歴史

戦国屈指の人気者『伊達政宗』は、独眼竜として有名な奥州の英雄。

歴史に興味を持ち始めたのは小学5年生くらいからだが、当時「学研まんが人物日本史」の『伊達政宗』を繰り返し読んでいた。当然今より格段に知識はなかったが、若いのに強大な豊臣秀吉に対抗しようとしたりする物語にワクワクして台詞を丸暗記するほど何度も読んだ。

 

有名で人気がある戦国武将と言えば、三英傑の「信長、秀吉、家康」、武田信玄、上杉謙信、真田信繁などが真っ先に名前が上がると思う。このメンバーと同じく有名で人気があるのが『伊達政宗』である。日本の戦国時代でもトップクラスの人気を誇る『伊達政宗』は、独眼竜の異名で知られている。近年の漫画やゲームは長身のイケメンで描かれることが多いが、身長は159.4cmで、ほぼ当時の平均的な身長であり、現代人からすると小柄である。

そして『伊達政宗』を飛躍的に人気者にしたには、28歳の渡辺謙さんが演じた1987年放送のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』である。本作は大河ドラマの中でも屈指の人気を誇り、大河ドラマの代表作の一つである。役者陣も豪華で豊臣秀吉役の勝新太郎、伊達輝宗役の北大路欣也、片倉景綱役の西郷輝彦と素晴らしく、平均視聴率の39.7%は、大河ドラマの歴代トップである。

そんな奥州の雄、独眼竜『伊達政宗』をご紹介したい。

 

 

略伝

伊達 政宗(だて まさむね、1567年9月5日~1636年6月27日、享年:68歳)は、別名を藤次郎(仮名)、独眼竜(渾名)といい戦国時代~江戸時代前期にかけて活躍した武将、大名である。

仙台藩の初代藩主、「独眼竜」の異名で有名な戦国大名だ。生誕地は山形県米沢市、没地は東京都千代田区で、官位は従五位下左京大夫、侍従、越前守、従四位下右近衛権少将、陸奥守、正四位下参議、従三位権中納言、贈従二位、主君は豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光と移り変わっている。

1567年9月5日:生誕
1571年:疱瘡にかかり、右目を失明
1577年11月15日:元服
1581年5月上旬:初陣
1584年10月:家督相続
1585年:父が畠山義継に拉致され死去。人取橋の戦い
1589年:摺上原の戦い
1590年:弟を処刑
1590年5月:豊臣秀吉に謁見
1591年:葛西大崎一揆
1593年:文禄の役
1600年:上杉景勝討伐に参戦。関ヶ原の戦い
1601年:居城を仙台に移す
1613年:支倉常長がスペインへ向けて出港
1614年:大坂冬の陣
1636年:6月27日:没

(出典:Wikipedia)

 

有名な独眼竜の異名については、中国唐末期の名将である李克用(りこくよう)を意識していたという話がある。李克用とは、唐末期に鴉軍(あぐん)と呼ばれる全て黒い衣装で統一した精鋭兵を率いて、黄巣の乱を鎮圧し、朱全忠と激闘を繰り広げた猛将で、「独眼龍」の異名を持っていた。その勇名武威は凄まじく、鴉軍来たるの報を聴いただけで敵が逃げるほどだったという。

黄巣の乱を制した鴉兒軍の将『李克用』は、元祖独眼竜の豪傑。

独眼竜と聴けば、10人中10人が伊達政宗を思い浮かべる筈だ。私もそうだった。しかし、中国唐の時代に活躍した『李克用』を知ったら変わるかもしれない。それほどの大豪傑である。 中国史に名を刻んだ武のカリス ...

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功績とエピソード

①幼少期
伊達政宗は、伊達家16代当主である輝宗の嫡男として生まれたものの、5歳のときに疱瘡にかかり、右目を失明している。一説には右眼窩の肉が盛り上がり目玉が飛び出たようになったとも伝わっている。容姿へのコンプレックスもあり、幼少時の政宗は内向的な性格であったようで、家臣から跡継ぎには物足りないと思われていたともいわれている。

輝宗は政宗が疱瘡にかかった翌年に名僧と名高い虎哉宗乙を招いて教養と帝王学を学ばせた、傅役としてまだ年若い片倉小十郎景綱を抜擢し、政宗の従兄弟である伊達成実を近習として任命している。これらの人との関りによって政宗は徐々に心身ともに成長を遂げていくことになるのであった。

②家督相続
伊達政宗は初陣の3年後には家督を譲り受け、伊達家17代当主の座に就いている。
当時の東北地方では佐竹氏、芦名氏、結城氏、二階堂氏、岩城氏、石川氏、相馬氏等が小競り合いを繰り返していた。主に外交によって東北の力関係を調節していた父の輝宗ではあったものの、和睦のために来たはずの畠山義継が帰り際に輝宗を拉致して殺害するという事件が起きる。輝宗の死により奥州の均衡は崩れ、同年の「人取橋の戦い」では、南奥州連合軍と伊達家の戦いとなり敗戦している。政宗は後に「摺上原の戦い」で蘆名義広を破るまで、四方を敵に囲まれた状態で戦い続けることになった。

③関ヶ原の戦い前後での動き
数々の戦を繰り返し、家督を狙っていたとされる弟の処刑を経て、奥州を平定した伊達政宗は、豊臣家へ臣従している。
豊臣秀吉が死去した後には徳川家康と手を結び、子ども同士の婚約を取り付けている。

関ヶ原の戦いを前に上杉征伐のための包囲網が展開された折には家康から「戦後の報酬には伊達政宗が自ら切り取った領土をすべて与える」という内容の書状である通称・100万石のお墨付きを受け取っている。
上杉包囲網には最上義光を含めた奥州大名も参戦し、家康の背後を突かせぬように画策するとともに、戦いに乗じて領地拡大を目論んでいた。そこで独断で一揆を扇動する等の暗躍したことが家康に知られたために、結局は恩賞追加の希望はほとんどを退けられ、62万石の領地を与えられることに留まっている。

④慶長遣欧使節
伊達政宗の能力は政治・軍事に留まらず仙台藩の文化水準向上にも発揮されている。国内に留まることなく西洋世界にも関心を示し、仙台藩とスペインの通商交渉のため遣欧使節を結成し、フランシスコ会宣教師であるルイス・ソテロと家臣である支倉常長等をはじめとする約180名の使者を、ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)、スペイン、イタリアへと派遣している。

遣欧使節は日本人がヨーロッパへ赴いて外交交渉をした日本初の公式な外交活動であったものの、幕府によるキリスト教弾圧により十分な成果を上げることは叶わなかった。支倉常長は帰国後に間もなく死去、ルイス・ソテロは長崎へ密入国を試みて捕らえられ、火刑により殉教している。

⑤晩年
晩年には、藩内の農政改革や文化財の建築・治水事業等、仙台藩の発展と安定化に注力している。江戸へ米を出荷するための渡し口として石巻港を開いたことで、仙台藩から出荷された米は江戸で広く流通し、江戸で消費される米の3分の1は仙台藩で作られた奥州米であったとも伝わっている。

また、徳川幕府の重鎮として、家康の死後も大きな影響力を維持し、2代秀忠・3代家光の代にも外様大名のお取りつぶしも多い中で順調に仙台藩は発展を遂げている。

⑥最期
伊達政宗は病床つくようになってなお、江戸に上り、最期は江戸屋敷でむかえている。江戸入りした政宗の様子を見た徳川家光は、寺社に政宗回復の祈祷をさせるとともに、侍医の半井驢庵を藩邸に派遣して治療にあたらせている。死因は、癌性腹膜炎または食道癌という説が有力であるが、死を前に「戦場を駆け回っていた私が、畳の上で死ぬとは思わなかった」と語っていたとされる。

政宗の死を嘆いた家光は、江戸で7日、京都で3日の間、一切の殺生と音曲を禁止という外様大名としては異例の対応をとったと伝わっている。

最期には「くもりなき 心の月を さきだてて 浮世の闇を 晴れてこそゆけ(先の見えない闇の中で月の光を頼りに進むように、戦国の先の見えない世をひたすらに歩いた一生であった)」という辞世の句を残している。

 

 

逸話、評価

①親族との確執
伊達輝宗が二本松城主である畠山義継の計略により没した後、伊達政宗は畠山氏を滅ぼすことになるが、直後に友好関係を保っていた出羽国山形城・最上義光と敵対関係に陥っている。最上義光は政宗の母である義姫の兄であり、二人は伯父と甥の関係にあったが、両者は庄内地方の大宝寺氏を巡って対立することとなった。

政宗の家臣が最上方に寝返る事態にまで発展し、周囲の大名からも狙われ四面楚歌の状況となっていた。義光と政宗の衝突を食い止めるべく、母である義姫は兄の義光を説得すべく輿に乗って駆けつけたと伝わっている。義光と義姫は定期的に文通も続けるような仲の良い兄弟で、義光が義姫の説得に応じたことで政宗は命拾いをしている。

義光が離脱したことで政宗と敵対する大名達の連合軍の足並みは揃わなくなり、政宗は「摺上原の戦い」で蘆名氏を滅ぼし、奥州平定を果たした。
母である義姫とは、母が政宗の弟を可愛がり政宗と険悪な関係であったという説もあるものの、最上氏とのエピソードや現存する手紙の記録を見る限り、実際にはさほど不仲という訳ではなかったようである。

②片倉景綱との関係
片倉景綱は元は伊達政宗の父である輝宗の小姓として仕えており、政宗が8歳になった頃に教育係に任命されている。その後、生涯に渡って、軍事、外交、内政、生活とあらゆる面で政宗をたすけていく。

政宗が右脇腹に出来物ができ、なかなか治らず夜も眠れない状態が続き、「自分で切り取りたいが、病気を苦に切腹したと思われたらたまらない」と相談すると、景綱は鉄の棒を熱して自らの太腿に刺して命に別状はないことを確認してから、政宗の脇腹に刺して出来物を焼き取ったと伝わっている。おかげで政宗の出来物は50日程度で完治したものの、景綱の足70日程完治までの期間を要し、後遺症として引き攣れも残ったとされている。

豊臣秀吉が小田原征伐を開始し、政宗にも参陣するように要請した折には、小田原の後北条家と伊達家はもともと同盟関係にあったことや、秀吉に対して徹底抗戦を主張する伊達成実等重臣の反対があったこともあり政宗は対応に苦慮していた。この時、景綱は時流を読み、秀吉に味方するよう進言。参陣が遅れ怒り心頭の秀吉にまずは目通りを許されるためにもブレーンである千利休に茶を習うよう政宗にすすめたことで、後に謁見する機会を与えられ、政宗は命拾いしている。後に伊達家の外交交渉を担っていた景綱の働きを高く評価した秀吉からのスカウトを受けた際には固辞し、景綱は政宗への忠義を貫いている。また、徳川家康から伊達家の江戸屋敷とは別に片倉家単独の屋敷を贈られた際にも、政宗への遠慮から屋敷を返上している。

加えて、景綱に嫡男の重長が生まれた際には、主君の政宗よりも先に跡取りを得ることはできないと、実の子を殺害しようとしたのだとか。この話を耳にした政宗は大慌てで「どうか私に免じて助けてやってくれ」と書状を贈ったと伝わっている。その後、政宗に命を救われた重長は長じて後には2代目片倉小十郎重長となり、政宗、忠宗、綱宗の伊達氏3代に渡って仕え、片倉家の子孫達は明治維新まで代々、仙台藩と伊達家のために尽くし続けている。

③徳川との関係
秀吉が世を去ったのち、徳川家康は政宗の娘である五郎八姫と家康の六男忠輝との婚約を申し込んできます。家康は政宗を取り込みにかかったのです。政宗は政宗で、秀吉亡き後再び戦乱が訪れると考え、家康と手を結びつつも天下を伺います。
1600年(慶長5)に始まった仙台城(青葉城)の造営も、天険要害の地に豪壮な大手門と隅櫓(すみやぐら)を設置した堅城でしたが、天守閣を造りませんでした。これは家康に対して「これからの平和な世に天守閣はいらない」というアピールであり「もう天下に野心はない」というパフォーマンスだったと考えられます。

その野望が大きく変化したのは、家康が征夷大将軍に任じられた辺りからでしょう。もう一度世は乱れると考えていただろう政宗にとって、征夷大将軍家康の存在は戦乱から治世への時流の変化でした。機を見る目を持っていた政宗は、ここから第一目的を自国の繁栄と伊達家の永続に切り替えます。

息女五郎八姫と家康六男、忠輝の結婚。嫡男虎菊丸(後の忠宗)と家康の庶子市姫の婚約と、立て続けに将軍家との関係を深めていきました。また、大阪冬の陣ではほとんど活躍しませんでしたが、夏の陣では片倉小十郎景綱の子である重綱が「鬼の小十郎」と呼ばれるほどの縦横無尽の奮戦をし、勝利に多大な貢献をします。
豊臣家が滅亡し、徳川将軍家が名実ともに日本を統治するようになると、政宗はますます徳川家に忠誠を示すようになりました。その成果でしょうか。家康も第二代将軍秀忠も、政宗に後事を託しています。第三代将軍家光は、秀忠が亡くなった後に諸大名に対して牽制とも言える演説を行っていますが、政宗は率先して賛同し忠誠を示しました。

④人物像
伊達政宗といえば、オシャレな戦装束の軍団を従えたことから伊達男の語源との説や、三日月のついた兜と眼帯という装いで描かれる等、何かと逸話の多い戦国大名のひとりであるが、実は多趣味で筆まめという一面もある。

政宗は料理も得意であったようで、徳川幕府が開かれ平和になった後は、料理の研究にも精を出していたのだとか。諸説あるものの、笹かまぼこ、ずんだ餅、伊達巻、高野豆腐、仙台味噌等の現在の仙台名物に繋がる食品の生みの親という逸話もある。徳川家2代将軍・秀忠や3代将軍・家光のもてなしも手料理や全国の名産品を厳選した材料にこだわった献立のプロデュースをしたというエピソードも残っている。「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」というのが政宗のおもてなし論であった。

また、家光からは大層慕われていたそうで「伊達の親父様」と呼び、政宗のアドバイスには耳を傾ける姿勢を示していたそうである。

大名は通常、右筆と呼ばれる「口述筆記係」に手紙を代筆させることが多かったものの、政宗は大変達筆であり、約3,000通以上の自筆書状が確認されているという。同時期を生きた豊臣秀吉や徳川家康の場合には現存する直筆の書状は100通以下ということからも、相当な筆まめであったことが分かる。

⑤名言
「仁に過ぎれば弱くなる。義に過ぎれば固くなる。礼に過ぎればへつらいになる。知に過ぎれば嘘を吐く。信に過ぎれば損をする。」というのは『伊達家五常訓』の中の有名な一文であり、頭文字をとって「仁義礼智信」、「五常」とも呼ばれている。

五常とは本来、儒教における5つの徳であり、人が常に守るべき基本的なものとして、戦国時代に武将の間で広く浸透していた基本理念であった。しかし、伊達政宗は五常を逆説的に説いており、「相手を大切にし過ぎると情にもろくなり、自分が弱くなってしまう。正論ばかりに固執すると、頑固になって融通が利かなくなる。礼儀正しい態度も過ぎれば相手にとっては嫌味となる。知性が勝り過ぎれば理想を叶えるために嘘を吐くようになる。他人を信用し過ぎると、他人から利用されて損をする」のだと。

 

 

まとめ

幼少時に病を得て内向的な性格であった伊達政宗は、長じて後には奥州を平定し、戦国の動乱の中を潜り抜け、晩年は将軍からも慕われる存在となっている。政宗の功績もあり仙台藩は、外様にも関わらず幕末まで無事に残り続けることができた。

政宗のトレードマークとも言うべき独眼竜について政宗は「私の死後に肖像画を描くときは両眼を作ってくれ」と遺言している。英雄『伊達政宗』がコンプレックスに感じていたかのようなエピソードで、人間らしさが垣間見える。

 

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