歴史

曹操も憧れた光武帝『劉秀』は長い中国史の中でもトップクラスの名君。

長い中国史の中で皇帝という名称で呼ばれた人間はおよそ200人程度存在する。

これは中華の3分の1程度の規模を有した王朝の皇帝でファーストエンペラーである秦の始皇帝から前後漢、三国、東西晋、南北朝、隋、唐、宋、元、明、清の皇帝の数である。

なお超群雄割拠の混戦時代である五胡十六国、五代十国などを併せたら250人以上の人数が皇帝となったと言える。

そのように数多いる皇帝の中でも歴史好きの人や詳しい人が名君談義の中で必ず名前を出すのが光武帝こと劉秀である。

あの曹操もあこがれた後漢建国の祖『劉秀』は文武両道、気さくで温和のスーパーマンで一切の粛清を行わず、夫婦揃って後世にいい意味でその名を残した英雄中の英雄である。

 

略伝

劉秀(りゅうしゅう)、字は文叔(ぶんしゅく)、諡号は光武帝、廟号は世祖。紀元前5年1月15日~西暦57年3月29日、享年は63歳であった。開封市蘭考県の生まれ。後漢王朝の初代皇帝であり在位期間は西暦25年8月5日~西暦57年3月29日である。

漢の高祖劉邦の血筋にあたる地主の家に生まれる。まじめで平凡な青年だったが失政の相次いだ王莽の新末期の西暦22年に兄の劉縯とともに挙兵。23年昆陽の戦いで王莽軍に決定的な打撃を与え緑林軍の中で一躍その名が知られることとなる。

以後、河北方面の制圧にあたる中で配下に有能な人材を集めて勢力を拡大し、25年6月に自立して即位し洛陽を都とした。その後は29年に洛陽に太学を設ける、30年に税制改正、31年に売人法公布、地方常備軍である材官や騎士などを廃止するなどの政策を進め36年に蜀の公孫述を滅ぼし中華を統一した。統一後も37年に略人法を公布し、売人法とあわせて人身売買を規制、39年に耕地面積と戸籍との全国調査を施行、40年に交阯(現ベトナム北部)で生じた徴姉妹の反乱を鎮圧、57年には倭の奴国の使者に対し金印を授けるなどと行う。

その治世はいかにも名君らしく温和で慈愛に満ちたものであったという。57年3月29日に63歳で亡くなった。

 

概要

前漢の初代皇帝である高祖、劉邦の末裔で、後漢王朝の初代皇帝。王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。

中国史上、一度滅亡した王朝の復興を旗印として天下統一に成功した唯一の皇帝である。三国志演義で劉備が度々言っていた「漢室の復興」を成し遂げた人物である。即位後でも、戦では常に陣頭指揮をとり、数多くの武勇を残している。

歴史好きな人の中では常に名君のベスト3あたりに入るスーパーマンだが、日本では歴史の教科書に出てくる金印をくれた皇帝というレベルの認知度である。

 

功績とエピソード

①後漢王朝を建国
中国史上で唯一、滅亡した王朝の復興を旗印として、天下統一に成功した人物として知られており、諡号の光武帝は漢朝を中興したことより「光」、禍乱を平定したことより「武」の文字が採用されたと言われている。
劉秀に対しては、三国志で有名な曹操も憧れていたと伝わっており、中国の古代史を語る上では重要な人物の一人である。

②中国三大名君の一人
西暦25年6月、劉秀が漢の帝位につき、10月には都を洛陽に置いた。劉秀がたてた王朝は、先の漢と区別し、後漢と呼ばれている。劉秀の在位中は、後漢の中でも最も栄えた時代と言われており、劉秀は中国では中国史上三大名君(他は、唐の太宗、清の康熙帝)と語られるほど抜群の知名度を誇る。

皇帝として確固たる権力を手にしてからも毎朝早くから仕事に精を出し、深夜まで睡眠を削って政策を議論することもしばしばであった。自らの精励ぶりの反面、部下には寛容で天下平定後は文官を登用して建国の功臣たちを中枢から外していったが高い身分や待遇を保証しその功に報いている。事実、光武帝は功臣たちの中からただの一人も粛清者を出していない。

これは極めて珍しいケースいえるだろう。劉秀は創業の皇帝あるため光武帝と呼ばれているが「武」という文字を2つに分解すると「止戈」となりこれはほこを止めると読める。

武の究極はここにあると中国人は考えてきた。光武帝は天下統一後まさにこの武を止めるを実践したことになるのだ。
一方で、残念ながら日本における知名度はいまひとつであり、一般的な日本人にとっては歴史の教科書に出てくる「漢委奴国王」の金印を使者に授けた皇帝というレベルの認知度であることが多い。

③他国の安定にも貢献
劉秀は自国だけに留まらず、現在のベトナムにあたる地域で起きた反乱を平定するなど、周辺の国の安定にも貢献している。日本からの使者が朝貢した際には、金印を授けて冊封体制に組み混むなど古代日本の安定にも一役買った言える。(『後漢書』東夷伝倭人条より)

④気さくで温和な人柄
古代史に残る皇帝は、ときに残虐非道極まりない人物も少なくはない。
しかし、天下統一を果たした劉秀は武勇で名高いだけではなく、人格面でも優れており温和な人柄であったと評されている。部下の失敗に激して殺したりすることもなく、連日連夜部下と共に城下町へ遊びに出かけるほどの気さくな人物であったと言われている。あまりにも頻繁に遊び歩いて帰らないので、気の強い部下に締め出されて野宿をしたというエピソードも残っているほど。

⑤教育にも熱心
劉秀は教育制度の整備にも熱心であった。学問を振興し、地方にも学校を次々と作っていったことで、後漢は当時としては世界的にも高い識字率を誇っていた。

⑥平凡な治世
光武帝劉秀の治世は実に32年にも及ぶ。その間、36年に蜀の公孫述を降すまでの11年間は各地の反対勢力を鎮圧することに注力しているが公孫述を滅ぼした時点で中華の全域はほぼ支配下に入った。

光武帝の治世の特徴はあらゆる面で無理をせず、何よりもまず民の生活の回復に努めたことである。したがって派手さはなくなんとも地味であるが、これはその当時の情勢に極めて合っていたといえる。なぜなら当時は相次ぐ戦乱で民の生活は困窮の極に達していたからである。人員削減、減税措置、軍事行動の抑制に努めた。

⑦雲台二十八将(光武二十八将)
気さくで温和な人柄、そして巧みな人心掌握術に惹かれて劉秀の元には名将が数多集った。建国の功臣たちは光武二十八将と評され後世にもその勇名を轟かせている。またその半数近くは同郷の南陽出身であった。この点は沛県出身者で周りを固めた劉邦と似ている。

もっとも劉秀は一切の粛清を行っていないのでその点では劉邦と大きく異なっている。創業の名君には強烈なカリスマで部下を引っ張るタイプもいるが劉秀は後衛タイプであり、大きな器量で包み込むようなイメージである。

序列:名前 官職
①:鄧禹 太傅高密侯
②:呉漢 大司馬広平侯
③:賈復 左将軍膠東侯
④:耿弇 建威大将軍好畤侯
⑤:寇恂 執金吾雍奴侯
⑥:岑彭 征南大将軍舞陽侯
⑦:馮異 征西大将軍陽夏侯
⑧:朱祜 建義大将軍鬲侯
⑨:祭遵 征虜将軍潁陽侯
⑩:景丹 驃騎大将軍櫟陽侯
⑪:蓋延 虎牙大将軍安平侯
⑫:銚期 衛尉安成侯
⑬:耿純 東郡太守東光侯
⑭:臧宮 城門校尉朗陵侯
⑮:馬武 捕虜将軍楊虚侯
⑯:劉隆 驃騎将軍慎侯
⑰:馬成 中山太守全椒侯
⑱:王梁 河南尹阜成侯
⑲:陳俊 琅邪太守祝阿侯
⑳:杜茂 驃騎大将軍参蘧侯
㉑:傅俊 積弩将軍昆陽侯
㉒:堅鐔 左曹合肥侯
㉓:王覇 上谷太守淮陵侯
㉔:任光 信都太守阿陵侯
㉕:李忠 豫章太守中水侯
㉖:萬脩 右将軍槐里侯
㉗:邳彤 太常霊寿侯
㉘:劉植 驍騎将軍昌城侯

なお雲台にはその他の功臣、王常、李通、竇融、卓茂も加えられて計32人が顕彰されたため「雲台三十二将」と称されることもある。しかし同じく光武帝の功臣のひとりであり三国志演義の五虎大将軍として有名な馬超の祖先にあたる名将の馬援は既に娘が明帝の皇后となっていたため選ばれなかった。

 

逸話

①素朴な青年
劉秀が若いころの話。劉秀は百姓仕事に精を出すまじめで大人しい青年で将来の姿など誰も想像しなかった。そんな中、近くの村に占いの名人がいた。

ある日、劉秀を見て「この子は天子になる相をしている」と語ったところ、誰も信じようとしなかった。当時朝廷に同名の重臣がいたため、「ああ、朝廷にいる劉秀様ですか」と茶化され劉秀も「私かもしれないだろ」と言い周囲を大笑いさせたことがある。

また後年、皇帝になったあと故郷に里帰りし親戚や知己を集めた宴席で老女たちが劉秀をつかまえて「文叔さん、あんたは真面目が取柄で遊ぶことを知らず素直な子供だった。そのおまえさんが皇帝さまとはねぇ」とからかったところ劉秀はにっこり微笑みながら「私はこれからも天下を治めるために柔の道を進み続ける」と答えた。

②出陣は牛に乗って
前漢の初代皇帝である高祖、劉邦の末裔という由緒正しき家系に生まれた劉秀。
皇帝になったくらいなのでサラブレットと言っても過言ではない生まれかと思いきや、実際には傍系の貧乏貴族であった。

若い頃から一目置かれていた訳でもなく、劉秀は一族の中でも生真面目で人見知りで目立たないインドア派であったため、存在感が希薄。また、慎重な性格として知られており、長兄の劉縯が挙兵した際には恐れて様子見であった周囲の人々も、劉秀が加わるならば確実に違いないと、劉秀の合流後には参加者が増えたという。

また、後に劉縯が本家筋の縁者から謀反の疑いをかけられて処刑された際にも、相手に兄の非礼を謝罪し、周囲が兄の弔問に訪れた折にも事件については一切ふれることなく、災禍に巻き込まれないような言動に徹したということエピソードからも、極めて慎重な性格であった様子がうかがえる。

しかし、当初は軍備の調達にも事欠くほどの赤貧ぶりだったようで、馬も買えないほどの貧しさゆえに、牛に乗って出陣した。馬を入手したのも購入できたわけではなく、後に相手陣営より調達に成功したからという逸話も残っているほど。貧しい生活に慣れていたからこそ、途中で極寒の環境下で賞金を懸けられて追われる厳しい行軍であっても、仲間と協力して薪を集めて火をおこし、豆粥や麦飯で寒さと飢えをしのぐという状況にも耐え抜くことができたのかもしれない。

③文武両道
劉秀は戦が得意であったが武力で全国統一を成し遂げただけではなく、治世の面でも優れていたというエピソードが多く残っている。

各地で続けざまに起きていた農民や豪族の反乱を厳しく抑えながらも、農村の復興を図る策を次々と実施し、結果として治世や経済を安定させることに成功している。
劉秀が行った制度改革は、反乱者である王莽が定めて失敗した机上論的な、実態が伴わない制度をことごとく廃止して、より現実味のある前漢の制度を復活させることを目指した。

まずは王莽時代に厳しく定められた法にふれて奴婢とされた者を次々と赦免して、奴婢を農村に帰した。

また田にかかる租税を軽減して、前漢と同じ税率を復活させた。加えて、広く農民から軍兵を徴兵することをやめて、世襲的な皇帝直属軍を設置するなど、農民が農業に安心して専念できる体制を整えた。あわせて、耕地や戸籍の調査も実施するなど、先の時代にも繋がる制度整備も手掛けている。

更に王莽の統治下で混乱していた貨幣制度を改め、漢の五銖銭を復活させることで、通貨制度も安定させることにも成功している。

劉秀が主導した民生、経済に関する政策のお陰で、劉秀亡き後も当面の間、後漢は安定した時代が続くことになった。

④三国志の登場人物からも高評価
諸葛亮孔明によれば「光武帝は、神の如き知謀を持ちみずから深謀遠慮を有していたため、臣下は難事を未然に防ぐという賞賛されにくい功を挙げることとなった」(『金楼子』巻4・立言下)という評価が残っている。

また「武力による天下統一から日を置かずして、儒学を振興した光武帝の志は明帝、章帝に受け継がれ、200年後の曹操すら恐れて簒奪できなかった」というように曹操も一目置いていた様子が、司馬光の『資治通鑑』に残っている。

⑤王朝復活は異例中の異例
中国だけではなく、世界中でも一度滅んだ王朝を復活させたケースは極めて稀である。
特に古代中国の考え方では、皇帝を選ぶのは天であり、王朝が滅ぶということは皇帝が「徳を失った」ということ。すなわち、皇帝一族が天からも人民からも見放された状態であると言えるので、復興は並大抵の努力や運では成し遂げられぬことである。

劉秀は皇帝となった後にも、重要な戦には全て自らが先陣を切って参戦していた。部下の失敗の尻拭いのため、戦況が不利なとき、逆境のタイミングでも迷わず駆けつけて皇帝即位後は全ての戦に勝利している。自ら苦境に立ち向かうことが、天からも民からも支持され続けた理由なのかもしれない。

⑥夫婦そろって有名人

中国では「秀麗江山」という人気小説や、2014年には夫婦の運命的な愛を描いた大型歴史ドラマ「秀麗伝~美しき賢后と帝の紡ぐ愛~(日本語題)」が製作されているように、夫婦そろって人気がある。

なお秀麗伝で美しき賢后と評されている方を演じたのは三国志ThreeKingdomsで孫小妹を演じたルビー・リンさんである。

陰麗華は劉秀の幼馴染であったようで、劉秀は若い頃から「将来は出世して、陰麗華と結婚したい!」と周囲に夢を語っていたほど、あこがれていたという逸話も残っている。

陰麗華は夫が皇帝になった後にも贅沢な生活をすることなく質素な生活を続けていただけではなく、自分の親戚を登用しないことで政治的な混乱を起こらなかった。

結果として次世代争いも特に起こることもなく、無事に世襲が続いた。後漢の安定には陰麗華の貢献も評価されており、中国史上で最も優れた皇后の一人とも言われている。

⑦劉秀自身が外も内も優秀すぎて部下が目立たない
南朝梁元帝の『金楼子』は、諸葛亮の見解として「光武帝の部将は韓信、周勃に引けを取らず、謀臣は張良、陳平に劣らないが、光武帝が神の如き知謀を持ちみずから深謀遠慮を有していたため臣下は難事を未然に防ぐという賞賛されにくい功を挙げることとなった。いっぽう高祖は粗略であったために張良、陳平、韓信、周勃が(奇策や攻略といった)賞賛されやすい功を挙げることとなった」と記した。

体形や容姿については身長7尺3寸(168cm)、莽の納言将軍厳尤は降兵を尋問したおり、劉秀について「これ、須(あごひげ)と眉の美しき者なるか」と述べ、朱祜は宴席で「公には日角の相有り(額の上部が隆起して、太陽の如き角に見える)」と述べたことが伝わる。

 

さいごに

私の歴史好きのきっかけは学研まんが「人物日本史」である。小学校低学年の時は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、その他を何度も繰り返し読んだ。おかげで勉強は嫌いだったが日本史、世界史、古典とそれに付随する地理は勉強しなくても90点以下をとった記憶がないほどだ。(あまりに100点を連発するため先生に何度かカンニング疑惑で睨まれた)

そして中国史に興味を持つきっかけになったのは講談社の青い鳥文庫「三国志」である。その三国志に登場する英雄がお手本とし憧れた劉秀は間違いなく屈指の英雄であり名君であると言える。

私は劉邦が余り好きではない。それは功臣を粛清したからであり、殆どの創業者は何かの理由で天下統一に大きな功があり、力をつけた功臣を粛清する。劉邦は項羽に勝つためには絶対に居てもらわなくてはならなかった大功臣を粛清している。

そういう意味でも粛清せずにその後の安定した治世を行った光武帝、劉秀は素晴らしく名君中の名君と言えると思う。

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