歴史

【ライバル対決】第四次川中島合戦『八幡原の戦い』は戦国史上最大規模の激戦。

日本の戦国時代と言われて殆どの方が思い浮かべるのは、やはり織田信長達が活躍した安土桃山時代ではないだろうか。安土桃山時代とは信長が京に入った1568年から秀吉が没する1598年、または家康が関ヶ原の戦いに勝利する1600年までのこと。

しかし、そんな激動の時代よりも前に激闘を繰り広げていた勢力がある。いずれも信長、秀吉、家康すら恐れた武田信玄と上杉謙信の戦いである川中島合戦だ。

そんな川中島合戦でも特に激戦で、最重要家臣を失い、その後の歴史に大きな影響を与えた四回目の激突『八幡原の戦い』をご紹介したい。

 

概要

別名:甲越対決
時代:戦国時代
戦場:川中島(長野県長野市南郊)など
年月:1553年~1564年
第一次 1553年8月:布施の戦い(更級八幡の戦い)
第ニ次 1555年7月:犀川の戦い
第三次 1557年8月:上野原の戦い
第四次 1561年9月:八幡原の戦い
第五次 1564年8月:塩崎の対陣
※実際に川中島で行われたのは、第ニ次、第四次のみ

交戦勢力:武田軍 対 上杉軍

指導者・指揮官
武田軍:武田信玄、武田信繁、武田義信、諸角虎定、山本勘助、(妻女山別動隊)飯富虎昌、馬場信春、高坂昌信、真田幸隆

上杉軍:上杉政虎(謙信)、直江実綱、柿崎景家、甘粕景持、村上義清

 

合戦に至るまでの情勢
戦いは、上杉方は北信濃の与力豪族領の奪回を、武田方は北信濃の攻略を目的としていたものである。
甲斐の武田晴信(信玄)は、父・信虎を追放して実権を握ると家中をまとめ上げて勢力の拡大を図っていた。甲斐の国は、農作物の耕作にはあまり適さぬ土地が多く、より豊かにするためには、更なる領地の拡大を目指したいという願望を持っていた。

しかし、周辺の関東~東海にかけては有力な北条氏、今川氏が君臨しており、若輩の晴信には攻略は困難な状況であった。そこで、今川氏とは友好関係=甲駿同盟(今川義元の妻は信玄の姉)を結び、北条氏とは対決を避けていた。

一方、信濃には今川氏や北条氏に匹敵するほどの強敵がいないため、晴信はここに目をつけるのであった。諏訪、木曾、仁科、小笠原など中南信(諏訪・松本地方)を手中におさめ、次に目指すは東北信(上田~長野地方)であった。
勝弦峠の戦いで、小笠原長時を破り深志城を手に入れた信玄。敗れた長時は、鷲尾城の村上義清を頼った。義清は上田原の合戦をはじめ2度も武田軍を撃退した勇将として知られているが、武田方の真田氏の謀略にはまったことで、盟友の高梨氏らと共に越後に逃げ、上杉謙信(長尾輝虎)に救援を要請。
武田軍が越後の目前まで迫っていることに危機感を抱いた謙信は、義清らの要請を

受け入れ、「義の為」に信濃に出兵することを決意する。これが10年以上の長きに渡る川中島戦いの始まりである。

 

各回の概略

第一次 布施の戦い
葛尾城が落ち村上義清は越後に助力を願ったことで、上杉謙信が出兵し、八幡などで戦う。同年の秋、謙信は上洛して天皇に拝謁。

 

第ニ次 犀川の戦い
犀川をはさんで両軍が対峙するも、今川義元の仲裁により和睦し終了。上杉謙信は、善光寺に設置していた仏像等を越後の新善光寺に移設する。

 

第三次 上野原の戦い
上野原(長野市若槻周辺)などで戦う。将軍・足利義輝の仲裁により終了。

 

第四次 八幡原の戦い(詳細は、後述)
※本格的な戦いは八幡原の戦いのため、川中島合戦とはこの第四次を指すことが多い。
この年、謙信は鎌倉で上杉家を継いで関東管領に就任したことで、北信濃平定の重要度が増す。戦国史上最大の決戦と言われる合戦となるも勝敗つかず。
戦いの後、北信濃の地は武田が制圧。

 

第五次 塩崎の対陣
塩崎周辺で対峙するも合戦には至らず解散。以後、武田による信濃支配が確立する。

 

第四次『八幡原の戦い』~当日の両軍の様子

永禄4年9月10日(1561年10月18日)第四次川中島合戦『八幡原の戦い』発生。

初動
上杉方が妻女山に本陣を構えたのに対して、武田方は初め茶臼山に、次いで海津城に入って膠着状態となった。妻女山では上杉謙信率いる13,000の兵が川中島、海津城を見下ろす位置に布陣。対する武田信玄率いる2万の兵は決戦に備えて士気が上げていた。

この時、上杉方は退路を絶たれている状態にも関わらず、動じることなく陣内で能を楽しんでいたと言う。これこそが上杉謙信の作戦であったのだが、武田方は気付かなかったことで、後に悲劇へと繋がるのであった。

 

武田軍の動き
武田方は軍勢を二つに分け、12,000の妻女山奇襲隊で上杉謙信が布陣する妻女山を襲い、残る8,000の本体は下山するのを待ち受けて挟み撃ちにするという、山本勘助進言の「きつつき戦法」を採ったと伝えられている。

しかし、実は煮炊きを行っている煙の動きから武田方の動きは見破られており、夜陰にまぎれて移動していた上杉本体から数を減らした武田本隊は攻撃を受けることになった。苛烈な戦いを信玄は何とか生き延び、妻女山奇襲隊が戻ってきたところで戦況は逆転。上杉方は退却していった。

 

上杉軍の動き
早朝、八幡原一帯を覆う濃霧は、上杉軍の動きを隠す。その霧の中で上杉方13,000の兵は、怪しれることなく武田の本体に接近し、八幡原に布陣していた。
八幡原に立ちこめていた霧が晴れると、一斉に出陣しこうして合戦の火蓋が切って落とされたのである。驚き慌てふためく武田方に対して、有利に進めた上杉方ではあったものの、武田方の別働隊が合流すると退却を命じるのであった。

 

結果:双方が勝利を主張
武田軍、上杉軍合わせて8,000以上の兵が戦死したと言われている。武田方では主要な武将以外に4,600人程の死傷者が出ているが、上杉方では主要な重臣は亡くなっておらず3,400人程が死傷した。

 

亡くなった著名な武将
武田軍:武田信繁、諸角虎定、山本勘助、小笠原若狭、初鹿野源五郎、他重臣が幾人か

上杉軍:主要な重臣に討死なし

戦果戦功
当日の人的被害は武田方が多かったものの、結果的に川中島に残ったのは武田方であった。

 

 

戦後の動きなど

後に川中島を含むこの地方を支配したことを考慮すると武田方の勝利との見方もある。戦術としては謙信が優れているが、政治的な能力は信玄が数段上と言われている。

 

戦いの政治的な影響
武田・上杉の本格的な抗争は、第四次合戦を境に収束し、以後は直接衝突を避けている。武田氏は対外方針を転じて、同盟国相手・今川氏と敵対する織田氏とも外交関係を深め、周辺諸国と婚姻などを通じて関係性を強化する。

北条氏は上杉氏と同盟を組み、武田氏への圧力を加え(越相同盟)、武田氏は織田氏と友好的関係を築き、上杉氏との和睦を模索している(甲越和与)という構図となる。

 

 

逸話、伝説など

①謙信の神頼み
上杉謙信が信心深い性質であったことはよく知られている。
川中島の戦いが続いた10年以上の中でも、第2次 犀川の戦い前後では、川中島のあった善光寺に設置していた仏像等を越後の新善光寺に移設している。また、第4次 八幡原の戦いの年始には戦勝祈願の文を奉納している。

 

②一騎打ち

クライマックスシーンとして有名なのが、上杉謙信が最後の最後に単騎で武田信玄の本陣に斬り込んだというものである。

謙信は信玄に斬りつけるも、信玄は太刀を抜く間もなく軍配の団扇で太刀を防いだと言う。後で調べると七太刀の刀痕があったと伝わっており、実際には謙信以外の武将であったと言う説もあるものの、この戦いが総大将同士が直接対決する程の激戦であったことを示す逸話である。

 

③信玄の片腕・武田信繁
武田信玄が多くの影武者を従えていたことは有名である。『甲陽軍鑑』には、上杉謙信が一騎打ちに挑んだ相手も影武者であり、信玄の弟・信繁であったと伝わっている。

信繁は、武田の副将、信玄の片腕として活躍した名将として名高い。有名な真田幸村の本名・信繁は、武田信繁公の知性と武勇にあやかって、幸村の父・昌幸が名づけたと言う逸話も残っている。

 

④軍師・山本勘助
八幡原での激烈な戦いの被害は甚大で、特に武田方は主要な武将の死傷者も出ている。死者以外にも、信玄の嫡男・義信や信玄自身も負傷している。死者の中でも、軍師・山本勘助の死は後の講談、歌舞伎、人形浄瑠璃など創作にも多く登場している。数々の軍略の真偽のほどは定かではないが、川中島の合戦においては、両総大将以上の存在感を誇った人物とも言われている。

山本勘助については、昭和34年(1959年)に『甲陽軍鑑』での記述にて矛盾があることから架空の人物ではないかとする説があった。しかし、昭和44年(1969年)に武田信玄の書状が発見され、「山本管助」なる人物の記述があり論争を巻き起こしている。信玄が「山本管助」に宛てた書状はいくつか見つかっており、内容は宿老の小山田への見舞、軍事作戦の検討などという重要なものだった。未だ確実ではないが、少なくとも武田の有力家臣の中に「山本管助」なる人物がいたことは間違いない。

 

⑤敵に塩を送る
第四次八幡原の戦いの後、武田方の海津城主高坂弾正が激戦場となった一帯の戦死者の遺体を敵味方の区別なく集めて、手厚く葬ったと言われている。

これを知った上杉謙信は大変感激して、後に塩不足に悩む武田氏に対して直ちに塩を送って、恩に報いたという逸話が残っている。

この時、謙信は「信玄と戦うのは弓矢であり、魚の塩でのことではない」と言ったそうで、後世に美談として伝わっており「敵に塩を送る」という言葉が生まれたとされている。

 

 

まとめ

千曲川と犀川に挟まれた善光寺平の要所・川中島にて、武田方と上杉方が信濃の覇権を巡り対決した川中島の戦い。述べ10年以上、計5回にも及ぶ長き戦いは、もともとは上杉氏は北信濃の与力豪族領の奪回を、武田氏は北信濃の攻略を目的としたものであった。

実際に本格的な合戦になったのは、武田信玄と上杉謙信の一騎打ちで有名な第四次 八幡原の戦いのみであったと言われているが、数々の創作のテーマともなった戦国史上最大規模の戦いであった。

それにしても、有能かつ人望も厚かった武田信繁をこの戦で失っていなければ信玄亡き後の武田家は全く違うものになっていたはずだ。

 

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