歴史

混迷の五胡十六国時代「前秦」の『苻堅』は民族融和を目指した稀代の名君。

専門的に勉強している人を除けば、中国の五胡十六国時代について詳しい人は少ないのではないだろうか。私も詳しくはない。

名前を聴かれて咄嗟に言えるのは、ここに記載の数名を入れても~10名ほどです。これは司馬遼太郎さんや横山光輝さん、漫画キングダムの影響などで日本でも人気の高い「三国志」、「項羽と劉邦」、「春秋戦国時代」、「隋唐演義」、「水滸伝」などの時代と比べると段違いに少ない。

三国志の英雄が中華からいなくなり、混迷を極めた五胡十六国時代において、劉邦と張良、劉備と孔明、孫権と魯粛のようにお互いになくてはならない存在が、苻堅と王猛であった。そしてお互いがいる間は、他を寄せ付けない勢いで目標に向かって進み、どちらかが欠けた途端に暗雲に乗り上げてしまう。そして夢半ばで散るという多くの英雄たちと同じ道を辿った『苻堅』について書きたいと思う。

なお国名である「前秦」(ぜんしん、351年 - 394年)とは、今回ご紹介する氐族の『苻堅』によって建てられた国で都は長安に置いた。国号は大秦。国名は秦だが、この秦を滅ぼして起こった西秦と後秦があるために区別するために前秦と呼ばれている。

 

略伝

苻 堅(ふ けん、338年-385年)は、五胡十六国時代の前秦の第3代君主(在位357年-385年)字は永固。幼名は堅頭。元の姓は蒲と言い、後に苻と改めた。略陽郡臨渭県(現在の甘粛省天水市秦安県の東南)を本貫とする氐族であり、出生地は魏郡鄴県である。父は苻雄。母は苟氏。宰相の王猛を重用して前燕、前涼、代、前仇池を滅ぼし五胡十六国時代において唯一となる華北統一を成し遂げる。

苻堅は軍事だけでなくく、学問を推奨して内政も重視していた。国力を充実させ、文化の発展に尽力したのだ。名宰相「王猛」の補佐を受けて重商主義から重農主義に転換してからは灌漑施設の復興や農業基盤の整備に力を注いだ。また戸籍制度を確立させた他に、街道整備も推し進めたのだ。

その後、東晋領の益州をも支配下に入れ、前秦の最盛期を築いた。中華統一を目論んで大々的に東晋征伐を敢行したが、淝水の戦いで大敗を喫した。これにより統治下にあった諸部族の反乱、自立を招いて前秦は衰退し苻堅は志半ばでこの世を去った。48歳だった。

 

概要

苻堅は名宰相の王猛と共に三国時代以後に登場した、久しぶりのスーパースターであるといえる。三国時代は魏を簒奪した司馬一族によって統一された。初代皇帝で司馬懿の孫の司馬炎は英邁であったが、統一後は人が変わったように堕落し、色欲に関するエピソードばかり伝わっている。

後宮に1万人もの女性をはべらせ、毎晩羊がひく車で女性がいる部屋を周ったという。そして羊が止まった部屋で夜を過ごしたのだ。女性たちは羊の気を引くため部屋の入口に羊が好きな塩を盛るようになった。これが日本に伝わり店先に盛る盛り塩となったのである。

司馬炎の後継者で次男の司馬衷は、司馬家のDNAを一切引き継がず分かり易く暗愚に育った。例えば司馬衷は飢饉で民衆たちが飢えて、ご飯が食べれない時期があった時のこと。

司馬衷は「民衆は食べるものがなければ肉粥を食べればいいのにどうして食べないんだろう」と側近へ語っていたのである。同じような話が、ずっと先のヨーロッパでもあったが、とんでもない暗愚である。

そんな暗愚な皇帝が国の頂点にいたので、司馬炎の死後は権力闘争が勃発、勢力が独立、乱世に突入となった。こうして司馬炎がおこした晋(西晋)は、たったの51年で幕を閉じたのである。そしてその乱の最中、司馬一族の一人が南で晋を復興した。これが東晋である。華北では様々な民族が国をたてて群雄が割拠した。これを五胡十六国時代という。この時代、田畑は荒れ果て賊が横行する混迷の時代であった。

そんな中で理想をかかげ、統一にまい進したのが前秦であり、その前秦の三代目皇帝が苻堅である。前秦はチベット系氐族の苻健が長安に建てた国である。苻堅は苻健の甥にあたり、暴君だった従兄を殺して三代目となった。

 

功績とエピソード

①一族との合流と改名
350年に蒲洪は後趙から離反して枋頭を拠点としながら自立したが、蒲堅(後の苻堅)を含めた蒲一族は未だに取り残されている状態が続いていた。同年の12月に伯父である蒲健(後の苻健)はタイミングを見計らって関所を突破。それを機に蒲雄や蒲堅ら蒲一族は共に枋頭への逃亡を無事成功させ、蒲洪と合流を果たした。

元々苻堅の姓は蒲であった。祖父にあたる蒲洪は安定出身の梁楞らを始めとした関西の民から「胡運はまさに終わり、中原は騒乱しておりますが、明公の神武は必ずや大業を成し遂げる事でしょう。周漢に倣って尊号を称し、四海の望みに従ってくださいますよう」と勧められ、讖緯「艸付應王」あり、孫の蒲堅の背中には「艸付」の文字があったことから自ら大都督、大将軍、大単于、三秦王を自称し、苻洪と名乗るようになったことから、苻堅も蒲から苻に姓を変えたのである。

②政変決行
2代皇帝の苻生は残虐非道な人物で、常に遊んでは酒を飲み、官吏や女官を殺害していた。苻生が即位してから殺した人は、后妃や公卿以下僕隷に至るまで1000人以上にも上り、残忍な人物として知れ渡っていた。。苻堅も殺害された人々と同じように何度も命を奪われそうになっていたが、左衛将軍李威が間に入り事なきを得ていた。苻堅はこのことに深く感謝をして李威に対して親同然の扱いをしていた。357年5月に梁平老達は苻生の冷酷な行動に耐えかねて、苻堅に苻生を誅殺するように嘆願していた。苻堅は苻生の勇猛さを知っていたので、なかなか行動に移せていなかっが、とある夜に苻生の宮殿へ突入することを決めたのである。酒を飲み酔いつぶれている苻生を別室に移動させて越王に降格した後に殺害したのである。

③苻堅と王猛
王猛は東晋の政治家であり軍人で中枢を担った桓温の訪問を受けたとき、衣服のシラミをとりながら時世を語ったことで有名である。このとき仕官の誘いを断っている。

苻堅の配下の呂婆楼は王猛が不世出の才を有しており、国家の大事を相談するに足る人物であると推挙した。そこで苻堅は呂婆楼を派遣して招聘した。王猛は苻堅と会うと、まるで旧知の仲であったかのように国家の興亡や大事に至るまで語り合い、その様はまるで劉備が諸葛亮を遇した時のようであったという。これ以降、王猛は苻堅の傍に仕えるようになり、彼の下で謀略を張り巡らするようになった。

357年8月、王猛は中書侍郎に任じられ、国家の機密を取り扱うよう命じられた。12月には尚書左丞相に任じてその職務に当たらせた。その後、咸陽内史に転任となった。

359年8月、王猛は侍中、中書令、京兆尹に昇進した。当時、強皇太后(初代皇帝苻健の妻)の弟である特進強徳は酒に耽って横暴な振る舞いをしており、百姓の患いとなっていた。その為、王猛は強徳を捕らえると苻堅の命を待たずに処刑し、屍を市に晒した。苻堅は強徳が収監されたと聞き、使者を急行させて処刑を取りやめさせようとしたが間に合わなかった。ただ王猛を罪に問う事も無かった。

さらに王猛は御史中丞鄧羌と共に綱紀粛正に取り掛かり数10日の間に貴族や役人の不正を洗い出し処刑または免職された者は20人を超えた。これによって百官は恐れおののき、悪人は息を潜めた。また道端に落ちている物を拾わなくなるなど、風紀は引き締められた。これを見た苻堅は「我は今初めて理解した。天下に法が有るということを。天子が尊なる存在であることを」と感嘆した。

苻堅の王猛への寵愛は日に日に篤くなり、次第に朝政で王猛が関与しないものは無くなっていったという。

10月には吏部尚書に任じられ太子詹事に移った。11月には尚書左僕射を加えられ、12月にさらに輔国将軍、司隷校尉に昇進し、騎都尉が加えられ、宮中に宿衛する事となった。また尚書左僕射、太子詹事、侍中、中書令の職務についても引き続き兼務した。王猛は何度か上表し昇進を辞退しようとしたが苻堅はこれを許さなかった。王猛は1年の内に5度も昇進したのでその権力は内外に及ぶ者がおらず宗族や旧臣の殆どがこの寵愛を快く思わなかった。尚書仇騰、丞相長史席宝は幾度も王猛を讒言したが苻堅は怒って仇騰を甘松護軍に左遷し、席宝を白衣を着たまま長史の職務に当たらせた。この一件以降、官僚はみな服して異論を挟む者はいなくなった。

372年6月丞相、中書監、尚書令、太子太傅、司隷校尉に任じられ、中央に召還された。使持節、散騎常侍、車騎大将軍、清河郡侯はそのままとされた。8月、長安に到着するとさらに都督中外諸軍事を加えられた。
数年後さらに司徒を加えられた。王猛は何度も上疏して辞退を申し出たが苻堅はこれを聞き入れなかった。そのため王猛は仕方なくこれを受け入れた。

このように王猛を重用し、王猛もまた苻堅の期待に応えた。王猛は物言う配下であり、師傅そのものであった。

④一視同仁
苻堅には目的とする理想があった。その理想とは差別をなくし全ての人を平等に扱うことだ。漢族でない異民族による大帝国は隋、唐、元、清など数多あるが苻堅が目指した帝国は他とは異質であった。それは諸民族が融和した国であり人種や民族の差別のない世を目指したのである。中国を統一し六民族が仲良く暮らせる世界を創る。それが苻堅が目指した国であった。華北を統一した苻堅は民族融和のため都の長安の近くに鮮卑族や羌族を移住させた。そして自らの出自である氏族を東方に移住させた。住むところを入れ替えてしまったのだ。また漢族を優遇し官僚にしたり、鮮卑族や羌族を重用した。前燕から亡命してきた鮮卑の慕容垂がその典型である。この慕容垂の登用にあたっては腹心の王猛も反対したが夢の実現のためと言って苻堅は意に介さなかった。

⑤学問を広く勧めた
361年に学官「学問を教授する官職」を広く国内に設置するために郡国の学生で一経に通じた者「儒教の基本的な経典である『詩』『書』『礼』『易』『春秋』『楽』のうち、一つでも精通している者」を招待して任務に就かせた。公卿以下の子孫にも学問を学ばせている。州郡の長官に対して文学、政治、儒学に精通する人物や幹事(重要な業務)に堪え得る才を持つ人物、清廉潔白な人物、孝悌な人物、力田(開墾する事)などを自ら行った人物達を顕彰させました。

⑥王猛の死
375年6月、王猛は病床に伏すようになった。苻堅は自ら南北郊、宗廟、社稷に祈りを捧げ、近臣を黄河や五岳の諸々の祠に派遣して祈祷させ王猛の病状が少し良くなると境内の死罪以下に大赦を下した。

王猛は上疏して「図らずも陛下は臣の如き命のために、天地の徳を汚そうとしております。天地が始まって以来、このようなことは未だかつてありません。臣が聞くところによりますと、恩徳に報いるには言葉を尽くす事だといいます。垂没する命をもって謹んで、ここに遺款を献じさせていただきます。伏して惟みますに、陛下は威烈をもって八方の荒地を震わせ、声望と教化により六合を照らし、九州百郡の10のうち7を統べ、燕を平らげて蜀を定め、これらを容易く果たされました。しかしながら、善を作る者が必ずしも善を成すわけではなく、善を始める者が必ずしも善に終わるわけではありません。故に、古の明哲な王は功業を成すのは容易ではない事を深く理解し、いつも戦々恐々とし、それは深谷に臨むかの如くです。伏して惟みますに、陛下が前聖を追蹤してくだされば、天下は甚だ幸いといえましょう」と述べ、これまでの受けた恩に謝すと共に、時政についても論じた。

この進言が益する所は非常に大きく、苻堅はこれを覧ずると涙を流し左右の側近も悲慟した。

同年7月、病状が重篤となると苻堅は自ら病床を見舞い後事を問うた。

王猛は「晋は呉越の地に落ちぶれてはいますが、天子は継承されています。隣人として親しく接する事が、この国の宝にもなります。臣が没した後は願わくば晋を図る事のありませんよう。鮮卑(慕容垂ら)や羌(姚萇ら)こそが我らの仇であり必ずや煩いとなります。時期を見て彼らを除き、社稷の助けとして頂きますように」と答え東晋征伐の反対と他種族の排斥を訴えた。

その後、間もなく息を引き取った。享年51であった。翌年に苻堅は前涼を滅ぼして華北平定を成し遂げるが、王猛がそれを見届ける事は無かった。

苻堅は侍中を追贈して武侯と諡し丞相などの位は生前のままとし東園温明の秘器、帛3千匹、穀1万石を下賜した。謁者、僕射に喪事を監護させ、葬礼の一切は前漢の大将軍霍光の故事に依るものとした。苻堅の悲しみぶりは大変なものであり葬儀に際しては三度に渡って慟哭した。そして太子の苻宏に向かって「天は我に中華を統一させたくないというのか?何故我から景略をこんなに速く奪ったのだ」と嘆いた。そして武侯と諡された。官民はみな何日にも渡って、その死を悼んだ。

⑦淝水の戦い
383年、苻堅は王猛の遺言を破り南征した。すなわち東晋を攻めて中華を統一しようとしたのである。こと時、軍事力は前秦が勝っていたが東晋は宰相の謝安のもとよくまとまっていた。また漢族の貴族は未だに東晋を正統の王朝とみていた。ゆえに王猛は東晋と争うことがないように何度も進言していたのである。

南征に際しては重臣はみな反対し賛成したのは鮮卑の慕容垂だけであった。しかし苻堅は理想のために止まらなかった。苻堅は100万の兵を率いて南下した。(実際は恐らく半分以下と思われる)東晋は7万の迎撃軍を派遣し淝水をはさんでにらみ合った。開戦後、苻堅はわざと後退し誘い入れてから反転して叩くという策を用いた。

いざ反転して殲滅というところで前秦軍は反転せずに逃げまわってしまう。漢人の武将で苻堅に重用されていた男がこの戦の前に東晋に寝返っており、「負けるから逃げろと言いまわっていたのだ」また前秦の多くの将兵に苻堅のわざと後退し誘い入れてから反転して叩くという策は伝えられていなかった。ゆえにただ後退していると思っている兵が多かったのである。

更に多民族の混成部隊であり士気は低くまとまりもなかった。100万と号した大軍はあっという間に潰走したのである。これにより苻堅の理想はむなしく崩れ去っていったのだ。苻堅は大混乱の中で慕容垂に守られ長安に逃げ延びた。前秦の威光は一日で失われもはや苻堅は群雄たちにとってかっこうの的となってしまった。

⑧夢半ば
苻堅は淝水の大敗のあと辛うじて生き延びるも、385年に漢中で独立運動を介した羌族によって捕らえられ、禅譲を迫る羌の姚萇に殺されてしまったのである。享年48であった。苻堅の目指した民族融和は完全に裏目に出てしまったのである。融和を持ち掛け信頼していた各部族の将は次々に裏切り、最後は重用したにも関わらず羌族に絞殺されてしまったのであった。

385年8月に苻堅の元へ姚萇が使者を派遣した。伝国璽を求め、「この萇が次の暦数に応じるのだ。そうすれば恩恵を与えてやろう」と言い放った。

その言葉に苻堅は怒りをあらわにし、「小羌が天子に迫ろうとはな。どうして伝国璽を汝のような羌に授けられようか。図緯・符命のいったいどこに根拠を見出そうというのか。五胡の序列に汝のような羌の名は無い。天に違えて祥も無いのに、どうして長らえる事が出来ようか!璽は既に晋に送っている。得るものなどないぞ」と言い返した。

苻堅は姚萇に対して手厚く恩を与えていることもあり、耐え難い怒りがこみ上げて何度も姚萇のことを罵って死することを求めた。それを張夫人は「羌奴如き我が子が辱められるなど、どうして許していいだろうか!」といい、手始めに苻宝、苻錦を殺害します。新平仏寺において姚萇が派遣した人により、苻堅は殺害さた。

 

逸話

①神が授けた?子供
苻堅が生まれる前、母の苟氏は漳河にある西門豹の祠に赴き、子宝を祈願した。すると、その夜に神と交わる夢を見て、これにより子を身籠ったという。その後、12ヵ月程で苻堅を生んだが、その日は神光が天より降り注いで庭を照らしたという。また、苻堅の背には赤い紋様が次第に浮かび上がり、文字を成した。そこには『草付臣又土王咸陽(草かんむりに付で苻を表し、臣・又・土で堅を表す。苻堅が咸陽で王となる事を暗示している)』と書かれていたという。

②予兆
かつて、関東の地では「幽州はし、生命はまさに滅するであろう。もし滅せなくとも、百姓は絶えるであろう」という謡があった。とは慕容垂の以前の名であり、果たして384年より慕容垂は苻丕と長期間相対したため、この謡の通り土地は荒廃して百姓がいなくなるという事態に陥ることとなった。ある時、数万羽の群烏が長安城の上空に飛来すると、甚だ悲しい鳴き声を上げた。これを見た占者は、烏が1年の間ずっと縄張り争いを続ける事はしないことから、これを甲兵が入城してくる予兆ととらえた。慕容沖が長安を攻め落とすのはその数ヵ月後の事であった。

③夢による悲劇
苻生は巨大な魚を口にする夢を見ることになるのだが、苻氏は元の姓が蒲であることから、苻生は気分が悪くなり、さらに長安では歌謡が広まり「東海の大魚は龍と化す。男はみな王となり、女はみな公となる。洛門東の所在はいずこか問う」と歌ったものであった。苻生はこの歌謡が苻堅のことだと気づかずに夢の内容を勘違いして魚遵と7人の子さらに10人の孫を抹殺した。

④亀との出会い
とある日高陸の民が井戸を掘っているところに3尺程の亀を捕らえました。亀の背中には八卦文が刻まれていて、苻堅そのことを知ると池飼うように命令して餌には粟を与えたといいます。ですが381年亀が息絶え、その骨を太廟に納めたその日の夜に廟丞をしていた高虜の夢に亀が姿を現します。亀が「我はもとよりここを出て江南に帰りたかった。しかし、時の不遇に遭い、秦庭で命を落としてしまった。」と伝え、ある人物が高虜に「亀は三千六百歳で死ぬといい、その最後には必ず妖が興る。これは亡国の徴である」と告げたといいます。

⑤童話に導かれた苻堅
苻堅が隆盛を極めていた頃に童謡が流行っていた。内容は『河水はまた清くなり、苻詔は新城に死す』というものであった。苻堅はこれに嫌悪感を抱き、征伐する度に軍候へ戒めて「地名に『新』とあったならば、これを避けるように」と命じた。ある時、また童謡が流行り、その内容は『阿堅は連牽すること三十年、もし後に敗れるとすればまさに江淮の間である』と歌われていた。その全てが苻堅に当てはまり、どれも童話の内容通りに事が進んでいたのである。

 

さいごに

苻堅は三国志演義に描かれている劉備の上位互換のようなイメージだ。理想を掲げて目標に向かって突き進み、あと一歩のところで夢破れてしまう。

全てにおいて優先していた王猛の言も王猛が亡くなると、なぜか守らず敗れてしまった。苻堅は神の子と言われるような逸話まで持つ人で、何事もやってのける人物であった。

学問を広め、内政を重視し、軍事では快進撃の連続だった。順調に見えた目標達成までの道のりも、王猛の死で歯車が狂い、最期は童話の内容と同じ死を迎えてしまった。人は目標を達成した英雄よりも志半ばで夢破れた英雄を好む傾向にある。私もそんな一人だ。

苻堅は間違いなく長い中国の歴史にその名を刻む超英雄である。

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