歴史

伝説の主人公『日本武尊』は古代日本のスーパースター。

周から清までという幅広い時代に興味を持っている中国や共和制ローマとマケドニア王国の戦争からナポレオンあたりまで興味を持っている欧州の歴史と異なり日本史については自国にも関わらず興味の殆どは安土桃山時代である。

足利尊氏や新田義貞、楠木正成から源義経、北条早雲、太田道灌や幕末なら新選組などにも興味はあるが、どうしても織田信長や豊臣秀吉が活躍した時期への比重が大きい。

そんなこともあり古事記、日本書紀には余り興味を持っておらず日本武尊ことヤマトタケルノミコトのことも殆ど知らなかった。知識としてはゲームに出てくる天叢雲剣を実際に持っていた人というくらいである。

しかし同じくゲームの信長の野望革新のいにしえ武将で登場し、その能力の高さに惹かれてから興味を持った。

そんな日本武尊について調べてみた。

 

略伝

日本武尊(やまとたけるのみこと、?~西暦72年)は別名を小碓尊(おうすのみこと)、小碓王(おうすのみこ)、日本童男(やまとおぐな)と言う。古墳時代に活躍した。現在の兵庫県で生まれたという説がある定かではない。

第12代景行天皇と播磨稲日太郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)との間に生まれた。『日本書紀』及び『先代旧事本紀』では第二皇子、『古事記』では第三皇子となっている。数々の伝説を残しながら能褒野(三重県亀山市)で亡くなった。享年30歳であった。

(出典 Wikipedia)

概要

記紀などに伝わる古代日本の皇族。熊襲征討や東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。日本各地の豪族を討伐し、大和朝廷の威光を高めた。実在性が低いことから、架空の人物ともされている。『古事記』と『日本書紀』には記載の相違点も多々ある。10代の頃から各地で活躍し様々な伝承を残している。

 

功績とエピソード

①討伐前
日本武尊が全国の反朝廷派の討伐を父である天皇より命じられるきっかけは、天皇が日本武尊を恐れたからであるとされている。

『古事記』によれば、父の寵妃を奪った兄の大碓命に対して、父である天皇は「諭せ」と伝えたそうであるが、解釈の違いから、日本武尊は兄を捕まえ押し潰し、四肢をばらして殺害した。これを知った天皇は、日本武尊恐れ、かつ疎んだことから、遠ざけるためにも九州のクマソタケル(熊襲建)兄弟の討伐を命じたとされている。

そして、従者も与えられなかったため、日本武尊は道中まずは伊勢へ立ち寄り、斎王を務める叔母の倭比売命より変装用に女性用の衣装を授けられている。
一方、『日本書紀』の記述によれば、兄殺しの話はなく、父である天皇が平定した九州地方で再び叛乱が起きたために、日本武尊が討伐を命じられたことになっている。古事記と異なり叔母は登場しておらず、従者として美濃国の弓の名手である弟彦公が選ばれている。加えて、弟彦公は、石占横立、尾張の田子稲置、乳近稲置も指名して、複数人で熊襲討伐に向かった様子が記されている。

②熊襲討伐
西方の賊平定(熊襲)に討伐に赴いた日本武尊は、ここで女装して敵方の宴に潜入するのであった。

『古事記』の記述では、日本武尊が九州に到着すると、三重の軍勢に囲まれた熊襲建(くまそたける)の邸宅では、新築祝いの準備が行われていたという。日本武尊は髪を結って叔母より借り受けた衣装を着て、少女の姿に変装して宴に忍び込んだ。宴もたけなわの頃にまず敵方の兄を斬り、続いて弟に刃を突き立てたと言う。

誅伐された弟は死ぬ間際に「西の国に我ら二人より強い者はおりません。しかし大倭国には我ら二人より強い男がいました」と日本武尊の武勇を嘆賞し、自ら名乗っていた名前を日本武尊に譲って「倭建(ヤマトタケル)」の号を献じた。日本武尊は、相手の最後の言葉を聞き届けた後に、とどめを刺している。

一方、『日本書紀』では、熊襲の首長は兄弟ではなく、川上梟帥(タケル)一人とされている。川上梟帥を討伐後に日本武尊は、ともに来ていた弟彦らを遣わして、現地の敵方を殲滅している。

③天叢雲剣入手
日本武尊が、熊襲の国を平定したことにより、吉備、難波国など西方の国も大和朝廷へ従うようになった。しかし、今度は東への討伐を命じられるのであった。

『古事記』では、東方の国々が謀叛を繰り返すようになると、蝦夷(えみし)も騒乱を起こすようになったと言う。天皇から東国平定を命じられた日本武尊は、伊勢の神宮にて東国平定の成功を祈り、叔母・倭姫命より素盞嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大(やまたのおろち)の尾から得た神剣「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」を授けられるのであった。同時に「危急の時にはこれを開けなさい」と袋も受け取っている。

この時、日本武尊は「天皇はこの私に死ねというのだろうか。西方の戦いから帰り、まだ時を経ぬのに、軍勢も賜らずすぐに東国に遣わそうとする」と嘆き悲しんだと伝わっている。

一方、『日本書紀』によれば、天皇が日本武尊に東国への遠征を命じたのは、怖気づいて逃げた兄に代わって、勇敢で後継者として期待された日本武尊が選ばれたとされており、もちろん供も選ばれている。吉備武彦と大伴武日連の他に、料理係も七掬脛を選定されていることから、追い立てられるように東国へ派遣される古事記の記述とは大きく趣が異なっている。

④東国での危機
東国征伐へ向かう道中も当然のように事件が起こる。
相模国では、国造に欺かれて野火に囲まれるも、神剣を振るい野火を薙ぎ払い、叔母より貰った袋の中の火打石を用いて迎え火をつけたことで難を逃れた。

このエピソード以降、天叢雲剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも呼ばれることになる。横須賀走水では、神の妨害にあったところを最愛の妻・弟橘媛(おとたちばなひめ)が日本武尊に代わって入水したことにより、神の怒りが静まり無事船を進めることができている。

尚、『日本書紀』では剣が自発的に動いて草を薙ぎ払ったとされている。

⑤日本武尊の最期
日本武尊の最後に戦うことになる相手は伊吹山の神(神の化身)である。
『古事記』では、素手で伊吹の神と対決しに行った古事記の前に、牛ほどの大きさの白い大猪があらわれている。日本武尊は「この白い猪は神の使者であろう。今は殺さず、(神を殺してから)帰るときに殺せばよかろう」と一旦これを無視することにしたが、実際は猪こそが山の神であった。

神は氷混じりの大雨を降らせ、日本武尊は失神する。その後、下山した日本武尊は、病の身となっていた。弱りながらも大和を目指して進むも、能煩野(現:三重県亀山市)にて4首の国偲び歌を詠って亡くなる。

他方、『日本書紀』においては、伊吹山の神は大蛇である。大蛇は日本武尊が進む道を遮るものの「主神を殺すから、神の使いを相手にする必要はない」と大蛇をまたいで進む。

神は氷雨を降らせて、峯に霧をかけ谷を曇らせので、日本武尊は意識が朦朧としたまま何とか下山する。ようやく目覚めたときには病身となっており、能褒野へ向かうのである。

この後、伊勢神宮に蝦夷の捕虜を献上し、天皇には吉備武彦を遣わして伝言を託している。

 

逸話、伝説、評価

①出自
日本武尊は、景行(けいこう)天皇の皇子で、仲哀(ちゅうあい)天皇の父とされているが、『古事記』と『日本書紀』の記述には随所で差がある。

『古事記』では、第十二代・景行天皇と、吉備臣の祖・若建吉備津日子の娘・針間之伊那毘能大郎女との間に生まれた5人の皇子の内の3男である。一方、『日本書紀』では、播磨の稲日の大郎姫(稚郎女)との間に、生まれた双子の皇子の弟である。

また、『古事記』においては、父に疎まれた悲劇的皇子を想像させるエピソードが多いものの、『日本書紀』では大和朝廷の支配体制を強固なものとするために自発的に全国へ旅立っていく姿が描かれている。

②オトタチバナ姫の献身
日本武尊が、東国征伐に向かおうと浦賀水道(走水の海)から上総に船で渡ろうとしたところ、神の怒りにより海は荒れて困り果てる。この時、妻・弟橘媛が海に身を投げて、海神を鎮めることで、日本武尊亡は無事に目的地に向かうようになったという逸話が残っている。

しかし、日本武尊は亡くなった妻を思い、何日もその場を立ち去ることができなかったと言う。弟橘媛が入水した数日後、媛の装束の袖の片方が、近くの海岸に漂着したと伝わっている。

漂着した袖を見た日本武尊「君去らず 袖しが浦に 立つ波の その面影を みるぞ悲しき」と読み、この歌の“君去らず”から「木更津」が、また“袖しが浦”から「袖ケ浦」という地名がついたと伝わっている。

③死後
死後、日本武尊は、大きな白鳥となって天のかなたへ飛び去った(『日本書紀』では大和を目指している)という逸話が残されている。
また『古事記』では、日本武尊の死に際して歌われた4つの歌は「大御葬歌(天皇の葬儀に歌われる歌」となったとも伝わっている。

 

さいごに

古代は1人前と見なされる年齢が今よりも断然若い。英雄たちの活躍した年齢や亡くなった年齢を紐解いていくとその若さに驚く。

例えば楚漢の戦いで有名な項羽は享年30歳である。怒りに任せて行動することや范増の助言をきかずに、力に任せて突っ走ってしまうことを現代の私達が歴史小説で読んだときに未熟者だなと思っても年齢を知ると「わかっ!そりゃそうか」と納得する部分も出てくる。

日本武尊も10代の頃から各地を転戦していた。数多く残る英雄譚から武骨者のイメージがあるが辞世の句には故郷や人々へを思う言葉がつめられている。

「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」
(故郷の大和は最も美しく素晴らしい所である。青い垣根のような山に囲まれて麗しく美しい)

神話的な話が多い日本武尊は実在性を疑われることもあったが各地に残る多くの伝承やこの故郷を思う辞世の句が残るなど全くの架空とは言い切れない。

いずれにせよ、各地で活躍し壮大で美麗な大きな花火のようにその短い一生を終えた日本武尊は我々日本が誇る英雄の1人である。

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