光武帝の功臣を集めた「雲台二十八将」の一人。潁川(えいせん)郡父城県出身。読書を好み、『春秋左氏伝』や『孫子』を能くした。始めには前漢を滅ぼした王莽(おうもう)の下で潁川の郡掾と(ぐんじょう)して働いていたが、反乱軍の将軍として潁川を攻略した劉秀(光武帝)を見込んで帰順した。劉秀が河北にて窮地に陥った際にも良く仕え、劉秀が皇帝に即位した後には賊軍たる赤眉軍を撃ち破って八万の兵を降伏させ、結果として関中を平定。その後も蜀の公孫述や天水の隗囂(かいごう)と戦ってその軍を撃破した。光武帝の中華統一目前に軍中にて病没。

 

 

功績とエピソード

①劉秀の優れた器量を見抜いて臣下となる
元々、馮異が仕えていた王莽は前漢王朝の皇后の一族つまり外戚であり、君子を装って権力者に気に入られ、大いに出世した所で、簒奪(さんだつ)の意志を露わにし、禅譲と(ぜんじょう)言う手段を用いて前漢王朝を滅ぼした人物である。王莽は国家の名前を新に改め、儒教に則った改革を行ったが、それがあまりにも懐古主義かつ非現実的な内容だったために国家が混乱し、政策は失敗し、外交も破綻(はたん)させてしまった。それによって反乱が次々に勃発した。

以上の状況で、馮異は故郷である潁川の郡掾として父城を守っていたが、そこへ反乱軍の将軍として景帝の子孫である劉秀がやってきた。馮異は出向している際に巾車郷と(きんしゃきょう)言う土地にて劉秀の軍に捕らえられたが、馮異は周囲からの推薦によって劉秀から召し出された。馮異曰く、「私一人の働きでは力不足ですが、老いた母親が城の中に居りますれば、願わくば、私が管轄している五つの城へ私めをお帰しください。さすれば、効功をもって徳に報いまする(城を献上する事で命を救われて帰還を許された恩に報います)」

劉秀はこれを許し、馮異は帰還した。そこで共に父城を守っている苗萌に(びょうほう)対して曰く、「今、諸将や壮士がみな屈起し、横暴な振る舞いが多いが、ひとり劉将軍(劉秀)の所は虜掠に(りょりゃく)至らず。その言葉や立ち振る舞いを観るに、人となり非凡なり。以って帰順すべし」。

苗萌曰く、「私は生死の運命を共にし、敬いて先生の計に従います」。その後、劉秀は南にある宛(えん)の土地へ帰還したが、その前後、反乱軍に属する将軍らが前後十人余りも攻めてきた。しかし、馮異は固く守って下らず、劉秀が再び出向いてきた時に初めて開門し、牛を奉り、酒によって迎えた。馮異は劉秀によって主簿(文書作成係)の役割を与えられ、苗萌も仕える事が出来た。馮異らが元々属していた王莽は漢王朝からすれば簒奪者であり、しかも、明らかに指導者としての能力や気質を欠いていたので、馮異が新たに漢王朝を復興するにふさわしい人物を見つけて従ったのも全く道理に適った行いだと言える。

劉秀は反乱軍内の有力な将軍ではあったが、軍全体の指導者では無かった。当時の反乱軍は元々個別に活動していた軍が離散集合を続けた末に連合した物であり、劉秀はその一武将に過ぎなかった。実績としては劉秀の兄である劉縯[(りゅうえん)こそ連合軍の指導者としてふさわしく、連合軍の豪傑らは劉縯に帰属する事を望んだのだが、連合軍の将軍らは劉縯の威明を憚っ(はばか)ていたので、自分たちの思い通りにできそうな惰弱な性格の劉玄を担ぎ上げようとし、そのためにあらかじめ共謀した。結局、連合軍は劉玄を皇帝に即位させてしまう。そのせいで豪傑らは失望し、その多くは従わなくなってしまった。

更始元年(西暦23年)、王莽は劉玄軍討伐のために百万を号する大軍を発し、これを「虎牙五威兵」と号した。しかし、その内実は非常識であり、例えば、六十三家数百人の兵法者を軍に同行させ、輜重隊(補給部隊)を千里もの長さで行軍させ、虎や豹や犀(さい)や象を引き連れて武威を示そうとした。それでも数としては百万を号する大軍であるから脅威である事は確かだ。

官軍の大軍勢は、出陣後、劉秀の拠点たる潁川郡の昆陽城を包囲した。対して、劉秀軍は数千程度であり、城内の兵士も八千ないし九千人しか存在していなかったが、劉秀はたった十三騎で脱出した後に募兵を行い、数千人の軍勢を集めて舞い戻り、結果として、百万を号する官軍を撃破した。同時期に、劉縯も南陽郡の宛城を陥落させていた。これらの成果によって、連合軍は一挙に優勢となり、劉縯と劉秀兄弟の名声が大いに高まった。馮異が劉秀を見込んであらかじめ帰順した事は結果的にも正しかった事になる。

②河北討伐実現のために影ながら尽力する
連合軍の指導者である劉玄は、名声を高めた劉縯の威名を忌々しく思い、ついに、劉縯を謀殺してしまった。劉秀は自分の身を守るためにあえて劉玄にへりくだり、兄の死について触れる事を避け、自らの功績も誇らず、兄の喪に服する事もせず、平常のように笑って飲食していた。しかし、実際には、兄を失った事を密かに悲嘆しており、一人でいる時には往々にして酒や肉を御する事が出来ず、枕元では涙を流していた。馮異はそれを慰めたが、劉秀は「卿、妄(みだ)りに言うなかれ」と返して口止めをした。劉秀もまた兄のように謀殺される危険があるため、兄の死を悲しんでいる事を他人に知られてはいけなかった。裏を返せば、この時点で、馮異はすでに身内同然の立場で劉秀に仕えていたとも言える。

更始元年(23年)、劉玄は王莽打倒のために長安を攻撃し、王莽は商人の手により殺された。結果として、劉玄が長安を支配する事になった。とは言え、天下は大いに乱れ、各地には赤眉軍を始めとする賊軍等が蟠踞(ばんきょ)している。

劉秀は隠忍自重のおかげで組織内での立場が好転しつつあった。劉玄は反抗の様子を一切見せない劉秀に対して恥じ入り、高い地位を与え、やがて、河北地方を攻略させようとしてきた。劉秀からすれば劉玄から独立できる好機だ。しかし、劉玄に仕える将軍らは反対した。ここで登場するのが馮異だ。馮異は劉玄に仕える左丞相の子に根回しをして、ついに、劉秀を河北討伐に出立させる事に成功する。この時点での馮異は政治家ならびに調略家としての性格が色濃いようだ。劉秀は賢明かつ誠実な性格をしていたようだが、根回しのような影の仕事には向いていなかっただろうから、馮異のような仕事人の存在は大いに助けになった事だろう。馮異は河北へ進出した後も、邯鄲に属する県を鎮める任務に就いている。

③河北にて困窮するも、やがて将軍となる
更始二年の正月、劉秀は邯鄲を離れて薊の土地へ北上を開始したが、その時、予想外の事件が発生した。邯鄲にて王郎なる者が皇帝の子を自称して即位し、劉秀の首に賞金を懸けて兵を挙げたのだ。そのせいで、劉秀たちはわずかな手勢を率いるのみの状態で脱出しなくてはならなくなった。

しかし、天は寒烈にして霜や雪は冒犯し、衆はみな飢えて疲れ果てた。馮異は自ら薪を(たきぎ)集め、それに鄧禹(とうう)が火を付けると言う有様だった。鄧禹は河北進出の際に自ら出向いて劉秀に従った名将であり、のちに雲台二十八将の筆頭に挙げられる国士であるから、いかに当時の状況が困苦を極めていたかが伺い知れる。

だが、更始二年、劉秀たちは信都郡へ至って根拠地を得た。そこで馮異は偏将軍(副将軍)の地位を与えられて王郎軍の討伐に当たる事になる。以降、馮異は主に将軍として大いに働く事になる。劉秀軍は数万の兵を集結させると、次々に王郎軍を撃破。更始二年の夏には早くも邯鄲を陥とし、王郎を斬死に追いやった。

一方、劉秀の勢力増大を恐れた劉玄は、劉秀に王位を与えるとの口実で解散させ、長安へ呼び寄せようとしたが、劉秀はこれに従わず、河北にて自立。さらに、地方勢力を撃破してその兵を収めた事で、劉秀軍は数十万の大勢力と化した。そして、建武元年(25年)六月、劉秀はついに皇帝に即位した。

一方、劉玄は、更始三年(25年)九月、反乱軍たる赤眉軍によって長安を陥とされて脱出。そして、同年十二月、ついに赤眉軍によって殺害された。これにより、劉秀の敵は赤眉軍となった。

④大いに軍才を開花させ、赤眉軍を撃滅する
この間の馮異の働きはひたすら敵軍の討滅だった。つまり、北平において鐵脛(かなすね)(農民軍の名称)を撃破し、また、匈奴を降伏させ、河北を平定した。やがて、孟津将軍となり、劉玄軍の将軍である朱鮪(しゅい)に対する備えとなった。そして、劉玄が支配している洛陽の将軍である李軼(りいつ)と密約を交わして味方に引き入れ、さらに、十三県を平定して十万余りの者を降伏させた。さらに、馮異は劉玄配下である武勃の軍を大破せしめて五千余りの首を獲った。その際、李軼は密約を守って武勃を助けなかったので、馮異は李軼を信用できるとしたが、ここで劉秀はあえて李軼が自軍と内通している証拠の手紙を公開して朱鮪を怒らせ、李軼を殺させてしまった。実は、李軼は元々劉秀の有力な部下であったのに、劉玄に靡(なび)いて劉縯を殺していたので、劉秀からすればもはや信用できる相手では無くなっていたのだ。これによって城中の軍は団結を失い、降伏する者が多数出た。

ここに至って、朱鮪は蘇茂の軍数万を温の土地へ遣わして攻撃させ、朱鮪自身も数万の兵を率いて平陰を攻め、それをもって馮異に挑戦してきた。対して、馮異は寇恂と(こうじゅん)共に蘇茂を同時に攻撃してこれを撃破。さらに、馮異は河を渡って朱鮪を撃ったので、朱鮪は敗走した。馮異は追撃して洛陽へ至り、周りの城を一つに収めた上で凱旋した。今や、馮異は堂々と軍を率いて戦うと共に調略も行う事のできる万能の将軍と化していた。こうして、劉秀は諸将より帝位を勧められ、じきに、馮異による勧めを受けた上で帝位に就いた訳だ。

建武二年、馮異は劉玄を滅ぼした赤眉軍の討伐に当たる事になる。劉秀は帝位に就いたとは言え、いまだ中華を統一した訳では無く、三輔(さんぽ)(長安周辺。関中)には赤眉などの賊軍が跳梁し、また、各地の有力者も独自の軍備を備えていた。当初、関中攻略を任されたのは鄧禹であったが、結果宜しくを得ず、代わりに馮異がその任に就いた。馮異は賊軍の自称将軍ら十人余りを降伏させ、さらに、華陰にて赤眉軍と対峙し、相拒むこと六十日余りにして数十戦を交え、結果としてその将たる劉始および王宣ら五千人余りを降伏させた。もはや、馮異は光武帝にとって奥の手のような存在になっていたと言える。

そして、建武三年、馮異はついに征西大将軍に任ぜられた。その後、馮異は赤眉軍を討伐しようとしている鄧禹と合流した。鄧禹は鄧弘と共に単独で赤眉軍を討とうとしていたが、馮異は黽池(べんち)へ駐屯している諸将と協同して敵軍を挟み撃ちにする事を提案した。しかし、その策は鄧禹らに拒否されてしまう。鄧弘はそのまま赤眉軍と戦うも大敗。

しかも、輜重を捨てて逃げたので兵が飢え、豆が頭上へ実っているのを見るや争ってこれを取る有様だった。さらに、赤眉軍が引き返してきて鄧弘の軍を攻め、これを壊乱させてしまった。馮異は鄧禹の兵と共にこれを救い、赤眉をわずかに討った。馮異は士卒が飢えて倦(う)んでいるので、さらに休むべしと提案した。しかし、鄧禹は聴かずに再戦した。結果として、さらに大敗を重ね、死傷者は三千人余りとなり、鄧禹自身は脱出して宜陽へ帰ってしまった。

一方、馮異は馬を捨てて徒歩で走り、麾下わずか数名と共に陣営へ帰る有様だった。しかし、馮異はこのまま敗走する気は無かった。馮異は守りを堅く固めた上で敗残兵を収容し、さらに、いまだ諸営に保全されている数万の兵を招集して赤眉軍と会戦したのだ。

馮異はここに至って孫呉の如き兵法を実行した。つまり、勇壮たる兵士を集め、その服を赤眉軍と同じ物に変えさせた上で、道の側面へ伏せておいた。翌日、一万の赤眉軍が馮異軍の前方を攻めてきた。

一方、馮異は出兵を指導してこれを救ったが、賊軍は馮異の勢力が弱いと見て、ついに、ことごとく集まって馮異を攻撃してきた。一方、馮異は兵をほしいままに動かして大いに戦った。やがて、日が傾き、賊の士気が衰えてきたのを見るや、先だって側面へ配備しておいた伏兵がにわかに立った。その衣服は赤眉と同じであるから、あい乱れて戦うと、赤眉は敵味方の判別が出来なくなり、ついに驚きのあまり崩壊。馮異は追撃して赤眉の男女八万を降伏させた。なおも十余万の敵集団が存在していたが、彼らは東へ走って宜陽にて降伏したのだった。

これを契機にして、馮異による関中攻略が一気に推進された。赤眉は降ったといえども、寇(あだ)する集団はなおも盛んであった。しかし、馮異はこれらの勢力を撃滅していき、結果として、年を跨(また)がずして平定を完了した。もはや劉秀の軍隊すなわち馮異であると述べても過言では無い程だろう。これより劉秀による天下統一の先鋒は馮異が務める事になる。

⑤最後まで勝利を重ね続け、劉秀の王業成就を補ける
関中を支配下に置いた劉秀軍だったが、いまだ天下には反抗勢力が残っている。建武四年、蜀の地を支配している公孫述が数万の兵を率いて関中へ侵攻してきた。しかし、関中の守将はあの馮異である。馮異は公孫述を撃破し、その後も、公孫述が侵攻してくる毎にこれを挫(くじ)いた。建武六年には天水の隗囂が劉秀に反旗をひるがえしたが、馮異は「攻者不足、守者有餘」の計を案じて、隗囂の部将である王元を撃破した。その後、北地の豪族たちからの降伏を受け入れ、じきに、北地太守を兼ねた。

さらに、青山の胡族一万人余りの降伏を受け入れ、盧芳の将たる賈覧(からん)を撃ち、匈奴の薁(いく)日逐王を撃破した。結局、上郡と安定郡はみな降り、馮異は安定郡の太守も兼ねる事になった。そして、建武九年の春、征虜将軍の詔を受けた。ときに隗囂が死すに及んで、王元や周宋らが隗囂の子たる隗純を擁立し、なおも兵を集めて冀(き)の土地に拠(よ)った。さらに、公孫述は隗純を助けるために趙匡らを送り込んできた。これに対して、劉秀は馮異に天水太守を兼ねさせた。馮異は趙匡らを一年掛けて全て斬り、諸将と共に冀を攻めた。しかし、馮異の軍は勝ち切る事ができず、かつ、兵は休むために還る事を欲したが、馮異は固持した。

そして、建武十年の夏、馮異は諸将と共に門を攻め落とすも、抜く事は出来なかった。そこで馮異はとうとう戦いを終える事になった。病気になり、そのまま軍中にて亡くなったのだ。謚は節侯。

それから約二年後の建武十二年十一月、劉秀軍は公孫述を滅ぼして天下を統一した。後漢による天下統一への道は、鄧禹が地を均し、それを馮異が耕したと言えるだろう。

 

 

逸話、伝説、評価

①雲台二十八将
雲台二十八将とは後漢の二代皇帝である顯宗(けんそう)(明帝)が南宮雲台へ光武帝時代の功臣である二十八将の肖像画を描かせた事に由来する言葉である。以下に二十八将の名を示す。

鄧禹、馬成、呉漢、王梁、賈復、陳俊、耿弇、杜茂、寇恂、傅俊、岑彭、堅鐔、馮異、王覇、朱祐、任光、祭遵、李忠、景丹、萬脩、蓋延、邳彤、銚期、劉植、耿純、臧宮、馬武、劉隆

なお、雲台二十八将には光武帝に仕えた名将馬援が含まれていない。二十八将の肖像が描かれた当時、馬援の娘が皇后になっていた事が理由とも言われているが、東平王蒼観が明帝に対して、「なぜ伏波将軍(馬援)の像をお描きになられないのですか」と問い掛けた際には、明帝は笑って答えなかった。

②大樹将軍と呼ばれる
馮異の人となりは謙退にして争わず、他の将と出会っても車を退いて道を避けた。進退は理に適っており、軍中の号令はみな整っていた。将軍たちは毎度集まって共に座り功績について議論したが、馮異は常にひとり樹の下へ居て座に加わらなかったので、軍中にて「大樹将軍」と呼ばれた。劉秀軍が邯鄲を破った際に再軍備を行う事になった際には、軍士らはみな大樹将軍の下に配属されたいと願った。

③劉秀との間に結ばれた父子の如き絆
劉秀は皇帝に即位する前に馮異を召し出して四方の動静を問うた。馮異は「三王は背叛し,更始は敗亡し、天下は主無し。宗廟の憂いは大王において在す。宜しく衆義に從うべし。上は社稷のため、下は百姓のため」と答えた。つまり、天下万民のためにも帝位にお付きくださいと勧めた。それに対して、劉秀は「我は昨夜に夢を見た。赤龍に乗りて上天(へ達する)。目を覚ますと、心中に動悸(有り)』。それを聞いた馮異は下席にて再拝して慶賀して曰く、「これは天命が精神において発したものです。心中の動悸は大王の重ねて慎重な性格の表れです」。馮異はついに諸将と共に議して上尊を号せしめた。

劉秀の即位後、馮異は自分が久しく国家の外にて働いている事を不安に思い、帷幕(中央司令部)にて皇帝に直接仕えたいと願い出たが、劉秀は許さなかった。案の定、ある者が劉秀に対して馮異を讒訴(ざんそ)する文章を奉り、反逆の恐れがある事をほのめかしてきた。

劉秀はその書を馮異に送り、恐れかしこまった馮異からの返答を受けた上で、「将軍の国家におけるは、義は君臣を為すも、恩は猶(な)お父子。何をか嫌い、何をか疑いて、懼(おそ)れる意が有りや」と答えた。つまり、私と貴方との間柄は、立場上は君主と臣下ではありますが、恩義としては今も父と子です。何も疑ったり恐れたりする事はありませんよと答えた。劉秀と馮異の間柄はかように深く結びついたものだったのだ。

④管仲と桓公の故事を引き合いにして帝を戒める
建武六年の春、馮異は京師(けいし)(帝都)にて劉秀に引見した。劉秀はかつて河北にて王郎に追われて極寒に苦しめられ、その際に、馮異から豆粥(がゆ)や麦飯を用意してもらった事があったが、その恩義に久しく報いていなかったとして、宝物を贈ってきた。馮異は稽首(けいしゅ)(首が地面へ付くほどに身を屈めて拝礼する事)し感謝して曰く、「臣は管仲が桓公に対してこう言ったと聞いております。『願わくば君は鉤を射するを忘れる事無く,臣の檻車を忘れる事無きよう』。斉の国はこれに頼りました。臣は今また国家が河北の難を忘れること無きよう願います。小臣は敢えて巾車の恩(巾車郷にて劉秀に帰還を許された事)を忘れておりませぬ」

 

 

まとめ

馮異は潁川にて劉秀に仕えるようになってから、死に至るまでひたすら忠勤に励んだ。過酷な状況にも折れる事なく、新たに将軍として実戦を重ねるうちに社稷にて重きを成すようになり、ついには、大将軍として関中を平定し、中華統一を阻む諸勢力を最後まで討伐し続けた。

また、馮異と劉秀との絆は生涯損なわれる事が無く、劉秀は後の世に歴代最高の君主の一人として称されるにふさわしい度量を示した。馮異もそれに応じて国士と呼ぶにふさわしい功績を挙げたと言えるだろう。

 

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