歴史

朝倉家のNo.2として発展を支えた『朝倉宗滴』は、戦国を代表する名軍配者。

KOEIの歴史シュミレーションゲーム「信長の野望」をプレイにする際、朝倉家と言えばカモでしかなく、特別に配下にしたい武将もいないと思っていた。しかしこの『朝倉宗滴』は別格だった。

私が特に沢山の時間をプレイした「信長の野望 革新」での能力値総合ランキングは17位と高い。ちなみに16位は上杉謙信、18位は島津義弘、19位は羽柴秀吉、20位は小早川隆景、21位は大谷吉継、22位は太原雪斎とそうそうたる面々が続く。この17位がいかに高いかお分かり頂けると思う。

朝倉家三代の当主を一族の参謀格として支え、生涯現役として戦いの中で病死を遂げた名将『朝倉宗滴』をご紹介したい。

 

 

略伝

朝倉 宗滴(あさくら そうてき、1477年~1555年9月23日、享年:79歳)は、別名を教景、太郎左衛門尉、金吾といい戦国時代に活躍した武将。福井県で生まれ、福井県福井市で没した。主君は朝倉氏景、貞景、孝景、義景である。宗滴は、八男だったが一時期は父と同じ幼名を名乗ったり、「景」の字が与えられたりと、幼少時は「次期当主」になることを期待されていた。

しかし、父が亡くなった時に幼かったため、長兄の朝倉氏景が跡を継いだ。以降は朝倉家の大黒柱として朝倉家No.1の働きをしていき、家中だけでなく室町幕府からも一目置かれる存在となった。また六角家と浅井家の調停をしたことで、浅井家から深く信頼され、両家は固く結びつくことになった。

これは後の浅井朝倉VS織田徳川に繋がっていく。その後も朝倉家三代を支え続けるが、加賀の一向一揆と戦っている最中、病に倒れてしまう。朝倉家の本城で一乗谷城に帰還後、療養するも79歳で没した。

1477年:生誕
1503年:敦賀の乱、敦賀郡司に就任
1506年:九頭竜川の戦い
1517年:若狭守護・武田氏の援軍として幕命で若狭・丹後に出陣
1525年:小谷城へ出征
1527年:川勝寺口の戦い
1531年:加賀の内紛
1555年7月21日:越後上杉氏の長尾景虎に呼応して加賀一向一揆を討つべく加賀に出陣
1555年9月23日:没

 

(出典 Wikipedia)

 

 

功績とエピソード

①敦賀の乱
家督を継いだ長兄の朝倉氏景の嫡男・貞景が当主の頃、氏景の弟である朝倉景総は娘婿の朝倉景豊とともに、貞景に対して謀反を企てる。計画に際しては、景豊の妹を正室に迎えていた朝倉宗滴も誘われていたものの、宗滴は加わることはなかった。

景総の軍勢は京都を出て、越前国で景豊の軍勢と合流する予定であったものの、宗滴は謀反に加担することなく貞景に密告した。貞景はすぐに軍勢を派遣し、景総軍が到着する前に敦賀城を包囲された景豊は自害している。

宗滴は恩賞として敦賀郡司を与えられ、金ケ崎城城主となっている。自害させられた景豊の後釜として朝倉家の軍務を取り仕切り、家中で頭角を現していく。

②九頭竜川の戦い
生涯多くの戦に参加している朝倉宗滴であるが、世に名を知らしめることになったのが「九頭竜川の戦い」での働きである。当時の越前で問題となっていたのが浄土真宗の信徒たちによる権力への抵抗運動である一向一揆である。加賀一国を支配するほどに拡大した一向一揆は、30万人もの大軍へと拡大していたといわれている。対する朝倉軍はわずか1万程度と規模では大差がついていた。

宗滴率いる朝倉軍は、初戦での勝利で勢いづきわずか3,000余りの兵で夜襲を仕掛けたのであった。不意を突かれた一揆勢はたちまち総崩れにとなり散り散りになり撤退するという結末となった。勝因としては宗滴の情報分析に基づく戦略があった。実際に当時は普段は農業等に従事する人員の参戦が多かったため、30万の大人数とはいえ戦の精鋭は多くはないであろうと、相手の内情を正確に把握していた。

また、日中の初戦で敵の大将数名を既に討ち取っていたことで、朝倉は強いという恐怖心が芽生えているはずだと敵方の心理状態を分析していた。加えて、真っ暗な夜間にわざわざ急流を渡って攻めてくることはないであろうと考える当時オ常識を逆手にとっての作戦が功を奏したからこその勝利であった。

③朝倉家中の有名人
敦賀郡司を跡継ぎである朝倉景紀に譲って後には、朝倉宗滴は軍奉行として朝倉勢の軍事に注力している。

記録によると宗滴の出陣は18歳での初陣から生涯で12回、越前国内に留まることなく、若狭国、丹波国、加賀国、近江国、美濃国、京都と各地に出陣しており、その活躍は朝倉に宗滴ありと各国に名が轟く活躍を見せている。

『賀越闘諍記』では宗滴のことを「智謀無双」「智仁勇の三徳を備えている」と絶賛されている。また、『羽賀寺年中行事』では「宗滴のことを万人が賞賛した」と記されているように、越前朝倉家中の中でも各地に名が知れた有名な人物であったようである。美濃の内乱に介入した北近江の浅井氏と、対立していた近江の六角氏との間では調整役となり、浅井氏とは深い絆で結ばれるきっかけとなった。織田信長包囲網の時代には浅井・朝倉同盟という一蓮托生の強い同盟関係に発展している。

④死後
朝倉宗滴は死の直前まで現役の大将であり続け、後継者を指名することも育成することもないままの状態で出陣中に倒れ、亡くなってしまう。残された朝倉家最後の当主である朝倉義景に家中を統率する能力はなく、宗滴亡き後の朝倉家は転落の一途をたどるのであった。

 

 

逸話、評価

①出自
朝倉宗滴は朝倉家7代目当主である朝倉孝景の八男として生を受ける。その八男という生まれ順であったものの、一時期は父と同じ幼名を名乗っていたことや、当主が使用する「景」の字がつけられていたことから、幼少時には将来の当主候補と目されていたとも伝わっている。しかし、父が亡くなった際にはまだ4歳であったため、長兄の朝倉氏景が家督を継いでいる。

②朝倉宗滴話記
朝倉宗滴の死後に来歴や教訓等を家臣の萩原宗俊が取りまとめ、後に編纂されたものが『朝倉宗滴話記』である。同時代の軍記物と異なり合戦は簡潔に記述されており、何年何月何日に宗滴が語ったというような記録としての要素よりも概要や要点に重きを置いてまとめられている。

「武士は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」の一文は特に有名で、戦うからには犬と言われようと、畜生と言われようと、 勝つことこそが最も大事であるという宗滴の戦に臨む心構えとされている。

また、国を治める手本として今川義元、三好長慶、武田信玄、毛利元就、長尾景虎、そして織田信長を挙げている。特に、当時まだうつけという評判であった信長の台頭を予期している表現が残っており、宗滴の臨終の際には「今すぐ死んでも言い残すことはない。でも、あと三年生き長らえたかった。別に命を惜しんでいるのではない。織田上総介の行く末を見たかったのだ」と語ったという記載も残っている。

その他には、前田家の戦陣訓にも影響を与えていると伝わっており、前田利家の言行録たる『国祖遺言』には、はじめの30条ほどで宗滴の戦陣訓と記述が一致していることから、『朝倉宗滴話記』をもとにして作られているという逸話もある。

③九十九髪茄子
朝倉宗滴の生きた時代の越前国は、大内氏が支配する周防国と今川氏が支配するの駿河国と並び戦国3大文化都市とされていた。いずれの都市も今でいう小京都のような趣きの都市であったが、中でも京により近い越前国は第二の京と呼ばれるほど、洗練された文化を誇っており、統治する一族にも文化人が目立つ。

松永久秀が織田信長に帰参を許されたとされる茶器・九十九髪茄子も久秀の以前の持ち主は実は朝倉宗滴である。宗滴が入手したときは五百貫の値がついたが、その後府中武生の小袖屋山本宗左衛門が千貫で手に入れ、茶入の仕覆を作らせるために京都の豪商の袋屋に預けたとされている。その後に久秀がどのような経路で入手したかは定かではないものの、千貫費やして購入したとされている。

④愛刀・篭手切正宗
朝倉宗滴の愛刀・篭手切正宗は、相州貞宗の作とされている。豊臣秀吉の手を経て佐野家に伝わり篭手切行光(相州行光)と称され、次の持ち主である加賀の前田家で正宗作にされたようである。

篭手切という異名の由来には諸説あるものの、宗滴が京都での川勝寺口の戦いで、敵の手首を篭手ごと切り落としたことからその名で呼ばれるようになったというものが有名である。

⑤後世の創作での扱い
信長の野望、戦国大戦等、創作物でも扱われる朝倉宗滴は、突出した武将が少ない朝倉家中の中で際立った存在感を誇るが、老年期の姿であることが多い。「朝倉宗滴話記」の中での有名な一文である「武士は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」が当人から語られるのも創作ならではであろう。

 

 

まとめ

朝倉家の当主三代に渡って仕え、全盛期を支えた朝倉宗滴。死後編纂された「朝倉宗滴話記」での逸話は後世の創作物にも影響を与えている。一日で三つの城を落とすなど圧倒的だった朝倉宗滴が亡くなると朝倉家の没落が始まる。優秀過ぎた故に朝倉家は一人に頼り過ぎていたのだ。

「朝倉宗滴話記」の箇所で述べたように、宗滴は亡くなる少し前に「できればあと三年生きて、織田信長がどうなるかを見てみたかった」と言っていたという話が残っている。宗滴が亡くなった年の織田信長といえば、傅役の平手政秀に自害されたあたりである。当時の信長に注目していた人物が、隣国でもない遠くにいたという事実。このエピソードからも朝倉宗滴の優秀さが分かる。

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